第十四章:雨の日に還《かえ》る――陽希十四歳の視点
「じゃ、夕飯までには帰ってくるから」
「分かった」
お祖母ちゃんもまた白髪が増えて小さくなったなと思うと同時に、ガラガラした自分の声に改めて戸惑う。
学校にも似たような声変わり中の同級生が何人もいるが、耳に響く自分の声が変わっていくのはやはり違和感がある。
――バタン、ガチャガチャ。
こちらの思いをよそに玄関からドアを締めて鍵を締める音が響いてきた。
「さて、と」
エアコンのリモコンを取り上げて一気に設定温度を下げ、風量を弱から強に切り換える。
ガーッと機械の作動する音が上から響いてきて涼しい空気が降りてくるのに改めて息を吐いた。
――電気代がかかるから温度をやたらと下げないで。
――あんまり強い冷房に当たってると体に良くないよ。
お母さんやお祖父ちゃんお祖母ちゃんは嫌がるが、俺はこのくらい下げないと暑くて仕方がない。
むしろ、普段の冷房を点けているかどうかも怪しいような暑苦しい部屋でよく皆、平気でいられると思う。
今日はお母さんもお祖父ちゃんも仕事だし、お祖母ちゃんも病院に出かけて俺一人だから、ささやかな贅沢だ。
一応はこの家族共用の書斎で夏休みの宿題やってる訳だし、このくらいは許されるはずだ。
パソコンに開いたWordのウィンドウを改めて見やる。
“「車輪の下」を読んで
二年二組 笹川陽希
僕はこの夏、課題図書の中からこの作品を選びました。ちょうどうちにも母が昔読んだ本があったのと、有名な作品なので一度ちゃんと読んでみたかったからです。
とても悲しい話でした。主人公のハンスは最後に死んでしまうのですから。苦しんでいる彼を結局は誰も助けてくれないのです。”
これだとまだ規定の二千字には程遠い。
「これでいいじゃねえかよ」
どうして読んだ時に感じてもいない内容を付け足す必要があるのだろうか。
「俺は文才がないんだ」
ミオは去年、紅楼夢の感想文でコンクールに入選した。
だが、自分はあんな注釈だらけの長たらしい古典シリーズを読み通すのも拷問ならば、原稿用紙五枚分の文章を綴るのも苦行としか思えない。
――ミオちゃんは早生まれでも成績がいいのに、あんたは頭が悪いんだから。
実際のところ、自分は学校でも真ん中どころなのだが、お母さんは落ちこぼれのように貶す。
ハンスのお父さんは一応は息子の優秀さに期待してくれていたのに、俺のお母さんはひたすら否定しかしてこない。
「持って生まれたものが違うんだ」
書きかけの文章はそのまま保存して、新たなウィンドウを開く。
*****
ヘッドフォンを着けて視聴する、無料のポルノサイト。
今は誰もいないが、家族の誰かが帰ってきた時に音声を聞き付けられるとまずいので一種の隠蔽工作として普段音楽を聴いたり一般的な動画サイトを観る時と同じヘッドフォンを着けている。
この方が好きなだけ音声を大きくして聴けるという利点もあるのだ。
後は閲覧履歴は動画を一つ見終わる度に削除しておけば完璧だ。
そう念じつつ、この前も一人で家にいる時に観て気に入った動画をキーワード検索する。
あった!
サムネイルの柔らかな笑顔に胸が高鳴った。
*****
この女の人は外国人でターシャさん(ターシャとサーシャの姉弟は去年ロシアに帰ってしまった)みたいなスラッとした長身だけれど、栗色の弛い天然パーマ(ではないかもしれないが)の髪といい、薄桃色の肌といい、黒目勝ちの目といい、ミオに似た面影がある。
水色のレースのランジェリー姿で登場してはにかんだ風な柔らかな笑顔を浮かべると、幼なじみが画面の中から誘い掛けてくるような錯覚に囚われる。
むろん、本物の、二人でいる時は相変わらず自分のことを「俺」と言う美生子がこんないかにも女らしい下着をつけて媚態じみた振る舞いをしてくれることはない。
そう思うと、胸が微かに締め付けられるが、画面の女性は惜しげもなく水色の肌着を脱いで白桃じみたふくよかな胸を露にして横たわる。
これはマッサージを受ける女性が最終的に施術する男性と性交渉に至るシチュエーションのポルノ動画だ。
女性を無理やり襲ったり明らかに苦痛な行為をさせたり屈辱的な扱いをしたりする動画は興奮より嫌な感じを覚えるので好きではない。
これは女性が飽くまで快楽を覚える反応や表情に重点が置かれているので、画面を通して自分が彼女に触れて喜ばせているような気分を味わえる。
薄桃色の顔をいっそう紅潮させ、目を閉じて切なげな声を上げている女性の姿を眺めていると、こちらも胸が高鳴りつついっそう締め付けられてくる。
自分もいつかこうした関係が現実に持てるだろうか。
――ガーッ。
ヘッドフォン越しにエアコンの作動する無機的な音が響いてきた。
後ろから流れ込んできた微かに
思わず振り向くと、少し離れた書斎の出入り口に母親が立っていた。
「あ……」
ヘッドフォンを外す。そうすると、女性の嬌声は遠ざかってゆったりした感じのBGMだけが漏れて響いてきた。裸の男女が抱き合うウィンドウごと消す。
音の消えた画面には書きかけの読書感想文を示したウィンドウだけが残った。
――ガーッ。
冷房の動く音がまた思い出したように母子の上に降ってくる。
ひんやりした風と共に書斎の畳のどこか湿った匂いが浮かび上がるようにして通り過ぎた。
母親は表情の消えた顔つきで言葉もなくこちらを見つめている。
濡れて蒼白い顔や近頃いっそう痩せた体に張り付いた髪や服でどうやら雨の中を急いで帰ってきたらしいと知れた。
書斎のカーテン越しにも曇った薄暗い天気と微かな雨音が確かめられる。
「お母さん、帰ってきてたんだね」
そうだ、今月からはシフトがまた変わってお母さんはこの曜日は少し早く買ってくるんだった。夏休みで学校も休みならバレエ教室も日程が変則的になったりして曜日の感覚が狂い、すっかり忘れていた。
おまけに動画に夢中になっていた自分は母親が玄関の鍵を開けて入ってくる音にも気付かなかったのだ。
最初の狼狽が収まる代わりに後悔と苦々しさがこみ上げてきた。
――あんた、何、見てんの?
――そんな嫌らしいもの見て。
どうせそんなことを言われるんだろう。
普段からお母さんはテレビでもそういう場面になると嫌な顔をして何も言わずに消すくらいだし。
苛立った母親の声を予想しながら、まだ余白の方が多いウィンドウに新たにお茶を濁す文句を打ち込む。
“僕はこの本を読んで”
「あはは」
不意に乾いた笑い声がした。声自体はむしろ密やかだったにも関わらず、その響きには思わず振り向くほどゾッとするものが込められていた。
「いつも観てるんでしょ、そういうの」
長い髪と服を濡らした母親は端の僅かにつり上がった、切れ込みの深い、ほとんど三重に近くなった二重瞼の切れ長い瞳で見下ろしている。
俺もこういう目の形をしていると思うと、厭わしさを覚えた。
母親の方はこちらを見詰めているようでどこか虚ろな眼差しだ。
「知ってるよ」
乾いた声で続けると、口紅の剥げた小さな唇を歪めて笑った。
何て陰鬱な笑い方だろう。
冷房の音に混ざってシトシトと窓の外から響いてくる雨音を遠く聞きながら肌が粟立つのを感じた。
まるで怨霊だ。
そりゃよそのお母さんだって中学生の息子が隠れてポルノ動画なんか観ていれば怒るだろうが、うちのお母さんにはそれ以上に世間で言う温かなお母さんらしさがないのだ。
俺は昔からこの人と一緒にいる時が一番息苦しくなる。
「やっぱり、息子なんかいらなかった」
虚ろな瞳で語る声には憎しみよりも苦い悔いが滲んでいた。
「苦労して育てたってろくでもない男がまた一人増えるだけなんだから」
濡れた前髪から落ちた雫が母親の痩せこけた蒼白い頬を伝い落ちていく。
――シトシトシトシトシト……。
雨が濡れて水溜まりの出来た地面をなおも打つ音が響いてきた。
ガラス戸を固く閉め切ってエアコンをかけているはずなのに、母子の向かい合う書斎には湿った
「じゃ、最初から産まなきゃ良かっただろ」
沈黙を破ったのは、割れかけのガラガラした声だった。
「誰が産んでくれと頼んだよ」
いかにも反抗期の息子の台詞だなあ。そう思うと何だかおかしくもないのに笑えた。
今、鏡を見たら、きっと、陰気で卑屈な、嫌らしい笑い顔が映るに違いない。
母親の目に恐怖が浮かび上がった。無言で後ずさっていく姿に思わず椅子から立ち上がる。
「何で産んだの?」
最初からお父さんもいないのに。
余裕もなくて苦しいだけなのに。
愛してもくれないのに。
「俺は拒否されてばっかり」
息子より小さくなった母親はまるで銃か刃物でも突き付けられているかのように顎のすぐ下に両手を
「来るな」
禁止よりも恐怖を強く示した声で言い放つと、見開かれた母親の切れ長い瞳に涙が宿って震えた。
夏休み前に測った身長は百七十三センチ、体重は五十五キロ。
もう大人と変わらない体になった自分をお母さんは今まで以上に嫌い、同時に恐れているのだ。
その発見はいっそう胸の内を暗澹とさせた。
――ガーッ。
また冷房の稼働する音がして、肌が粟立った。
どうしてこんなバカ低い温度に設定しちゃったんだろう。
外では雨が降っているのに。
濡れて帰ってきたお母さんはきっと寒いくらいのはずだ。
紙のように白くなった顔で小刻みに震えている相手に両手を伸ばす。
「ママ」
お願いだから、抱き締めて。
次の瞬間、視野が衝撃と共に真っ暗になって、次いで左足の甲にもバサリという音と共にやや弱い衝撃を覚えた。
目に本をぶつけられた。
じんわりと熱く滲み出した左目を押さえた所で、耳を引きちぎるような罵声が響き渡った。
「お前なんか死ね! 地獄に落ちろ!」
*****
雨が勢いを増しながら頭と言わず肩と言わず打ち付ける。
そういえば、台風が来るとネットのニュース記事でも見た。
その時は別の地域が危ないという感じの書き方だったが、進路が変わったのだろうか。
半袖とハーフパンツから抜き出た腕も脚ももうずぶ濡れだ。
裸足のまま履いたスニーカーの中ももう砂混じりの水で浸されている。
俺はどこに行くんだろう。
財布も何も持たずに飛び出したから、遠くには行けない。
多分、自分は夜にはまた家に戻っているんだろうな。
たまに出掛けた時の常でお祖母ちゃんが駅の地下辺りで買ってきたお総菜の並ぶ食卓を囲む自分たちの姿が浮かんできた。
多分、いつも通りお祖母ちゃんは自分の皿から俺の好きなおかずを寄越して、お祖父ちゃんは食べながらテレビのニュースを観ていて、お母さんは黙ってこちらとは目も合わせずに箸を動かすんだ。
恐らくお母さんはお祖父ちゃんお祖母ちゃんには今のことは言わないだろう。
俺が家に戻ってまた顔を合わせても今まで通り極力こちらを視野に入れない、たまに口を利いても突っ放すことしか話さない態度を取り続けるんだ。
濡れたアスファルトの匂いを吸い込むと、目の中に流れ込んだ雨の雫が熱く滲んだ。
でも、俺はもう二度とそういうお母さんを目にしたくない。
心の底でずっと拒絶されていてもう和解する余地もないと分かってしまったから。
ゴウッと風が斜め上から殴り付けてきてバラバラと雨の
固く結んだ口の中にはしょっぱい味がした。
――やっぱり息子なんか要らなかった。
――苦労して育てたって、ろくでもない男がまた一人増えるだけなんだから。
ピンクのベビー服を着た
あれはやはり最初から自分には与えられていない幻だったのだ。
物心ついた時からお母さんには邪険にされてきた記憶しかないのに、どうして赤ちゃんの頃は、せめて生まれた時くらいは喜ばれて愛されていたように思おうとしたのだろう。
そして、心の底に息子への温かい気持ちがまだ残っているかのように期待したりしたのだろう。
――お前なんか死ね! 地獄に落ちろ!
ついさっき耳にしたばかりの叫びがより深く胸に突き刺さるのを覚えて、もう痛くはないはずの目がまた熱く滲んだ。
――ゴーッ。
斜め上の雨風を受けながら歩いてきた足はいつの間にか橋の
――ゴーッ。
いつもの倍は
――ゴーッ。
橋の半ばまで来て見下ろすと、底の見えない土の色に濁った水が白い
濡れたアスファルトの匂いに混じって微かな泥の匂いがした。
今、ここから飛び降りたら思い切り砂利に激突しなくても濁流に流され飲み込まれて溺れ死ぬだろう。
実際の死は「車輪の下」のハンスみたいな綺麗なもんじゃない。
俺がこんな泥水に飛び込んだってきっと見たくもないような
欄干を強く握り締めたまま、足許がガクガク震えた。
自分はまだ生きていたいのか。死ねずに母親の憎しみの待つ家に戻るのか。
俺が今ここで自殺したってお母さんには悲しいどころかやっと厄介払い出来たくらいの話なんだろう。
――ゴーッ。
眼下をまだ枝に青緑の葉を付けた小さな木が泥そのものの色をした水に浮きつ沈みつしながら押し流されていく。
あれはどこから削られて落ちた若木なのだろうか。
目で追ってももう濁流に呑まれて影も形も見えない。
泥の色をした川の流れていく先には黒灰色の雲の立ち込める空が広がっていた。
曇り空が曇り空のままいつの間にかまた一段階薄暗くなったようだ。
今、何時なんだろう?
多分、晴れていてももう日が暮れ出す時刻だ。
――ハルくんは夕方、たった一人で橋から飛び降りたんでしょ。
ふと向日葵柄のワンピースを着た陽子おばさんが沈痛な面持ちで母親に告げる姿が浮かんだ。
――私たちはあの子のことで随分手抜かりをしてきたんじゃないの?
円らな瞳には潤んだ光が宿っている。
そうだ、少なくとも陽子おばさんは赤ん坊の頃から見守ってきた俺の死を純粋に悲しんでくれるはずだ。
それと……。
「ハル?」
雨風と濁流のざわめきから不意に温かな声が浮かび上がった。
「ミオ」
群青のリュックサックを背負い、ダボっとしたセルリアンブルーのTシャツに黒のハーフパンツを履いた、しかし、ハーフアップにした長い髪は濡れて肩に垂れた美生子が少し離れた場所に立っている。
「俺も傘、壊れちゃった」
手に持った傘はミントグリーンの生地が半ば外れて折れた親骨が覗いていた。
――ガシャン。
次の瞬間、二人の足元にひしゃげた傘が落ちる音が響いた。
「ハル?」
「ミオ……」
そうだ、今日は美生子の英語塾に行く曜日だった。一緒なのはバレエだけで、相手には他にも親がお金を出してくれて学べる世界があるのだ。
どこか冷静な頭の片隅で思い出しつつ紺色のリュックサックごと自分より頭一つ分小さな体を抱き締める。
濡れたアスファルトと泥に混じってふわりと椿に似た甘い香りが立ち上った。
これはミオの髪からする匂いだ。
カーッと胸も目頭も熱くなって濡れた栗色の髪が垂れたセルリアンブルーのTシャツの肩に顔を埋めた。
椿じみた甘い香りに
「俺……」
後は言葉にならない泣き声が漏れる。
濡れた服を着た相手の体は抱き締めればそこだけが命そのもののように温かかった。
――ウゥーウウウ、ウゥー……。
サイレンの音が遠く響いてくる。
ずっとこうしているわけにはいかない。
だが、今はこうしていたい。
トゥク、トゥクと安らかな鼓動を打つこの温かな、自分とは異なる柔らかに丸みを帯びた体を抱き締めていたかった。
小一時間ほど前に動画で目にした女性の白桃じみた乳房や紅く上気した顔の潤んだ眼差し、切なげな声が閉じた瞼の裏に蘇る。
ふと背中を柔らかな掌が優しく叩いた。
「うちに行こっか」
女の子の声をした兄貴分の口調だ。
*****
「朝から雨降ってるし、台風も近いからあんま英語行きたくなかったけど、先週旅行で休んだから、続けて休むわけにもいかなくてさ」
美生子はひしゃげた傘をステッキのように振りながら苦笑いする。
二人ともすっかりずぶ濡れだが、不思議と寒くも惨めでもなかった。
隣り合って歩く仲間がいるからだ。
「それで行ってみたら、教室は半分くらいしか来てなかったんだよ」
カラカラとセルリアンブルーのTシャツの華奢な肩を震わせて笑う。
本来はダボッとした、体の線を覆い隠す仕立ての服は、今は水着さながら貼り付いて、美生子の小柄で華奢な体の割に突き出た胸を浮き上がらせていた。
どうしてこいつは女なんだろう。
ゴウッと行く手からの雨と砂を含む風を受けながら思う。
バレエを習って髪こそ長くしてハーフアップにしているけれど、いつも胸も尻も隠れるような大きめの服を着て、二人でいる時は自分を「俺」と言うような奴なのに。
ミオが例えば雅希君のような男だったら、純粋に良い友達、兄貴分だと思えるのに。
――カヨと同じ高校行こうって話してるけど、俺は頭悪いから。
照れたような、しかし、誇らしげな
小学校から一緒の同級生の女の子と中学に入ってから付き合い出したのだという。
“カヨ”というその子に直接会ったことはないが、雅希の見せてくれた写真では黒く真っ直ぐな髪をショートカットにした、肌の浅黒い、男の子と見紛うような雰囲気だった。
――昔から一緒にサッカーやってたけど、今は俺が男子サッカー部の副キャプで、向こうは女子サッカー部のキャプなんだ。
――文武両道で成績も学年でトップクラスなんだけど、男で『好き』と言ってくれたのは俺だけだそうだ。
延々続く
ただ、一つ上で自分と面差しや背格好も似通った再従兄にはもうそんな相手がいるのはやはり羨ましかった。
――ハルくんにはカノジョいないの?
桜色のワンピースを着てお下げ髪をピンクの玉飾り付きのゴムで結わえた四歳の詩乃ちゃんのクリクリした大きな目といとけない声が次いで蘇る。
――いたらいいんだけどね。
――マサくんにはカノジョいるのになんでハルくんにはいないの?
小さなお下げの頭を傾げる。
この幼い再従妹にはたまに会う自分が一つ屋根の下で暮らす兄のコピーのように捉えられているのだ。
――カレシやカノジョのいる人ばっかりじゃないんだよ。
笑いに紛らした自分の表情をじっと見上げていた再従妹は不意にパッと笑顔になった。
――じゃ、シノがハルくんのカノジョになる!
両手を広げるようにして上げる。
これはこの子の“抱っこして”のポーズだ。
――もっと大きくならないとダメだよ。
桜色のワンピースを纏った体は前よりは割増で重くなっていたが、寄せられた小さな頬からはふわりと乳臭い匂いがした。
自分たちも昔はこんな風に好きも嫌いも隠さずに現せたのだ、それで許されたのだと思うとまた胸の奥が疼くのだった。
同時に自分が女の子であることに微塵も疑問を抱かずに受け入れて女の子らしい装いを素直に好んでいる相手が得難くも思えた。
ミオは小さな頃からそうではなかったから。
昔から女の子にしか見えないし、体は女に相応しい成長をしているのに。
突き出た胸と尻に対してなだらかな美生子の肩には男物らしい群青のリュックサックはいかにも重そうに見えた。
「英語教室って
今、思い出したという風に、さりげない調子で問い掛けてみる。
一学年上の、つまり美生子とは同級生の男子生徒だが、後輩の女子生徒たちが噂しているのを良く見掛ける。
あの先輩は一般にはイケメンと言って良いし、バスケ部のキャプテンをしているし、何より家が金持ちだと言う話だ。
母子家庭でバレエしか習わせてもらえない自分と違って美生子には自分の知らない世界や交遊が
そう思うと、何も持たずに着の身着のまま出てきた、中までぐっしょり泥水に浸かったスニーカーの足が思い出したように重くなった。
「ああ」
ひしゃげた傘をぶらつかせていた相手は本当にやっと思い出した風に濡れたハーフアップの頭を頷けた。
「曜日が違うせいか英語の教室では全然会ったことないけど」
拍子抜けするほど無関心な表情と口調だ。
「そうなんだ」
他の男に好意は向いていないと安堵するのとミオはやはり男全体に興味がないのだと苛立つのが半ばする。
こちらの思いをよそに前を向き直った相手は軽い驚きの声を上げた。
「あれ、お母さんだ」
思わずギクリとしてから、行く手の薄暗い雨の風景から浮かび上がった朱色の傘とふくよかな向日葵柄のワンピース姿にほっとする。
そうだ、あれは陽子おばさんだ。
「お母さーん!」
小走りに駆け出した群青のリュックサックの背を追って自分も走り出す。
朱色の傘が開いたままさっと揺れてやや肥った小麦色の、しかし、円らな瞳は美生子そっくりの顔がこちらに向けられた。
何だか虚ろな、表情らしい表情を消し去ったような顔つきだ。
と、 娘の後ろから駆けてくる自分の姿を認めると、黒目の勝った円らな瞳に一瞬、恐れじみた色が走った。
どうしたんだろう?
こちらの胸もざわつく。
「ハルくん」
囁くような乾いた声なのに雨風の中からはっきり聞こえた。
「今、おうちに行くところだったの」
怪訝な顔つきで眺める娘をすり抜けてこちらに歩み寄ってくる。
こんな表情のない、幽霊みたいな面持ちのおばさんは初めてだ。
思わずこちらも足を止めて身を固くする。
と、朱色の傘が守るようにこちらの頭の上に掲げられて、小麦色のふっくらした掌が片方の肩に置かれた。
――バラバラバラッ!
傘の生地を打ち抜かんばかりに叩く雨の音が耳に響いた。
こんな強い雨の下を自分たちは今まで歩いてきたのだ。
今更ながら思う。
次の瞬間、肩に置かれた温かな手がギュッと握り締められ、張り詰めていた小麦色の顔がグシャグシャになった。
「キヨが死んじゃった」
*****
「ちょうど私がスーパーに行こうとして歩いている時に『ヨウ!』って呼ぶ声がして、振り向いたらキヨが車道を横切って走ってくるところだったの。そこに車が来て、あっという間だった」
「そうですか」
嘘のように穏やかな死に顔だ。何だかほのかに笑っているようにすら見える。生きている時は怨霊みたいだったのに。
「最後にキヨが笑って『ヨウ、私……』って言いかけて、こっちが『何?』って聞き返したらそのまま事切れた」
「そう」
お母さんは最後に陽子おばさんに会って笑っていたのだ。
だからこんなに幸せそうな死に顔なんだ。
警察署で保管されていた所持品の内、母親が差していた本人の若草色の傘は綺麗なままだ。
だが、手に持っていた俺の黒い傘は――恐らく車にぶつかったのだろう――骨がグシャグシャに折れて破けた生地から飛び出している。
これが人間なら惨死体だ。
ふと柔らかで温かな手が背を擦った。
「お母さんは最後までハルくんのことを思って逝ったんだよ」
嘘だ。
お母さんの視野に最初から俺はいなかった。最後まで我が子として受け入れて愛する気持ちなどなかった。
――お前なんか死ね! 地獄に堕ちろ!
耳をつんざくような罵声が頭の中に鳴り響いて体が震える。
結局はあれがたった一人の息子に残した最後の言葉になった。
見詰める内に潰れた傘の残骸がジワリと熱く滲んだ。
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