第十三章:水の体、泥の心――美生子十三歳の視点

“8x-9y+x+18y”

 これは順序を変えて同類項でまとめるのだ。

“=8x+x-9y+18y”

“=(8+1)x+(-9+18)y”

“=9x+9y”

 xもyも一まとめにすると、結局同じ数だけあるらしい。

「美生子、アマゾンで本届いたよ」

 玄関からの母親の声に解きかけの夏休みの課題ワークを机に広げたまま冷房を点けた居間のドアを開けて出る。

 ムアッとまるでこちらこそ暖房をフル稼働させたように蒸し暑い空気が押し寄せた。


 *****

「そんなに何冊も買って。図書館で借りればいいじゃないの」

 自分は飽くまでお正月に貰ったお年玉の残りと毎月のお小遣いを溜めて買ったのに、お母さんはいざ好きな物を買うと無駄遣いのように言う。

「図書館はいつか返さなきゃいけないし、読者感想文書くにはちゃんと手元にある本で内容確かめたいから」

 返事を待たずに段ボール箱を持ち上げると、さすがにズシリと重い。

 Amazonで買った紅楼夢の全巻。これは全百二十回、清代の中国を舞台に名家の息子として生まれた美少年の賈宝玉かほうぎょくと彼を巡る美少女たちの運命を描いた、日本で言えば源氏物語に匹敵する大長編だ。


 *****

「まだ、宿題途中でしょ」

「いいじゃん、今日で英語は半分までやったし、数学も二回分やったよ」

 今日の午後には本が届く予定から逆算して、お母さんが言及しそうな科目の宿題にはやった実績を予め作っておいた。

 冷蔵庫で冷やしたペットボトルの黒ウーロン茶を啜りながら、ページを捲ると、まだ幼い少年の宝玉が語る有名な台詞が目に飛び込んできた。

“女の子の体は水で出来ていて目にすれば爽やかな気分になる。だが、男の体は泥で出来ていて目にすると胸がむかつくのだ”

 自分のような体は女の子で心は男の子だとどんな扱いになるのだろうか。

 これは賈宝玉はもちろん、清代、日本でいえば江戸時代の男性知識人である作者の曹雪芹や高鶚にも想定外の存在だろう。

 紅楼夢には、私塾の後輩に関係を迫る同性愛者の男やヒロイン薛宝釵せつほうさの兄の薛蟠せっぱんのように女遊びを繰り返す一方で美男子の役者にも目をつけて言い寄ろうとする両性愛者バイセクシャルも登場する。

 宝玉と夭折する友人の秦鐘しんしょうの交流もどこか同性愛的に見えなくもない。

 しかし、女性の同性愛者や両性愛者的なキャラクターとなるとまず見当たらない。これは夫以外の男性とも関係を持とうとするいわゆる「淫婦」設定の人物を含めて「女性は男性のみを愛し求めるものだ」という女性への無意識の抑圧の現れだろう。

 そして、心と体の性別が異なる人物となると紅楼夢の世界には影も形もないのだ。

 清代当時、そんな人がいたとしても体の性別に合わせて生きていくしかなかっただろうし(今に生きる自分だって表面的には体通りの女の子として生きている)、曹雪芹や高鶚にしても恐らくは心も体も完全な男性の異性愛者だっただろうから、創作としても考えつかなかったのだろう。

 そもそも当時の上層男性である彼らの言う「体が水で出来ている女の子」だって、決して「女の子」全体ではなく「深窓の令嬢、そうでなくとも男の目を喜ばせる見目良い女の子」に限定された話かもしれないのだ。

 そこまで考えたところでターコイズブルーというのが正式名称のようだが水色と黄緑の中間めいた色のTシャツの胸に手を当ててふっと息を吐く。

 こうして家にいる時だとブラジャーは窮屈だし、何よりこの暑さで学校が夏休みに入る頃にはブラジャーの跡がすっかり汗疹あせもになってしまったので着けていない。

 しかし、ゴールデンウィークに測り直して新たに買ったブラジャーのサイズはC60、いわゆるCカップだ。

 十三歳、早生まれの中学二年生にしては胸もお尻も大きな部類だろう。

 バレエ教室での

「あなた、その体型はバレリーナじゃないよ」

「美生子ちゃん、ちょっと肥り過ぎじゃない?」

という女の子たちからの暗黙の非難や憐れみを込めた目線もそうだが、学校の教室やあるいは外を歩いていても

「この子はもう胸が大きい」

という男の子(あるいは男の人)たちからの好奇や品定めの絡む視線を感じると、体がゾワッとする。

 同時に、女に分類される体に生まれ、去年には初潮を迎えて、日々体の性別に相応しい体型に成長していく、髪を伸ばして女の役を踊る習い事までして心を偽っている自分が一番グロテスクで嘘偽りに満ちた存在に思えるのだ。

 飲み込んだ黒ウーロン茶の味が喉の奥に苦くこびりつく。

 痩せないまでもこれ以上は肥らないようにと飲み始めた黒ウーロン茶だが、味がより苦いこと以外は普通のウーロン茶と具体的に効能がどれほど違うのかは本当の所は分からない。

 この前測った身長は百五十二センチ、体重は四十五キロ。

 バレエ教室ではさておき一般には決して肥満に該当しない数値だ。

――無理して痩せる必要はない。

――あなたはそのままでいい。

 そんな言葉すら掛けられるような話かもしれない。

 というより、バレエ教室にだってもっとふくよかな人はいるし、何よりも俺はバレリーナになりたいからこんな苦いお茶を飲んでいるのではない。

 少しでもこの体に「女らしい」脂肪を着けるのを食い止めたいから飲んでいるのだ。

 何だか昔話に出てくる「若返りの薬」と本人が信じるものを飲み続ける人みたいだ。

 実は毒で却って死を早めたとか悲惨なオチが付いているような。

――ガラガラ。

 不意に台所との仕切りのガラス戸の開く音がした。

 台所に置いたジャガイモの土臭い匂いやネギの青臭い匂いと共に温い空気が入り込んでくる。

西瓜すいか切ったよ」

 母親は小麦色の丸い顔に顎を二重にして笑っている。

 お母さんはまた少し肥ったようだ。

「ああ」

 こちらの思いをよそに母親は扇形に切り揃えた赤い西瓜の並ぶ皿を運んできてテーブルに置く。

「昨日買ってきて冷蔵庫で冷やしたからおいしいよ」

 今年もまた新たに買った向日葵柄のワンピース姿は横から見ると元から大きな胸やお尻はもちろん体全体の厚みがいっそうに増し、抜きでた腕はより太くなったと思う。

“女の子は年を取ると男に汚されてしまう”

 幼い宝玉の言葉が頭をよぎる。

 紅楼夢では義姉の王熙鳳おうきほう李紈りがんといった既婚子持ちの女性たちも宝玉の慕う対象であり、何よりも祖母の賈後室かこうしつが威厳のある実質的な家長として描かれるので、作者たちの中では必ずしも結婚して子供を産み年を重ねる女性の生き方は否定されていないのだろう。

 それが当時の、というより今も「女性としてあるべき人生」の形だからだ。

 最後に家を出て行方を眩ます宝玉にしたって、亡くなった黛玉たいぎょくを想う気持ちはあったにせよ、現実に自分の妻になり子供を宿した宝釵を蔑んでいるわけではないだろう。

 というより、普通に結婚して子供を産んで我が子のために冷やした西瓜を切って出すお母さんの方が今を生きる誰が見てもまともな人のはずだ。

 体に合わない心を押し隠したまま全てを中途半端にごまかしている自分よりもずっと。

「ありがとう」

 俺の心は泥で、体には生臭い血が流れ、要らない脂肪が着いている。

 わずかに卵色を帯びた午後の陽射しがレースのカーテン越しに差し込む中、扇形に切り取られた赤い果肉の天辺を齧ると、甘いというよりひたすら冷えた感触が口の中に広がった。

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