第二十一章:偽りを断つ時――美生子十八歳の視点(一)
「で、明日の朝から向こうに行くんだ?」
ハンバーグやコーヒーの入り混じった匂いのうっすら漂うファミリーレストランのボックス席。
陽希は苺パフェのホイップクリームを掬いながら訊ねる。
「うん、お母さんと新幹線でね」
こちらもクリームあんみつのバニラのアイスクリームを溶けない内に――できるだけシャリシャリした内に平らげたい気持ちでスプーンで切り込んだ。
明日は都内に借りたアパートへの引っ越し、明後日は大学の入学式だ。
「十八歳の誕生日に上京か」
二日違いで自分も十八歳を迎える幼なじみは何だかドラマや映画のベタな展開を観るような苦笑を浮かべてスプーンのホイップクリームを口に入れる。
「まあいっぺんに記念日が重なる感じだよ」
こちらはまだ固い氷の感触のバニラアイスの切り取りに苦戦しながら答える。
“バイト代入ったし、入学祝い兼誕生祝いにファミレスで好きなものおごるよ”
進学先が決まってからそんなLINEが来て、近所のファミリーレストランでドリンクバーのお茶を飲みながら二人でそれぞれ好きなスイーツを頼んだ。
一応は自分が食べた分も払えるくらいのお金は持ってきてあるし、このクリームあんみつは苺パフェより二百円以上安いから多分ハルの手持ちで足りなくなることはないだろう。
そんな算盤を頭で弾きながらいびつに削り取ったアイスクリームを口に運ぶ。
シャリッと舌の上で小さな霜柱が崩れるような感触がしてうっすらしたバニラの甘みが口の中に広がった。
冷たさと甘さを中和させるべく淹れたての熱い緑茶を本来の一口の半分ほど含む。
「アパートの最寄り駅まで新幹線と電車を乗り継いで二時間以上かかるんだよね」
この緑茶はちょっと苦過ぎると思いつつ、また中和させるべくバニラのアイスを下の
クリームあんみつは確かに好きだが、ハルの頼む物より少しでも安い物をと思って頼んだのは否定できなかった。
親から予備校にまで通わせてもらって東京の私大に進む自分。
高校生でもうアルバイトしている一学年下の幼なじみ。
本来なら自分が奢ってもらうような立場でないのは知っている。
「俺もついてこっか」
向かいの陽希は真顔で言いかけてから冗談だと種明かしする風に吹き出した。
「俺も東京とか京都に行きたいよ」
何気ない調子で呟いてからハート形に似た苺の欠片を噛む顔が酸っぱくなるのは、多分、食べ物のせいだけではない。
ハルの再従兄の雅希君(自分には中学時代に清海おばさんのお葬式で一度会ったきりの相手でしかないし、それは向こうにとっても同じだろうが)も京都の私大に行くことになったそうだ。
両親の揃った、というより、人並みに稼ぐ父親と共に暮らしている自分たちには遠方に出て学ぶ選択肢が持てるのだ。
俺は頭が悪いし勉強も好きじゃないから、とどこか言い訳する風にこいつはよく語る。
しかし、今はお祖母ちゃんと二人で暮らすハルには地元を出て大学に通う選択肢が恐らく現実的にないらしいのはまだアルバイトもしたことのないこちらにも察せられることだ。
「まあ、東京もこれから住んでみれば色々危なくて大変だとは思うけどね」
こちらもどうということのない口調で返してから餡蜜の中で加速度的に柔らかく崩れやすくなっていくアイスクリームをまた一口掬う。
お前も来たきゃ東京に来いよ、とは言えない自分がいかにも無力で相手からの厚意を分捕るだけの人間に思えた。
――ピン、ポン。
無言になった二人の間にどこかの席から呼び出しのベルが鳴る音が浮かび上がるように響いてくる。
*****
「こっちだとまだ『サクラサク』じゃなくて『モモガサク』だね」
夕焼けの道路の脇に広がる一面の桃畑を見渡して陽希が呟いた。
「本当だ、今が満開だね」
三月末の柔らかな夕陽を浴びた木々の枝は艷やかな薄紅の花に覆われて、遠くまで薄紅色の霞がかかったように見える。
こちらの方がソメイヨシノよりはっきりしたピンクで自分は好きだ。
そこで「女の子の色、花」として押し付けられたものでなければピンク色や桃の花自体は好きなのだと改めて気付く。
それでも、自分が体通りの女の心を持っているとはやはり思えないのだった。
そもそも男でピンクや桃の花が好きな人はいるだろう。
ハルだって苺パフェを頼んで食べていたけれど、あれは女の子が好みそうなスイーツというイメージが何となくあるだけであって、実際には苺パフェが好きでない女の子も普通にいるし、逆に男で苺やパフェを好む人も当たり前にいてハルもその一人というに過ぎない。
自分の場合は恋愛として好きになるのがいつも女の子で、男の子に対しては「体の違う同性」としか感じられないという本質的な違和感をずっと抱えているのだ。
知らず識らず俯くと、並んで歩く二人の足が目に入った。どちらも履いているのはスニーカーだが、自分のそれはハルのそれの二回りは小さい。
「東京に行けば、すぐ付き合う相手も出来るかもね」
隣から流れてきた声に思わずギクリとする。
ハルは切れ長い瞳にどこか醒めたような、諦めたような光を宿してこちらを見詰めている。
「色んな人に会えるだろうから」
俺にはもう関係ないから、と突き放された気がした。
音もなく風という程の勢いも持たない冷えた空気が流れてきて、まだ青臭い桃の匂いがする。
今が盛りのこの花々の内、熟した甘い実を成す花はどれほどあるのだろう。
そう思うと、この花霞の景色も、目の前にいる幼なじみも、全てが消え去る前の蝋燭の炎じみた輝きを持って見えた。
今までハルはいつも側にいてくれた。親にも言えないことも察知してくれた。自分がハルを助けるよりハルが自分の力になってくれたことの方が遥かに多かった。これほど自分を理解して助けてくれた人が他にいるだろうか。互いに一人っ子だが、実の兄弟以上だ。
明日、十八歳の誕生日から自分は別の土地に行く。そこで新たに分かり合える相手を見つけられるだろうか。そんな関係が築けるだろうか。
そこで並んで歩くスニーカーの小さい方が止まった。
大きい方も半歩遅れて歩みを止める。
「本当はもう女の子を好きになるなんて止めたい」
何て頼りない声だろう。
舌打ちしたくなるが、相手は黙って静かに自分の肩を叩いた。大きな温かい手だ。コート越しにも分かる。
「好きになる度、俺には辛いことしかないんだ」
他人の目にはハルの方がよほど苦労していて辛いのに。
頭ではそう知っていてもこの痛みを打ち明けられる相手は一人しかいない。
「お前はこれから広い所に行くんだから」
暮れていく道で顔を蔭にした相手はそう告げると促すように背中を押してまた歩き出した。
結局、また自分はハルに甘ったれているのだと思いながら頭一つ分大きな相手の隣で精一杯背筋を伸ばして歩幅を半歩分広くして進む。
*****
「やっぱり東京は春が早いね」
コサージュの付いたクリーム色のスーツを着たお母さんはデジカメのシャッターを切った。
「そうだね」
こちらは満開の桜の下で出来るだけ自然に見える風に笑顔を作る。
入学式用に新調した黒のスーツ。下はせいぜい膝が隠れるまでのタイトスカートだ。
そして、こちらも新たに買ったベージュのストッキングを履いた脚は何だか下半身全体に薄いゴムの膜を貼り付けているような窮屈さを覚える上に少し冷たい風を受ける度に素足よりスースーする感じで落ち着かない。
足にはローファーの黒い革靴を履いているが、正直、靴の着脱だけでも踵の辺りが伝染しそうで不安になる。
そんな脆さで普通の靴下と変わらないか少し高めの値段になるのだから、ストッキングとはつくづく不経済な服飾だ。
女の服装にはそんな非合理が付き纏うのだ。
入学式後の講堂の広間を見渡すと、まるで新たな制服を纏ったように男子学生はパンツスタイルのスーツ、女子学生は一部を除いて自分と同じタイトスカートにストッキングのスーツ姿だ。
私服で混ざっているのはサークルの勧誘に来た上級生たちだろう。
「じゃ、お昼、どっかで食べましょう」
色柄が異なるだけで同じタイトスカートのスーツにストッキングを着け、足にはハイヒールを履いたお母さんは一点の曇りもない笑顔で告げた。
*****
「ストッキングとブラジャーはそれぞれ別のネットに入れて洗濯するんだよ」
お母さんは話しながら洗濯籠から「娘」の脱ぎ捨てたストッキングとブラジャーを取ってファスナー付きのネットに入れる。
「後で自分でやるからいいよ」
どのみち明日からは自分でやらなくてはいけないことだし。
小さな丸テーブルの上に食後に淹れた
ネイビーの長袖シャツに黒のジャージのズボンの自分にクリーム色のスーツを纏ったままのお母さんはまだオレンジ色の口紅の微かに残った唇で苦笑いした。
「せっかくお化粧セットも買ってあげたんだからちょっと試していけば良かったのに」
洗面台の棚に封も開けずに置かれたセットを指し示す。
ゾワッとするのを覚えながら無頓着な風に答えた。
「新入生がガッツリメイクした顔で行ったら却っておかしいよ」
つい数日前までは高校生で口紅など手に取れば怒られる身分だったのに、大学生になった途端、女の子なんだからお化粧くらいしなさいと当たり前のように要請される。
男ならせいぜい体と髪を清潔にして洗濯した服をきちんと着ていれば済むところを女だと無駄とされる部位の体毛を剃り落として顔に色を塗り眉や瞼に線を引く作業までが社会の空気として求められるのだ。
好むと好まざるとに関わらずそういう追加作業をしなければ「女を捨てている」と嗤われる。
男が不潔でだらしない様子でいても「男を捨てている」とは言われないのに、女は姿形を世間で美とする形に合わせる行動そのものが本質のように扱われるのだ。
自分は社会が規定する「女らしさ」を装わないことで「女」という性別そのものを捨てられるのならばむしろ喜んで捨てたいけれど。
「あんた、レスリー・チャンが好きで京劇やら何やらの本を集めて読んでいる割には化粧気もないのね」
お母さんは思い出したように自分もハンドバッグからコンパクトを開いて崩れた化粧を直し始めた。
どうやら洗濯の準備はもうしなくて良いようなのでベッドに寝転がる。
近いような遠いような真っ白な天井を見上げながら
「あれは昔の女形の化粧だから。伝統衣装と同じ」
昔の女形だって舞台を降りれば化粧を落として一般の男性として生活していた。
レスリーだって普段は
「せっかく東京に出してもらったんだからお化粧より勉強だよ」
天井を見詰めながら孝行娘らしいことを言ってみるが、本心ではある。
「政治学科だからこれから色々勉強しないと大変だろうし」
第一志望の国立の文学部は落ちて、第二志望の私立の政治学科に行くことになった。
それでも、就職には却ってこの方が良いかもしれないという目算はある。
「サークルとか良く選んで入りなさいよ」
お母さんの目は既にジャージ姿の「娘」から部屋の隅に置かれた紙袋――入学式で新入生に配布された資料一式を入れた物だ――からはみ出たサークルのチラシの束に注がれている。
「大丈夫だよ、テニスサークルとかじゃなくてちゃんと就職に繋がるような勉強する所で探すから」
インカレのテニスサークルなどはむしろ他大の女子大生がメインで本部校の女子学生(特に自分のような学内では偏差値の高い学科の女子)は敬遠されるようだし、そもそもが男を好きになれない自分などお呼びではないだろう。
「英語とか中国語とか、出来れば留学もしたいし」
本当の自分で生きられる場所に行きたい。
「もう地元には戻らないの?」
穏やかな声だがこちらを振り向いたお母さんはどこか寂しそうに笑っていた。
もしかして、お母さんは知っているのだろうか?
「娘」の心が本当は男であることを。好きになるのも女の子であることを。
今まで幾度となくその可能性を疑って、その度に敢えて目を逸らしてきた疑懼が底知れぬ恐怖と共に頭をもたげる。
サーッと血が引いて手に冷たい汗が湧いた。
昨日引っ越したばかりの部屋の埃っぽい、積み上げた段ボールと壁の塗料の入り混じった匂いが思い出した風に鼻先に蘇って胸の奥が痛みを伴って早打つ。
そうだ。今こそ打ち明けるべき時なのだ。
汗と共に握り締めた拳が震える。
ふっと自分に似た丸く大きな目の、しかし、色は浅黒く中高年の弛みや皺の見える顔が頷いた。
「ミオコの好きなようにしなさい」
「ああ……」
思わず出鼻を挫かれた格好で口から肯定とも否定ともつかない声が漏れた。
「ああしろこうしろと言ったってあんたは聞かないんだから」
これでおしまい、という風にお母さんはストッキングの脚で立ち上がる。
何だか象みたいな脚だ、と頭の片隅で思う。
むろん、そこまでの酷い肥満体ではないが、ストッキングの皮膜が膝に刻まれた深い皺の線を浮かび上がらせているので風雨に耐えてすっかり皮の固くなった象の脚じみて見えた。
「じゃ、もう帰るね」
お母さんは玄関近くに置いていたボストンバッグを持ち上げて告げる。
「ああ……」
そうだ、自分たちはもう別々の家に帰る間柄なのだ。
このまだ荷解きも途中のワンルームが俺の帰ってきた家で、お母さんはこれから新幹線に乗って
今更ながらその事実を思い返しながら、自分もベッドから立ち上がる。
ふと、花盛りの桃畑を背にしたハルの醒めた面持ちが胸に蘇った。
たった二日前なのにもう随分遠い昔に思える。そうなることを見越したからこその突き放した幼なじみの目であったようにも感じた。
「外も暗くなってきたから気を付けてね」
家に一人でいる時は鍵を締めてドアチェーンまで掛けなくてはならない。
女の子は危ないから、とお母さんはこの二日間だけでも幾度となく繰り返した。
自分も体は女だからそうした危険は地元にいる頃から良く知っている。
というより、スーツを着て外を歩いている時も平均より突き出た自分の胸の辺りに纏わり付く見ず知らずの男の視線をそこはかとなく感じた。
お前は女だ、と無言で押し付けてくるような眼差しだ。
「じゃ、何かあったらすぐ連絡して」
お母さんはまるで近所のスーパーにでも出掛けるような、いつもの気軽さで語った。
「分かった」
こちらも素直に頷く。
この人には、こうして「娘」として頼れる部分は頼り、安全に話せることだけ話していけば良いのだ。
相手の姿がアパートの廊下を曲がって消える頃合いで静かにドアを閉じて鍵を締め、ドアチェーンを
ふと、目の下から頬に冷たい雫が伝い落ちるのを感じた。
自分は寂しいのだ。手の甲で両目の周りを拭いながらそう認めざるを得なかった。
だが、これ以上を今は求めることが出来ない。
取り敢えず、シャワーだけ簡単に浴びて今日はもう寝てしまおう。
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