第二十章:ここではないどこかで――陽希十七歳の視点
――タン、トゥーン。
玄関からベルの電子音(『ピンポーン』のような軽やかな音色ではなくもう少しくぐもった響きだといつも思う)が響いてきた。
ミオだ。
ゆっくりした押し方のリズムで分かる。
「はいはい」
自分より先にスモーキーピンクの半袖ブラウスを着たお祖母ちゃんがテーブルに手を付いて重たそうに立ち上がった。
年取ったな。その所作に改めて感じる。
今年確か七十一歳になるお祖母ちゃんは同世代の中では決して老けた部類ではない。
むしろ、お母さんとお祖父ちゃんが亡くなって働きに出てから若返った印象すらあった。
だが、ちょっとした瞬間にやはり老いが覗くのだ。
ブラウスの後ろ姿も昨日まで一緒に旅行していた貴海伯母さん(こちらももう五十近いが)と比べても何となく骨の浮き出た老いが透けて見える気がする。
お祖母ちゃんとはこの先いつまで一緒にいられるのだろう。
俺の家族はもうこの人しか残っていない。
――カシャ、カシャ、ギィーッ。
骨と血管の浮かび出たお祖母ちゃんの手が鍵を開けてドアを開けると、五月の眩しい光と緑の匂いを含んだ微かに蒸し暑い空気が流れ込んできた。
「こんにちは」
エメラルドグリーンよりもう少し淡く優しい、
ゴールデンウィークも終わりに入った陽気の中を来たせいか、白桃じみた頬は微かに汗ばみ、体の線を覆うべく着たらしい大きめのTシャツから抗うように突き出た胸は静かに上下している。
「いらっしゃい」
自分の代わりにお祖母ちゃんのいつの間にか少し嗄れた声が答えた。
*****
「今、うちからも持ってこうと思ってたんだけど」
お祖母ちゃんはうち用に買った八ツ橋の箱を開けながら語る。
しっとりしたお香の匂いが広がった。
これは京都の街全体にうっすら漂っていた香りだと湯気立つ緑茶を三つのマグカップに順繰りに注ぎながら思う。
この朱色のがお祖母ちゃん、クリーム色のが自分、そして白い来客用のがミオのだ。
「いや、うちもこれだけなんで」
美生子も持参した東京土産のミントグリーンのボール箱を開いた。
並んで詰められたチョコクッキーが顔を出す。
「あ」
皆で八つ橋を食べるから緑茶を淹れようとばかり考えてミオが持ってきたお菓子のことは想定していなかった。
「コーヒーとか紅茶の方が良かったかな」
チョコクッキーにはそちらの方が合っている。
「私は緑茶で大丈夫だけど」
私、とさりげなく使う美生子の栗色のポニーテールはクッキーの箱をテーブルの真ん中に動かす煽りを受けて微かに揺れた。
若竹色の大きめのシャツは襟元から抜き出た首の細さや頬や唇のピンク色を際立たせている。
事情を知らない人が見れば、というより内情を知る自分の目にすらむしろ女の子らしい姿に見えた。
「なら良かった」
お前は女なんだ。
そのまま姿通りの、俺以外の他人の前で振る舞う通りの女になってしまえ。
それは言えないまま、湯気の立ち上る白いカップを相手の前に置く。
*****
「京都でお寺参りしたりお土産買ったりした後、大阪のUSJに行ったんだよ」
――デートだよ。
笑って腕を組んできた詩乃ちゃんの姿を思い出す。小学二年生になった再従妹はお気に入りらしい藤色のワンピースを着て貴海伯母さんに編んでもらったお提げ髪を垂らしていた。
雛人形じみたその面影が古いアルバムに載っている子供時代の貴海伯母さんや母親に似通っていることに何となく苦笑する一方で、ミオが小さな頃からこんな風だったら良かったのにといつものことながら胸が締め付けられたのだ。
「うちもディズニーリゾートに行ったよ」
八つ橋を摘んだ美生子は楽しそうに笑っている。その無邪気さが微かに憎かった。
と、思う内に相手の笑顔が笑顔のまま少し寂しくなって付け加える。
「まあ、ゴールデンウィークだから人の海だったけど、家族で旅行に行けるのは今回までだから」
――大学、俺はとにかく入れるとこ行きたいなあ。
旅行中にホテルの隣のベッドに寝転んで呟いた雅希のやはり苦く寂しい笑い顔が蘇った。
――だから京都のお寺ではとにかく合格祈願するよ。
一学年上の再従兄や幼なじみは高三で受験生なのだ。
「美生子ちゃんはやっぱり東京の方の大学に行くの?」
朱色のマグカップを啜っていたお祖母ちゃんが訊ねる。
俺の聞きたいことを代わりに切り出してくれた。ホッとすると同時に次の答えを待つ胸が早打つ。
「入れたらそうしたいです」
一瞬、心臓が止まったような気がした。
視野の中の美生子は照れた風な笑顔で続ける。
「やっぱり東京に出たいかなって」
すぐ向かいに座っているのに鏡に映った虚像のように触れられない所にいる気がした。
「就職だって向こうの方があると思うし」
それはもう戻って来ないという意味なのか。手の中のマグカップが飲まれないまま熱くなる。
「まあ若い内はね」
ふとお祖母ちゃんを振り向くと痛ましい目で自分と幼なじみを見やる眼差しにぶつかった。
お祖母ちゃんは俺の気持ちを知っているのだ。敢えて言い出さないだけで多分ずっと前から。そこに今更気付いた自分が余計に愚鈍に思えて惨めになる。
「外に行って色々吸収した方がいいから」
*****
「フーッ」
もうすぐ階下で夕飯が出来るから寝入ってはいけないと思いつつベッドに横たわる。
初夏の長い日もようやく暮れようとしているようだ。
レースのカーテン越しに見える空はもううっすらオレンジ色に染まっている。
――やっぱり東京に出たいかなって。
先刻目にした幼なじみの笑顔と声が蘇った。
ミオにとって、俺といるこの故郷(と改めて呼ぶと一度は出たことがあるみたいだが)はやはり本来の自分が出せる、そんな希望が持てる場所ではないのだ。
東京に行けば、心が男で女を好きになる自分に相応しい相手が見つかる期待でもしているのだろうか。
――目を覚ませ!
頭の中で美生子の白桃じみた頬を平手打ちにする。
――お前は女なんだ。
化けの皮を引っ剥がしてやるつもりで今日着ていた若竹色のシャツを引き裂く。
そんな想像にザワザワと黒く燃え立つ自分にまた厭わしさを覚えた。
俺を恋愛として好きにならないからといってミオが悪いわけではないのに。
俺が最初から一方的に好きなだけなのに。
多分、自分が他の女の子を好きになって首尾良く付き合うまで出来れば、美生子と自分でない誰かとの恋愛も応援するだけの余裕が持てるのだろう。
それが最善、最適解なのだと頭では分かる。
実際、好意を持ってくれているらしい女の子もクラスにいなくはないのだ。
他人の目で見れば、彼女らの容姿なり性格なりが美生子より大きく劣っているわけでもない。
思い切って他の子と付き合ってみようか。手を繋いで一緒にどこかに出かけたり、キスしたり、それ以上のことをしたり。
全部、ミオとは出来ない、ミオもまだ他の誰かと経験していないだろうことだ。
――この子と付き合ってるんだ。
他の女の子と肩を並べて道で偶然会った美生子に告げる場面が浮かんだ。
――そうなんだ。
想像の中の美生子は晴れやかに笑っている。
自分が別の高校に合格したと分かった時のように。
――じゃ。
何事もなかったように背を向けて遠ざかっていく美生子の後ろ姿が浮かんでくる。
体の線を覆い隠す若竹色の丈の長いTシャツの背中で栗色のポニーテールがゆらゆら揺れる様子まで。
それでおしまいだ。
胸の奥に寒々しい風が吹き抜ける。
まだ、現実に起きてもいない事態なのに。
――今まで気付かなかったけど、やっぱりハルが好き。
潤んだ目で告げに来た美生子を想像の中で抱き締める。
自分が期待しているのは結局、これなのだ。
空っぽの腕で自分の体を抱き締めながら、レースのカーテン越しに暮れていく空を見詰める。
いつまでこんな不毛な思いを抱えていなければならないのだろう。
彼女(という代名詞を使うのも相手には受け入れられないことだろう)が変わることはない、自分が変わるしかないのだから、もうこんな心など捨て去りたい。
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