第十八章︰カノジョではない彼女――陽希十六歳の視点
「購買部、もうアンパンしか無かった」
クラスメイトの杉浦は細い目を糸にして苦笑いする。
高校に入って半月。席が前後ろの関係で良く話すようになった男子生徒だ。
出身中学は異なり、まだ互いに遠慮はあるものの基本は人懐こく話しやすい相手である。
「これじゃちっちゃい子のおやつだよ」
買ってきたばかりの紙パックの牛乳にストローを立て、包装のビニル袋を破って丸いパンに齧り付く。
「弁当忘れると大変だよね」
こちらは弁当箱に詰めた昨日の夕飯の唐揚げを水筒の緑茶と一緒に飲み込む。
「いや、親と喧嘩しちゃってさ」
杉浦はアンパンを頬張りながら苦笑いする。
「今朝はうちの母が弁当も水筒も用意してくれなかったからそのまま出てきたんだ」
「そうか」
いや、水筒くらい自分で用意できるだろ。水洗いした容器に飲み物を注ぐだけだ。むしろ、そんなことまでお母さんに毎日やってもらってるのか。
それは口には出せないまま、これも夕べの残りの
口の中に金平の辛味が中和されて流された代わりに微かな苦味が残った。
「笹川はいっつもきちんとしたおかずの弁当で羨ましいよ」
牛乳のストローをくわえた相手は何だか寂しい笑いを浮かべて目を落としている。
「俺も夕べの残りを適当に詰めてくるだけだよ」
「自分で弁当作ってんだ」
杉浦は細い目の幅を一気に広くする――目が細いので驚いて見開いても「目を丸くする」というより「幅が少し広くなる」が相応しい。
「いや、ご飯やおかずはお祖母ちゃんが作ったやつだけど」
周囲でそれぞれグループを作って食べていたクラスメイトたちの視線が何となくこちらに向けられている気配を感じる。
今だ。
出来るだけどうということのない表情と声で切り出す。
「俺んち、もうお祖母ちゃんと二人だけだし、お祖母ちゃんも仕事で早く出ること多いから」
向かいの杉浦と四方からの眼差しが微かに強張るのが分かった。
ほら、やっぱりこういう空気になるんだ。どこか醒めた目で眺めている自分を感じた。
「ごめんな」
杉浦は食べかけのアンパンを膝に持ったまま、どう続けるべきか迷う表情を一瞬見せてから低く付け加えた。
「知らなかった」
「いいんだよ」
気にしなくていいから、という風に笑って手をちょっと大げさなくらい振って見せる。
「俺みたいなうちはそんなに沢山ないから」
別に悪事を働いているわけではないが、単に少数派だからそうと知れると微妙な空気になる。
「弁当詰めるのだって自分の食いたいもんを食いたい分だけ入れたいからだし」
スーパーのお惣菜調理のパートに出ているお祖母ちゃんは職員割引でお惣菜を次の日も食べられるように沢山買ってくるが、どうしても買う本人の好みに偏ったラインナップになる。
だから、毎朝自分で残ったお惣菜の中から比較的食べたい物を多目に取って詰めることにしたのだ。
土日に二人で買い物に行った時に好きなメーカーの緑茶の二リットルペットボトルを買って毎朝水筒に移して入れれば、五百ミリリットルのペットボトルを四本買うより安上がりだ。
お祖母ちゃんと二人きりで稼ぎ手が一人だけになってから、お母さんとお祖父ちゃんが生きていた時よりもいっそうそうした出費には神経を使うようになった。
稼げないなら使う金を削れ。
それが自ずと身に着けた感覚だ。
「カノジョ要らないな」
杉浦は新たにアンパンを頬張りながらごく無邪気ないつもの笑顔で答えた。
「カノジョ?」
聞き返してから恋人という意味での「彼女」だと思い当たる。
「自分で弁当作れるから」
相手は何の疑いもない顔つきと口調で買ってきた牛乳のストローを吸っている。
「いや、彼女って弁当作る人じゃないし」
普通に返したつもりがちょうど周囲の会話の切れ目で――というより、まだ周りがそれとなくこちらを窺っていて――自分の声が埃っぽい中にそれぞれ持ち寄った昼食の匂いが入り混じる教室に響くのを感じた。
ふと、エプロンを着けた美生子がナプキンに包んだ弁当箱を笑顔で渡してくれる姿が浮かぶ。
自分たちが実際に付き合ってもミオがそんなことをする訳はないだろうし、家族であるお祖母ちゃんや他人でも大人である陽子おばさんが厚意で作ってくれるならまだしも同じ高校生の相手に毎朝食事を用意させる訳にはいかない。
「まあ、そうだね」
向かいに座っている杉浦の笑顔がまた微かに苦いものを含む。
「今は男女平等なんだから男も家事しなきゃおかしいってうちの母も言うよ。何で私も働いてるのにあんたとお父さんの分まで毎朝弁当作んなきゃいけないのって」
お母さんも働いているなら余計にお前もやんなきゃダメだろ。
こちらの思いをよそに相手はやれやれという風に苦笑して続ける。
「俺が手伝おうとすると『自分がやる方が早いからいい』って言うくせにさあ」
――もう小学生なんだからバレエで使う服は自分で洗濯物から取って用意できるでしょ。
――自分の食べた後の
――普通は言われなくても自分からやるの。
母親の苛立ちと厭わしさの混ざった顔と声が蘇る。
俺にはあれが「普通」だった。遠からず一人で生活していくにはそれで良かったのかもしれないが。
「笹川君はカノジョいるよね?」
不意に横から女の子の声がした。
振り向くと、おかっぱ頭に髪を切り揃えた女生徒が笑っていた。
「え?」
この女の子は確か
「合格発表の日に一緒に来てた人」
自分にとっては入学式で同じクラスになった日に初めて顔を合わせたはずの女生徒はどこかウキウキした笑顔で続ける。
「私、あの時、落ちちゃった友達と神社でしばらくお茶飲んで話しててさ、発表の時に学校の門の外で待ってたポニーテルの女の子が笹川君と二人で帰ってくの見かけて、ああカップルだったんだなって思ったんだよ」
「ああ……」
言い掛けた自分の向かいで杉浦も目の幅を広げる。
「笹川、彼女いるんだ?」
「いや……」
口籠ると、また別な方からも声がした。
「一個上の
振り返ると、同じ中学だが、高校で初めて同じクラスになった
「一緒にバレエ習っててよく二人で歩いてるから同じ中学から来た奴は皆、知ってるよ」
「そうなんだ」
再び周りからの目線を感じる。
今度は痛ましいものではなく、どこか羨望の混ざった好奇の眼差しだ。
お祖母ちゃんと二人で暮らす複雑な家庭環境だが、中学から付き合っている彼女がもういる男の子。
そんな風に思われているんだろう。
「カノジョって言うよりアニキみたいなもんだけど」
皆が想像している、他人の噂の中にいる自分の方が本当の自分より遥かに幸せだ。
それは口には出せないまま、弁当箱の残りを掻っ込んで水筒の底に澱を溜めて残っている緑茶を飲み干す。
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