第五章:バレリーナ、バレリーノ。――美生子五歳の視点
「十一月のシーズンになると高いし、割引が利くからうちはもう夏に七五三の写真、撮っちゃったの」
リビングのテーブルで真新しいミニアルバムを開きながら、ハルくんママこと
「ちょうど私のシフトが休みの木曜日に予約が入れられたしね。土日より平日の方が割安になるから」
ハルくんそっくりの長い睫毛の切れ長い目、色味のない白い肌、絹じみた真っ直ぐな黒髪、すっくり長い
おばさんは多分うちのママより「きれい」とか「美人」とか言われる人だと思う。
けれど、ママがくれた昔話の絵本なら白雪姫よりも雪女、オデットより鶴女房みたいな、最後は王子様と幸せに結婚するお姫様ではなく独り去っていく化け物じみた寂しさをこの人の苦いものを含んだ笑顔や低く語る声からいつも感じるのだ。
ハルくんも母親の隣だと何となく俯きがちになって手前の小鉢からフォークで刺した取った白桃の欠片を音を潜める風にして齧っている。
そうだ、ママのせっかく剥いてくれた桃が汚い茶色に変わる前におれも食べないと。
自分の小鉢からフォークで取った果肉を齧るとシャキリと固い歯応えと共にまだ青みを含んだ爽やかな甘さが口の中に広がった。
「あらあら、かっこいいねえ」
ママたちが開いたミニアルバムのページには抹茶色の羽織に白と黒の縦縞模様の袴を穿いたハルくんが刀を構えて映っていた。
自分の三歳の七五三で緋色の花簪に真っ赤な被布の着物を着せられて写真を取る時に持たされたのはすぐに破けそうな紙貼りの傘やきらびやか過ぎて触れるのに気後れするような御殿鞠だったのに。
「おれもそういうのが良かったな」
口に出してから大人二人の振り向いた顔に後悔する。
「あ、わたしもそういう着物で剣を持つのが良かったな」
ママは自分が「おれ」と言うと、「『わたし』でしょ」といつも直させるのだ。
だが、言い直しても、母親は何だか引きつった風な苦い笑いを浮かべている。
その表情を眺めていると、今しがた飲み込んだばかりの白桃の後味が急に舌の奥で酸っぱくなるのを感じた。
「これ、男の子のだよ?」
清海おばさんは切れ長い目にどこか冷たい光を宿した笑顔で半ば念を押す風に告げる。
「そうだけど」
自分はハルくんと同じ男の子ではないの?
皆が言うように女の子なの?
いつも胸の奥で口を開けている暗い穴がまた渦を巻き始める。
「こういう時は女の子の方が着物もお洋服もやっぱり華やかだから」
微かにそれと分かる程度に棘を含んだ声で語る母親の隣でハルくんは俯いて麦茶のグラスのストローを吸う。
おばさんは何故かいつも息子の性別を喜ばない言い方をする。
「このスーツのハルくんなんて見本のモデルみたいじゃない」
ママは今度は小麦色の丸い顔いっぱいにウキウキした笑いを浮かべてミニアルバムの新たに開いたページを指差した。
やっぱり笑うと清海おばさんよりうちのママの方が可愛い。
少なくとも清海おばさんのように普通に笑っているはずなのに怖いと感じることはない。
ハルくんも少しホッとした面持ちで母親二人とその間に広げられた自分の写真を見やっている。
そこにはセピア色の時計台じみた背景に白と黒のチェック模様のスーツにワインレッドの蝶ネクタイを結んだハルくんがどこか大人びた微笑を浮かべて立っていた。
「かっこいいな」
思わず感嘆の声が漏れた。
「王子様みたいだ」
自分もこうなりたいと思う姿をしている。
隣の相手は切れ長い瞳をパッと輝かせた。
「今、バレエやってるけど、男の子は王子様なんだよ」
小鉢にはまだ桃が残っていたが、じっと座っているのにはもう飽いて立ち上がる。
「お姫様を抱いて踊るんだ」
前にテレビで見た王子様役の動きを真似してみるが、初心者の足は自分の体を支えるのにもフラフラとよろけてしまう。
「もっと巧くなって王子様をやりたいな」
幼稚園で同じ組のリカちゃんがバレエをやっていると聞いて自分も少しでも一緒にいたくてママにせがんで同じ教室で習い始めた。
ハルくんも同じ男の子で仲の良い好きなお友達だが、女の子のリカちゃんは眺めていてドキドキするという意味で好きだ。
こちらの思いをよそにハルくんも立ち上がってすぐ向かい側で片脚だけで立つ真似をする。
そうすると、動きはまだまだだが、自分より既に頭半分は背の高いすらりとした体つきといい、短く切り揃えた真っ直ぐな黒い髪といい、端の僅かに切れ上がった目といい、「かっこいい王子様」に相応しく見えた。
栗色の髪も長くて柔らかにクルクルした、皆から女の子と思われている自分よりハルくんの方がバレエを習えば王子様になれるし、リカちゃんも好きになるだろうな。
そう思うと、胸の奥に空いた暗い穴がまた微かに渦を巻き始める。
「女の子はバレリーナだけど、男の子はバレリーノって言うんだって」
習う前から「バレリーナ」という言葉はちょくちょく耳にしたが、教室に通っていても「バレリーノ」という言葉はまず聞かないし、目にする数も少ない。
「バレエダンサー」だとどちらにも使えるようだが、それでも圧倒的に習うのは女の子が多く、また、踊る役も男の子と女の子とでは厳しく分けられているのだ。
「ぼくもミオちゃんとバレエやりたいな」
ハルくんは俯くと半ば諦めた風に呟いた。
夏の午後の陽射しが射し込む居間で、顔を影にした母親たちは黙って子供たちを見詰めている。
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