第六章:雛人形は誰のため――陽希五歳の視点

「凄いなあ」

 花瓶に活けたまだ咲きかけの桃の花の青臭い匂いが仄かに漂う畳の部屋に、目も覚めるような鮮やかな緋毛氈の上に数段に分けて並べられた雛人形。

 和装束の人形のみならず模造の植木や牛車ぎっしゃ箪笥たんすなども置かれているので、古い日本のお屋敷のドールハウスじみた感じもした。

 天井からは赤い紐で繋げられた御殿鞠や金魚、ヒヨコを模した色とりどりの飾り雛が吊るされていた。

 ベビーベットの赤ちゃんをあやす飾りのおもちゃみたいだけど、こちらの方がずっと色鮮やかで豪華だ。

「お店の飾りみたい」

 むしろ、お店のディスプレイ以上だ。

 近所のスーパーで売られていたのは男雛と女雛の二体だけか、せいぜい三人官女のいる二段セットだったから。

「ママのお雛様をお祖母ちゃんちから持ってきたんだって」

 栗色の緩い天然パーマをハーフアップにして垂らしたミオちゃんは小さな木造りのオルゴールの螺子ねじを回す。

「そうなんだ」

 金属音が途中のメロディから新たに奏で始めたのは幼稚園でも繰り返し歌った「うれしいひなまつり」だ。

 ミオちゃんももう「男の子」はやめたのかな?

 相変わらず青の電車デザインのトレーナーにデニムのズボンを履いているけれど、秋から自分も通い出したバレエ教室では自分を「わたし」と言うし、髪型も教室の他の女の子たちがよく結っているスタイルだ。

 それに、教室では同じ組のリカちゃんや他の女の子たちと楽しそうにしている。

 やっぱり、ミオちゃんは女の子だから、男の自分といるより、同じ女の子たちといた方が楽しいのだろうか。

 ぼくはミオちゃんと一緒にいたいからバレエ教室に行っているのに。

――バレエなんて高いし、習い事は本当にこれだけだからね。

――少しでも嫌だとか面倒だとか言ったらすぐ辞めるから。

 苦い顔で突き放すように言って聞かせる母親の姿も蘇ってきて胸の内に陰が射してくる。

 ミオちゃんはバレエの他に英語も習っていて、男の子っぽいとはいえ新しい服をいつも着て、こんなに立派な雛人形も飾ってもらえる。

 自分は今日のオレンジのセーターも再従兄弟の雅希くんや近所の年上の男の子たちのお下がりだし、五月人形だってうちにはないからゴールデンウィークに雅希くんの家に見に行って一緒にお祝いした。

――これは皆の五月人形だから。

 母親に似てもう少し穏やかな顔をした貴海たかみ伯母さんは柏餅を振る舞いながらそう言ってくれたが、あの鎧兜を着て剣を構えた凛々しい武者人形が一つ上の再従兄弟に買い与えられたものであって自分のものではないのは知っている。

「お雛様、嫌い」

 二人の間を流れるオルゴールの旋律が少し緩やかになってきたところでポツリとミオちゃんが呟いた。

「何で?」

 こんなに綺麗なお人形や飾りなのに。

 自分の家で自分のものとして見られるお祝いなのに。

 自分が女の子なら飛び上がって喜ぶだろうし、友達に自慢して回るかもしれない。

「五月人形は男の人形一人だけなのに、お雛様は必ず男雛と女雛が一緒なんだよね」

 ミオちゃんはどこか寂しげな円らな瞳を金屏風を背に仲良く並んだ二体の内裏雛に注いだ。

 藍色の装束が男雛、茜色の装束が女雛。

 自分たちとは逆だと思うと、少しだけ可笑おかしくなる。

「女の子なら必ずお嫁に行かないとダメなのかなあ」

 次第にノロノロと途絶え勝ちになる「うれしいひなまつり」が流れる中、ほんのり薄桃色の肌をしたハーフアップの横顔が俯く。

 金属音で途切れ途切れに奏でられると、この歌は奥に潜めていた悲しさが浮かび上がって響く気がした。

「それは……」

「甘酒入れたよ」

 陽子おばさんの小麦色の丸い笑顔が現れた。

 少し遅れてふわりと温かなこうじの香りが雛祭りの飾り付けをした部屋いっぱいに広がる。

「陽希くんは甘酒大丈夫かな?」

 持ってきたお盆からテーブルの上に甘酒の入ったコップと雛あられの入った小鉢を二人分置いていく。

「大丈夫です」

 陽子おばさんが来るとほっとする。

 自分の家で母親といるよりこの家でおばさんやミオちゃんといる方がよほどくつろげるのだ。

 そう自分に認めるのはどこか寂しかったが、どうしようもなかった。

「いただきます」

 美生子も雛あられは好きらしく、大きな目を細めて摘まみ始めた。

「甘酒あったかくておいしい」

 水色のコップを取り上げて上機嫌で口を着ける。

 ミオちゃんは本当に青や水色が好きだ。

 雛壇の脇に置かれた真新しいランドセルも群青色だ(誕生日は二日しか違わないし、背丈も自分の方が大きいけれど、ミオちゃんはいつも一年早く自分より新しい場所に行ってしまう)。

 もしかしたら、お雛様が好きでないのは青ではなく赤が目立つ飾りだからかもしれない。

 でも、「お嫁に行きたくない」ともミオちゃんは言った。

 小鉢の雛あられから卵色の一粒を摘まんで口に含む。カリリと半ば空洞の粒を噛むと甘い米の味が広がった。

「ゲホゲホ」

 噛み砕いた雛あられの欠片が気管に入ったらしく、軽く咳き込む。

 手前の黄色いカップを取り上げて人肌のように温かな甘酒で飲み下す。

 この黄色いカップもしょっちゅう遊びに来る自分のために陽子おばさんがいつの間にか用意してくれたものだ。

 今は結婚しない女の人も多いし、自分のママのように離婚してしまう女の人もいる。

 ただ、自分が生まれる前に一人になったママより旦那さんと一緒にいて子供のためにお祝いの人形を飾る陽子おばさんや貴海おばさんの方がどう見ても普段から幸せに思えるのだ。

「大丈夫?」

 隣から背中を優しく叩いてから擦る手があった。

「大丈夫だよ」

 擦ってくれたのはおばさんではなくミオちゃんだった。

「ありがとう」

 おばさんは笑顔でこちらを見守りつつ忘れられたように置かれていた木造りのオルゴールの螺子を回す。

 緋毛氈の雛壇と赤い紐で繋げた吊るし雛で飾られ甘酒の匂いがほんのり漂う部屋に、雛祭りを祝う歌が息を吹き返したようにまた響き始めた。

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