第八章:王子様に憧れて――陽希九歳の視点
これは正に王子様だ。
バレエ教室に新たに入ったロシア人姉弟。
十六歳のお姉さんのターシャもすらりとした長身に暗褐色の髪に緑色の目をした外国の女優じみた美人(白人にはよくあることだが、美少女と形容するには日本人の感覚では既に雰囲気が大人過ぎる)だが、十歳の弟のサーシャはプラチナブロンドの髪に水色の瞳を持つ、絵本に出てくる王子様のような姿をしていた。
「ターシャ」「サーシャ」とニックネームだと男女の区別も付かない。
しかし、本名だとターシャは「タチャーナ」、サーシャは「アレクサンドル」だそうで、そうなると名前まで何だか王子様じみている。
何より驚かされたのは姉弟が踊り始めてからだ。
頭の小さい、しかし、手足は周囲よりすらりと長く伸びた二人が動き出すと、その場所だけが光を放つように際立って見えるのだ。
特に弟のサーシャは指先まで隙がなく、眺めていると、彼の動きこそが本当のバレエであり、他の子はもちろん先生までが拙い真似事のように思えてくる。
――こいつは凄い。
他の女の子たちがこの新たに現れたプリンスに見入る様子をいささか面白くない気持ちで確かめつつ美生子に目をやった。
……ああ、やっぱり。
栗色の髪を纏め上げた幼馴染みは白桃じみた頬をより濃いピンクに染めて、外国の女優じみた姉のターシャを目で追っている。
そして、自分の視線には全く気付く気配もなかった。
*****
「ターシャさんって今すぐモデルや女優になれそうだよね!」
まだ春に温まり切らない午後の風に吹かれながら、美生子は円らな瞳を輝かせて語った。
「英語やってるけどロシア語の方が習いたいな」
解いたばかりの髪がふわふわと揺れる。
「そうだね」
これからしばらくはレッスンの帰りにターシャさんの話を聞かされることになりそうだ。
ちょっと前はリカちゃんについてこんな風にウキウキした調子で話していたから。
「サーシャも王子様みたいで凄いと思うけど」
他の男の子の話をするのは嫌だが、何となくそちらに目を向かせたくて切り出す。
「ああ、弟の子もイケメンだし、踊り凄いよね」
“弟の子”
自分が貶された訳でもないのに何故か胸に突き刺さった。
次の瞬間、醒めた苛立ちが腹の底に起きる。サーシャの方がお姉さんより外見も素質も上なくらいなのに、何をおまけのように言っているのか。
そもそもサーシャの方が自分たちより年も一つ上だ。その意味では“お兄ちゃん”と呼んでも良いくらいだ。
そこまで考えたところで、目の前の美生子にふと諦めたような寂しい笑いが過った。
「おれもあのサーシャみたいだったら
また自分を「おれ」と言う。
舌打ちしそうになる寸前でぐっと堪えた。
普段は「私」と皆の前では話すミオが二人でいる時には「おれ」と使う。それは自分に対して特別に心を許しているからなのだ。
「それにサーシャだったら、ターシャさんとずっと一緒にいられるよね」
美生子の薄桃色の頬が今度はより濃いピンクに染まる。
「まあ、
言葉の上では流しつつ、常に自分の中に潜んでいて胸を痛ませる疑いがまた頭をもたげた。
ミオはやっぱりリカちゃんやターシャさんのような同性だけを好きになるのだろうか。
世間には男性を好きになる男性、女性を好きになる女性がいることを小学生の自分も既に知っている。
だが、ミオが、今、自分のすぐ隣を歩いている幼馴染がそうであって欲しくはなかった。
「でも、姉弟なら、例えばターシャさんが結婚したら離れちゃうよ」
自分たちは本当の姉弟でないから結婚できる。
そう思いながら、隣の相手を見やると、まるでいきなり頭から氷水でも掛けられたように固まった面持ちをしていた。
やっぱり、言わなければ良かった。傍らで眺めるこちらにも後悔が襲ってくる。
「そうだね」
美生子はひきつった笑いを浮かべて声だけはどうということもない調子で続けた。
「あんなに素敵な人だから彼氏くらいもういるだろうし」
言い放った水色のコートの肩が目に見えて落ちる。
何でそんなにターシャさんの将来の結婚やまだいるかどうかも分からない恋人の話にそんなに凹むのだ。
大体、綺麗でバレエが巧いといったってまだ良く知りもしない相手なのに。
こんなの、テレビに出てくるアイドルに憧れて騒ぐのと大差ないじゃないか。
そうは言い出せないまま美生子のハーフアップの横顔をまた見やると、水色のコートの肩越しに白地に赤い斑入りの椿が咲いているのが目に焼き付いた。
ついさっき通り過ぎた家の庭には
あちらの植え込みの椿は真っ白だ。
それなのに、この椿の花は
「あの花、変わった模様だけど、綺麗だよね」
不意に美生子がひきつった笑いのまま、円らな瞳をこちらに向けた。
「ああ」
思わずギクリとして続ける。
「でも、何か模様がハデハデで自然じゃない気がする」
完全に一色の花と比べると、あの斑模様の花は元から自然に咲いていた種ではなく、突然変異か人が観賞用に作ったかで現れた種に思えた。
「あれは造花じゃなくて、自然に咲いてる花だよ?」
レッスン後に束髪は解いてもなお上部はかっつりハーフアップに結った緩い天然パーマの髪を揺らしながら、美生子は苦笑いする。
つと、そのカールした栗色の髪が水色のコートの肩に掛かる辺りからどこか鼻にツンと来る甘い芳香がした。
これはミオの匂いだろうか。
それともあの斑の椿の香りだろうか。
人工なのか天然なのか分からないまま漂い去っていく。
「そうだね」
これ以上、相手を落ち込ませたくないので笑顔で頷いて付け加えた。
「あれも綺麗だとは思うよ」
弱い自分を優しいと言ってくれたのは他ならぬミオなのだ。
すっかり日が長くなってまだ明るい春の夕方前の道を二人で歩調を合わせて帰っていく。
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