第二十六章:置き去りの夏――陽希十九歳の視点(二)
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「昼休み、行ってきます」
やっぱり、今日は仕事にならない。
舌打ちしたい思いで呆れ気味の先輩たちの目を逃れるようにしてオフィスを出る。
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外に出ると、纏い付くような湿り気を孕んだ熱気と焼け付く陽射しとアスファルトと排ガスの混ざった臭気が一度に押し寄せた。
散々雨が降った七夕の翌日は嘘のように雲一つない。織姫と彦星が年一度に会う夕べこそ晴れていれば良いのに皮肉なものだ。
だが、昨日が平穏な星空ならば自分たちはこうなれただろうか。
というより、ああした形でも美生子に触れられただろうか。
そんなことを思いつつ電源を切っていたスマートフォンを起動させた。
家を出る前に幾分充電はしたものの、表示されたバッテリーは残量が三割しかない。
どうやら何の通知も来ていないようだ。
LINEのアイコンをタップして「長橋美生子」とのトーク欄を開く。
“雨が降ってきた。先に予約した店の近くに行ってるからゆっくり来て大丈夫だよ”
京劇の女形の装いをした、そもそも白塗りに目の周りを紅く隈取った化粧が異様で一般的な男にも女にも見えない俳優の顔をしたアイコンが語り、
“今、駅を出て向かってる”
と自分の顔写真のアイコンが答えて「既読」の表示が着いた所で終わっていた。
トーク欄での自分たちはまだ夕べの飲み会を始める前だ。
ここに今からどんな言葉を新たに出すべきなのだろう。
――朝起こせと言ったのに何故帰った?
そんな直球の詰問は今の自分には出来ない。
入力欄に恐る恐る文字を打ち込む。
“何とか会社に間に合った。そっちは学校大丈夫だった?”
これなら相手も答えやすいはずだ。
大学の三限は確か昼過ぎに始まるはずだけど、もしかしたら、ミオは昨日のことがあまりにもショックで家で寝ているかもしれない。
向こうとしても全く初めてで、しかも繰り返し行為を求められたのだから、単純に疲れ切っていてもおかしくないのだ。
採点のバイトで徹夜したとかいうことで目の下にうっすら隈があったし。
――今日は起きられなくて寝てる。
もし、そんな返事が来たら、今日は二人分の夕飯を買ってミオのアパートに行こう。
具合が良くなるまで向こうが欲しいという物を揃えて見守ろう。
昨夜の美生子の潤んだ瞳と白桃じみた柔らかな乳房が胸の中で熱く蘇る一方で、子供のように安らかに眠っている美生子にそっと添い寝する自分の姿が浮かんだ。
今日、彼女が疲れて横になっていたら、きっとそうする。
自分は決してミオを叩いたり怖がらせて泣かせたかったりしたのではない。
普通に恋人として付き合いたかっただけだ。
そんな思いを込めてトーク欄に新たに送り出した言葉をじっと見つめる。
「既読」はまだ付かない。
*****
コーヒーと煙草とまだ新しい
「土日ゆっくり休んで切り替えろよ」
そうしないと駄目だぞ、という苛立ちを滲ませた男の先輩の顔と声だ。
この
「はい」
ミスばかりしていた自分にこれ以外の返事は許されていない。
今日の自分は美生子とのことで頭がいっぱいだが、それを打ち明けたところで斎藤さんを始めとする職場の人たちからすれば“お前と幼馴染の女の子の恋バナなんて知ったこっちゃない、ちゃんと仕事しろ”としか思わないだろう。
ここにいる誰もミオとは会ったこともないのだし。
俺だって、例えば斎藤さんが仕事を離れた場所で誰とどんな風に付き合っているかなんて知らないし。
そう思うと、今までは多少解放感すら覚えていた誰も自分を知らない場所で働いているという境遇が急速に孤立無援なものに感じられた。
「お先に失礼します」
自分はいつまでここにいるのだろう。
もしかしたら、自分が大学受験で退職を申し出るより先に会社の方から辞めろという話になるのかもしれない。
試用期間はもう終わって正式採用にはなったけれど、戦力などと呼べるレベルでないことは知っているし、恐らく同じ高卒新入社員の中でも俺は出来ない部類だろう。
目を上げれば誰かの冷ややかな眼差しか視野にも入れない醒め切った横顔にぶつかる気がして、微かに
*****
「あーあ」
オフィスの入ったビルを出て昼間より幾分ぬるくなった空気に包まれながら、両腕を上げて伸び上がる。
二日酔いの頭痛はいつの間にか消えていたが、代わりに体全体に疲れが纏わり付いていた。
とにかく一週間は終わった。
明日と明後日は昼まで寝て美生子に会って良いのだ。
やっと解放された思いでポケットのスマートフォンを取り出して立ち上げる。
ミオはさすがに返事をくれただろうか。
ようやく起ち上がったスマホのトップページに表示されたLINEのアイコンには何の数字も付いていない。
せめてこちらのメッセージは読んでくれただろうか。
ジリジリする思いで緑色のアイコンをタップして一番上に表示されている相手とのトーク欄を開いた。
“何とか会社に間に合った。そっちは学校大丈夫だった?”
自分が昼に送り出した最後の言葉にはまだ何の表示も付いていない。
ミオは読んでいないのだ。
何故見ていない?
ずっと部屋で寝てるのか?
それとも昨夜からスマホをオフにして忘れてる?
それとも……?
答えの代わりに残量が四分の一にまで減っていたバッテリーがまた一パーセント削られた。
“雨が降ってきた。先に予約した店の近くに行ってるからゆっくり来て大丈夫だよ”
京劇の女形のアイコンは夕べの今頃に発信した言葉を最後に何の反応も示していない。
生暖かい風が半袖から抜き出た腕を撫でるようにして通り過ぎる。寒くもないのに肌が粟立つのを覚えた。
ミオ、何でこんな写真をアイコンにしてんだろう。
本当にこの俳優さんのファンなら素顔の写真にすればいいじゃないか。
こんな昔の芝居のベットリ
それとも、素顔になれば結局、彼も男だからそちらは目にしたくないのか。
同性愛者だったために周囲の無理解に絶えず晒され、最後はホテルの屋上から飛び降りて自殺してしまった痛ましい人だと俺にもよく話していたくせに。
急に空っぽになる胸に苦しい息を注ぎ込みながら見上げると、無数の窓ガラスの奥にまだ煌々と灯りを点して林立するビル群とその影の額縁に切り取られた風な灰紫の夜空が目に入った。
昼間は晴れていたのに今は雲が掛かっているのか、それとも地上の灯りのせいで霞んでしまったのか、星一つ見出せない空だ。
今すぐ美生子のアパートに会いに行くべきか、それとも今日はもうこのバッテリーの残量少ないスマホと共に自分の部屋に帰ってまた明日出直すべきか。
決めかねる思いで、ただ、今夜は恐らく疲れていてもなかなか眠れないだろうという予感を抱えながら足は駅に吸い寄せられていく。
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