参ー十


「鬼童丸という名は、”酒呑童子の忌名”だ! どうして隠しておったのだ!」

 

 酷く衝撃を受けたかのように、隻夜叉は呆然と立ち尽くしていた。


 酒呑童子の忌名が”鬼童丸”のものだったなんて知るわけがない。

 それに、隻夜叉が鬼童丸のことを知っているとも思わなかった。


 膝を抱え込んで座ってしまった隻夜叉。

 普段の彼とは思えないような饒舌と声色。冷静さを失い、騒ぎ立つ心を抑えることもなく、彼は酒呑童子について意気揚々と語り始めた。


 隻夜叉の話によると、酒呑童子という名は妖怪の間で呼ばれていた誉れ高き名前であり、鬼童丸という名は人間の間で呼ばれていた名前であるらしい。


「鬼童丸、いや、酒呑童子は余の伴侶である。忌段の妖怪の頂点に君臨し、大天狗や玉藻に肩を並べた大妖怪だ。余は渡辺わたべのつなに右腕を斬り落とされ、八尾山へ退却することになったが、まさか酒呑童子までもが八尾山に来ていたとは……」

 

 遥か昔の記憶を思い出していたのか、隻夜叉は笑みを浮かべながら追憶に耽っていた。


 隻夜叉にとっては朗報であるだろうが、俺にとっては悲報でしかない。

 鬼童丸は俺の霊魂を奪い取った鬼だ。霊魂の殆どを奪われた事で得た物は多かったが、失った物も多かった。


 妖怪や怪異、物の怪や化け物といった霊的存在を視認できるようになったし、それらの存在に付き纏われる事や狙われることも多い。

 

「死人と同じような体になって以来、俺は沢山の化け物たちから狙われるようになった。好き好んで手に入れた物じゃない。普通の女子高生で居られるなら普通でいたい」

「…………」

 

 私立の女学園に通い、専属の家庭教師を雇えるような裕福な家庭でなければ、俺は”幽体化”という異能に苦しまれただろうし、安定した生活も送れなかったに違いない。

 

「どうして酒呑童子は俺の霊魂を奪ったんだろう」

 

 自身が特別な存在だと思えるような”幽体化”という異能は、霊魂を奪われたことにより、奇しくも手に入れた能力だ。誰かに誇れるような異能では決してない。


「酒呑童子が霊魂を奪うよには到底思えん。失礼するぞ……」

 

 隻夜叉はそう言って立ち上がり、俺の正面に佇んだ。その直後、隻夜叉は俺の胸に手を押し当てる。


 何らかの妖術を発動させたらしく、彼が手のひらを押し込んだ瞬間、俺の精神は肉体から強制的に吐き出された。


 強制的な幽体化により、俺の精神は部屋中をぷかぷかと漂い続ける。


「やはりか。お主は霊魂を奪われたと言ったが、それは間違っているようだ。柚子葉童子の肉体には”三つの霊魂”が宿っている」

 

 胸に押し当てた左腕を引き抜く隻夜叉。


 三つの霊魂。もしかして……。


 腕を引き抜いた隻夜叉は語り始めた。

 隻夜叉の話によると、俺の肉体に宿った三つの霊魂は、”俺自身の霊魂”と”酒呑童子の霊魂”、もう一つは”沙華姫の霊魂”であるらしい。

 

「ビックリした。急に幽体化させないでよ!」

「柚子葉童子、驚かせて済まない。人間という生き物は本来、肉体から霊魂が抜けた時点で死に至る。お主が霊魂を奪われたという日を思い出せ。魂を抜き取られた後、何者かが目の前に現れなかったか?」


 確かに隻夜叉が言っていた通り、志恩と葉月兄さんが蛸杉に吸い込まれた直後、誰かが俺の前に現れた気がする。


 シゲシゲでもなく、千代子お祖母ちゃんでもない存在。

 そう、あの黒い影だ。


 その人物が隻夜叉の言う”酒呑童子”だとして、その酒呑童子が俺の体に”自身の霊魂の一部”を注ぎ込んだのだとしたら、彼が言っていた「霊魂が抜けた時点で死に至る」という状況がひっくり返る事になる。


 だけど、それが酒呑童子なのだとしたら、俺の霊魂を奪ったのは”誰”なんだ。そもそもどうして酒呑童子は俺の体に霊魂を注ぎ込んだんだ?

 

「俺自身の霊魂と沙華姫の霊魂、酒呑童子の霊魂が肉体に宿ったのは解った。だけど、納得できないことがある。俺の前に現れた”赤鬼”は誰なんだ?」

「それは解らん。だが、これで一つだけ証明できたことがある。それはお主が本当に”幽体化”の異能を発動できるということだ」

「え? 信じてなかったの?」

「申し訳ないが、お主は”妄想癖のあるジェーケー”だと、倉敷茂殿と千代子殿に忠告されておったのでな。柚子葉童子の発言には耳を貸すなと言われておったのだ」


 なるほど。シゲシゲがチクりやがったのか。

 相変わらず口の軽い銀髪ゴリラだ。後で文句を言わなければならないようだ。


 隻夜叉が差し出していた宝刀を受け取り、俺は自分の意思でもう一度だけ幽体化の異能を発動する。

 

「隻夜叉はここで待っていて」

「良かろう。出来る限りの支援はさせてもらうぞ」


 握り締めた宝刀に霊縛術を施す。その直後、俺の肉体から別離した精神は七度返りの宝刀に吸い込まれた。


――


 誰かの記憶を追体験するように、自分自身の記憶を遡っていき、脳内の奥深くに閉じ込められているだろう記憶に潜り込んだ。


「あら、起きたのね柚子葉。もうちょっとで江ノ島に着くわよ」

 

 聞き覚えのある声の方へと顔を向ける。すると、そこには運転席に座る結衣ママの姿があった。


 背中まで伸びた髪を一本に結び、ゆったりと片側の肩にだけ掛けた結衣ママ。一見、他人に心を開かなそうな顔つきをしているが、それは他人に向けた偽りのものだった。

 手のひらを開いたり閉じたり。頬をつねってみたり叩いてみたりしみるが、手のひらに出来た擦り傷からは本物のような痛みを感じ取れる。


 助手席の窓を開けてみると、蒸し暑い風が車内に入り込んだ。


 どうやら無事に過去の肉体に精神だけを潜り込ませることが出来たらしい。

 

「ねえ結衣ママ。ここってどこ?」

「そうね、今は――海岸沿いだから……」


 カーナビに何度か指を当てる結衣ママ。

 ナビの画面が何度か切り替わり、ここが茅ヶ崎ちがさきのサザンビーチ沿いであることと、今日の日付が”十一年前の八月四日”であることが分かった。


 時刻は午後の三時を過ぎた頃。恐らく、あと数分も経てば江ノ島に到着するのだろう。


 シゲシゲの話が本当であれば、結衣ママは二日後の”八月六日”に何者かによって殺される。

 死因は刺殺。腹部への刺し傷による出血死だ。時間や場所までは分かっていないが、この遠出が関係しているのは間違いないだろう。


 それなら、俺が今できることは――。

 

「ねえ結衣ママ。家に帰りたい」

「ちょっと柚子葉、もうすぐ着くっていうのに何言ってるの!」

「おしっこ漏れそう。もしかしたらウンチも漏らすかもしれない」

「え、コンビニ過ぎちゃったんだけど。もうちょっとだけ我慢できない?」

「ダメ。ここで漏らす。コンビニのトイレは汚いから嫌だ。他人の家ではトイレしたくない。家に帰らないなら……ここで漏らすよ」

「こら!」


 情けない話だ。精神年齢は十六歳なのにもかかわらず、こんな発言でしか気を惹けないだなんて。


 こんなに恥ずかしい気分になるとは思わなかった。


 それから何度か同じようなやり取りをしたが、俺がついていた嘘はすぐに見破られた。

 結衣ママは俺の尿意の事など気にも留めずに車を走らせ、江の島大橋を渡って島内の駐車場で車を停めた。


「ほら、トイレの前で待っていてあげるから、さっさと済ませなさい」

 

 駐車場の最寄りにあるトイレへと案内する結衣ママ。

 

 俺は数分、いや十数分ほど個室の多目的トイレに閉じこもり、なんとか江の島を脱出する方法がないか考えた。

 

「この体だとトイレに座るのも苦労するな。さてと、結衣ママが屋敷に帰りたくなる理由か……」


 本土と江の島を結ぶ江ノ島大橋と江ノ島弁天橋。通称、”弁天橋”と呼ばれる橋は、島から本土まで四百メートル弱しかない短い橋だ。


 車両と歩行者専用に分けられた二つの橋。恐らく、六歳児の肉体である俺の体力でも容易に渡り切れるだろう。

 

「だけど、独りで橋を渡ったところで、結衣ママの注意を惹くことが出来るのだろうか……」


 俺が迷子になってしまえば、結衣ママは当然ながら俺を探し始めるはず。騒ぎを起こせば注意を惹けるだろうし、六歳の女児が行方不明という状況になれば、警察が絡むような大事になるはず。


 決定打とまでは言えないが、周囲の人物を巻き込んだ騒ぎになるはずだ。

 

「柚子葉。葉月さん達が行っちゃうわよ。そんなにお腹が痛いの?」

 

 トイレの屋外から聴こえる結衣ママの声。どうやら葉月兄さんや志恩、志恩のガールフレンドたちと合流してしまったらしく、結衣ママは急かすように問いかけた。


 このままトイレに閉じこもっていても状況は変わらない。

 結衣ママたちが目を離す時まで待つしかないか。


 便座から飛び降り、つま先立ちになって洗面台へ手を伸ばす。どうにか手を洗うことが出来たが、身長が足りなく自分の姿を見ることが出来なかった。

 

「あーすっきりした」

「柚子葉、はいハンカチ。だいぶ長かったけど、そんなにお腹が痛いの?」

「まあね。葉月兄さんはどこにいったの?」

「えーっと、先に”仲見世通り”へ行っちゃったみたい」

 

 結衣ママはそう言って手を差し伸べてきた。

 

 ここで結衣ママを振り切って逃げるのもありだ。

 周囲には子連れの家族や若いカップルの姿がある。人込みに紛れれば俺を見失うだろうし、この脱出劇が成功すれば結衣ママの運命を変えることが出来るはず。


 彼女の手を握り、下卑た笑みを浮かべた。

 

「ねえ結衣ママ……」


 必要なのは膂力パワー重力ステップ、覚悟と度胸だ。六歳児の肉体ではあるが、上手くことが運べば大の大人であっても一時的に身動きを封じられる。


 結衣ママの意識が地面に持っていかれるのに十秒、起き上がるのに必要な時間は五秒。

 人混みの中に紛れた俺を見つけるのに十五秒近くは掛かるはず。そこから追いつくのに十数秒は掛かるだろう。


 

 限られたのは”僅か一分弱”という時間。これなら上手くいくはず。


 

 それから俺は脳内で数回ほどシミュレーションを繰り返し、パターン化した動きを再現するため足に力を込めた。


 つま先によるすねへの攻撃。重心が前に仰け反った直後、結衣ママのアゴへとアッパーカット。


 重心が背中にいく結衣ママ。そこに間髪入れずタックルを食らわす。これで行くぞ!

 

「ヨシッ気合入った!」

「なに馬鹿なこと考えてんのよ。ほら、さっさと行くわよ」


 馬鹿な……。まさか見抜かれていたのか?


 俺の手のひらを握り締めた結衣ママ。彼女の重心を前に引こうと手のひらを引き抜いたはずだったが、結衣ママの重心は一向に崩れなかった。むしろ、逆に引き寄せられたまである。


 その直後、俺の頭頂部に結衣ママの拳骨の痛みが響き渡る。

 時間にして僅か一秒弱。瞬間や刹那といった一瞬の出来事だったと思う。


「今日の柚子葉は少しおかしいわよ。なにか嫌なことでもあったの? もしかして、幼稚園で虐められてる事が関係してるの?」

 

 結衣ママはそう言って俺の手のひらを握りしめる。


 どうして虐められているのがバレたんだろう。幼稚園での生活は一度も話したことが無いはず。


 いや、母親だから知っていて当然の事なのか?

 そういえば離れ座敷に志恩が訪ねて来た時、志恩も俺が幼稚園で虐められていることを知っていた。


 もしかしたら、俺が知らないだけで志恩や葉月兄さん、優月さんや結衣ママたちは情報を共有していたのだろうか。


 情報源が何であったとしても、ここで結衣ママの気を惹けたのは不幸中の幸いだった。

 

「ねえ結衣ママ。俺、志恩たちと一緒に居たくない」

「困ったわね。仕方ないわ、お母さんと一緒に水族館にでも行かない?」

「うん。水族館にする」

「葉月さんに連絡しなきゃいけないわね……」

 

 考え込むような仕草をした後、結衣ママは俺に提案をしてきた。


 時間までは判明していないが、二日後の八月六日に結衣ママは何者かによって殺される。この記憶の旅が偶然ではない以上、志恩や葉月兄さんたちと一緒に過ごすのは危険に感じる。


 それから俺は結衣ママの提案を受け入れ、本土にある江ノ島水族館へ行くことになった。

 結衣ママが差し出した手のひらを強く握り返し、歩行者の為に作られた弁天橋を二人で歩き続ける。


 海から潮風が弁天橋に吹き抜け、俺たちを歓迎するかのように周囲を漂っていた。


「炎天下ってほどではないわね。凄く風が心地良いわ。柚子葉もそう思わない?」

 

 橋の柵から身を乗り出した結衣ママ。彼女は海の遠くへと指を差して言った。


 子供の俺でさえ親しみを覚えるほど、結衣ママの姿は自由奔放で型破りな子供のように思えた。

 自分の母親をさげすむようで嫌だが、結衣ママは少しだけ間の抜けたような性格をしている。突拍子もない事を言い出すこともあれば、芯の通った発言をすることもある。


 安らぎや静寂を第一優先する俺とは異なり、彼女の行動や性格は予想できないものが多かった。

 

 葉月兄さんを追いかけるような形で江ノ島へ行くことになったのも、俺の我が儘を聞き入れてくれたからだ。


 そういえば何か重要な事を忘れている気がする。

 葉月兄さんや志恩、志恩のガールフレンドの事ではなく、優月さんや明神冬夜の事でもないこと。

 

「えっと、なんだっけ……」

「ねえ柚子葉。お父さんのことだけど――」


 どこまでも続く青い海と淀みのない大空、潮の香りが全身を包みこむように体を吹き抜ける。

 さざ波の音が結衣ママの声をかき消した。

 

「ねえ結衣ママ。俺、本当は未来から――」

「え? 大丈夫? ねえ柚子葉!」


 自分の意識が六歳児のものではなく、十一年後の未来から送られたものだと告げたようとした直後、かすみがかかったように視界がぼやけていった。

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