弐ー八


 頭に乗せた手拭いを掴み、俺は頬に流れる汗を拭った。


 水面にチラチラと揺らめく月の光を見つめ、露天風呂の中央に置かれた岩へともたれ掛かる。

 大浴場を独り占めしたこともあってか、人の目を気にしなくていい場に居たことで筋肉の緊張がほぐれていった。

 

「今日こそは独り占めだ。この前みたいに志恩が来ることはない……はず」


 漂う湯煙を深く吸い込み、ヒノキの香りを舌で味わう。

 湯気によって首と顔が温かくなり、俺の脳内は幸福感で満たされた。


 それにしても、今年の夏休みは色んな事が重なり続けている気がする。


 シゲシゲの家に来てから数日しか経ってない。

 それなのにも関わらず、去年は考えもしなかったことが起こり続けている。


 初日は小鬼と陰陽師。

 恐らく、あの陰陽師は天青吾郎で間違いないだろう。庭園に現れた時は奇妙な衣装を着ていたが、滝場で出会った時の恰好が普段着であるならば、そう考えてもいいのかもしれない。


 二日目は陰陽師と志恩。

 あれ、何かがおかしい。二日目、トウモロコシ畑に現れた陰陽師は、小鬼の式神を出してこなかった。

 だとすると、初日に出会った陰陽師や二日目の陰陽師、昨夜に出会った天青吾郎は別人なのか?


 初日と二日目の陰陽師が同一人物であれば、天青吾郎の発言も理解できる。

 天青吾郎は『貴方様の肉体に傷を作ろうとは思っておりません』と言っていた。ハンカチを取り出すという行為や伊達男の様子からするに、傷を作ろうとしなかったのは本当だと思う。

 そうであるならば、二日目の陰陽師の行動は、天青吾郎の考えとは真逆だ。


 二日目の陰陽師は、シゲシゲの姿に変装していた。

 恐らく、俺の命を狙うが故の変装なのだろう。そう考えてみると、二日目の陰陽師が鎌を振り下ろしたのも納得できる。


「多分、初日の陰陽師と二日目の陰陽師は同一人物なんだ!」

 

 考えが纏まったこともあり、俺は露天風呂に響き渡るほど大きな声で叫んだ。


 天青吾郎が言っていた『肉体に傷を作ろうとは思っていない』という発言。

 それが真意であるならば、天青吾郎は俺の霊魂を狙っていて、もう一人の陰陽師は肉体の方を狙っているのかもしれない。


 俺は考えに考え抜いたが、二日目の陰陽師の行動に違和感を感じた。

 五感を研ぎ澄ませ、思考を駆け巡らせる。


「もしかしたら、逆なのかもしれない」

 

 天青吾郎が言った『貴方様の肉体に傷を作ろうとは思っておりません』という言葉の意味は、俺の霊魂を奪おうとしているからなのではなく、俺の肉体に何らかの価値があるから、そう言ったのだろう。


 霊魂を奪おうとするのが目的ではない。

 天青吾郎の目的は、俺の屍人という肉体なんだ。


「大体、こんな体に価値があるとは思えないけど、どうして狙ってきてるんだろう」

 

 等々、独り言を呟き続ける。その直後、聞き覚えのある三人の男性の声が露天風呂に木霊した。


 初老を迎えただろう男の声が段々と近づいてくる。それにつれて、妖艶な流し目の男が放ったであろう声も近くから聴こえた。

 隻腕の長髪男も同行しているらしく、声の大きさを考えてみると、三人の男性は岩の裏側に腰を下ろしたようだ。


「志恩さんの体って、男性の私から見ても魅力的ですね」

 

 流し目の男が言った。


 ゆったりとした口調には、憧れや羨望といったものが感じられない。

 彼の趣向を知っている俺から見てしまえば、それが声だけだったとしても、下卑たる思いが乗せられていると判断できた。


「そうか? コイツと比べれば、そうでもないと思うんだがな」

 

 初老の男の声が露天風呂に響き渡る。彼は隣に腰を下ろした隻腕の男の体と自身の体を比べたらしく、流し目の男の発言を否定したようだ。


 隆々とした筋肉を見せ合う三人の男性の姿が目に浮かび、俺の脳内は煩悩で満ち溢れた。

 

 緊張と興奮、動揺や混乱といった感情が俺の脳内を駆け回る。

 本来ならば、『三人で何してんだよ!』とでも大声で突っ込み、姿を現すべきだった。

 

 そうするべきだと頭では理解していた。けれども俺の存在が察知されていない今、本能が風呂に留まるべきだと判断した。

 三人の男性が自身の肉体を披露し合い、甲乙つけ難いモノたちを見比べていると想像する。


 コソコソするのは善くない行為だと分かっていたが、俺の中の背徳感が理性を崩壊させた。

 下卑た笑みを浮かべながら、俺は再び聞き耳を立てる。


「おい鴉天狗。お主が言っていた『柚子葉の婚約者は俺だ』という発言、あれは本当なのか?」

 

 隻腕の男が言った。透き通るような彼の声には、真意を問いたいという思いが込められているのか、声色には純粋さを感じ取れる。


 隻腕の男がそう言った直後、露天風呂は静寂に包まれた。

 浅い呼吸や水が滴る音、鳥のさえずり声や岩に湯が打ち寄せる音だけが空間に木霊する。


「ああ、柚子葉に言ったヤツの事か……」

「それだ。お主が恋敵であるか確かめておきたい。もう一度問う。お主は柚子葉童子を好いておるのか?」

 

 隻夜叉が志恩に向けて言った。


「ああ、柚子葉は俺の――」

 

 志恩が言った。岩の裏側にいるせいなのか、ここからでは彼の最後の言葉が聞き取りづらかった。

 

 湯面に立ち上る湯気を頼りに身を隠し、俺は気配を消しながら、声のする方へと近づく。

 

「アイツは親友の妹だ。婚約者ってのは間違いないが、その約束は柚子葉が高校を卒業できるかにかかってる」

「コウコウが何のことを言っているのかは分からんが、現段階の柚子葉童子は、お主の女ではないということだな?」

 

 俺が婚約相手であると認めた志恩。現段階での俺の立場を理解しようとしていたのか、隻夜叉は質問をぶつけた。


 直接言われた訳ではないが、志恩に婚約者だと認められた。


 不思議な気分だ。

 こんなにハッキリと言われると、聞き耳を立てていたのが恥ずかしくなる。


 考えすぎだったのかもしれない。

 昨日の夜、小泉静香さんという現役女子高生のコミュ力お化けを目にした。そのせいもあってか、俺は自分に女としての魅力が欠けているのではないかと思った。


 どんな条件であったとしても、志恩は俺の事を婚約者だと認めてくれた。聞き間違いでないのなら、高校を卒業出来れば志恩と一緒になれる。

 そうであるならば、高校を卒業するまで待ってくれる志恩に対し、俺なりに期待に応えなければならない。


 等と考えに耽っていると、不思議と抱えていた不安が消えたような気がした。

 

「よし、次の目標は高校卒業だ!」

「そうですね、柚子葉さん。貴女には私という講師が傍に居ますし、転入試験なんて楽勝ですよ!」


 真横から聴こえる声に驚き、声のする湯煙の方へと目を凝らした。

 そこには、お団子状に髪を後ろに纏めた宗一郎の姿があり、彼の視線は明らかに俺の方へと向かっている。

 

「あ、あれ、宗一郎?」

「どうしたんですか、柚子葉さん。もしかして、バレてないと思ったんですか?」


 

 妖艶な笑みを浮かべる宗一郎。


 

 透き通るような白い肌と官能的な声色には、彼を男性と表現できるものが存在せず、男性的な要素は全く感じられなかった。

 

「い、いつから気づいてたの……」

「それは勿論、貴女が妄想を始めた頃からですよ。柚子葉さんは独り言を声に出す癖がありますし、それに――」


 人差し指をグルグルと回し、湯面に漂う湯気を払う宗一郎。

 髪留めに手を掛けた宗一郎は、纏めていた長髪を解き、淡々と話を続けた。


 宗一郎や隻夜叉、志恩も露天風呂に入った時点で俺が居るのを察していたらしく、俺が姿を現すまでは放っておいたようだ。

 大の大人が裸一つで騒ぐのも変だと思い、彼らは俺の事など気にも留めずに風呂へと入ったらしい。


 隣に宗一郎という流し目の男が居るのにも関わらず、俺は呆然としていた。


 妄想を始めた頃から気づいているのだとすれば、下卑た笑みを浮かべていたのもバレているのだろうか。

 そうだとすれば、湯煙に紛れながら聞き耳を立てていたこともバレているのだろうか。


 だとしたら、志恩は俺に気づいていながら、婚約について明言したのだろうか。


 現状を理解するため、あらゆる情報が脳内を駆け回る。

 志恩や隻夜叉、婚約や恋敵、宗一郎や高校卒業等の単語が脳内に収束していき、俺の脳内のキャパシティは限界を超えた。

 

「ちょ、ちょっと待って宗一郎。えっと……」

「柚子葉さん、耳元で大きな声を上げないでください!」

「どうした柚子葉、隣に来るか?」

「柚子葉童子。お主は少しばかり肥えた方がイイ女になると思うが……」


 左右から聴こえる声の方へと視線を送る。

 そこには、藍髪の長髪を纏めた隻夜叉、露天風呂を背泳ぎする志恩の姿があった。


 長時間という程ではなかったが、お湯に浸かり続けたせいなのか、三人とも顔が真っ赤だ。

 頬を赤く染めた推し達に囲まれ、俺は正気で居られなくなった。


 徐々に近づく志恩に目を向け、俺の隣に腰を下ろした隻夜叉を横目で見る。

 どこに目を向けても推し達の尊いが渋滞していた。


 湧き上がる羞恥心を抑えつつも立ち上がり、裸を見られることなど一切気にせず、俺は全速力で脱衣所に向かった。

 

「クソっ垂れ!」


 捨て台詞を吐き捨て脱衣所に駆け込む。その直後、三人の笑い声が露天風呂に響き渡った。


――

 

 ベッドに横たわるシゲシゲへと手を振り、俺は病室内から出て行こうとした。

 

「それじゃあシゲシゲ。看護師の姉ちゃんにちょっかい出すんじゃねえぞ」

「待ってくれ柚子。次はいつ面会に来てくれるんじゃ?」

 

 シゲシゲが言った。


 入院してから数日しか経っていないのにも関わらず、シゲシゲは寂しそうな表情を浮かべている。

 

「ちょくちょく面会に来てやるよ。それより、看護師の姉ちゃんに手出したら千代子お祖母ちゃんにチクるからな!」

 

 入院患者用の病室から出ていき、俺は去り際に言った。

 志恩の後ろを歩きながら病棟の廊下を進み、俺と志恩は病院敷地内の駐車場へと向かう。

 

「歩くの早いって志恩」

「柚子葉、お前が遅えんだよ。今日も予定が詰まってるんだ。さっさと車に戻るぞ」


 露天風呂での事件から数日後、シゲシゲは市内にある病院へと無事に入院した。

 無事に入院した、と言うと変な言い方にはなるが。けれども俺や志恩、特に宗一郎にとっては、そう考えても良かったのかもしれない。


 俺が屋敷で目を覚ました翌日、シゲシゲは屋敷内の庭園で倒れた。

 そこに駆け付けた宗一郎の話によると、シゲシゲの容態は深刻なものだったらしく、原因は山男から受けた攻撃による骨折のようだ。


 シゲシゲは『こんなの怪我のうちにも入らん。二、三日寝てれば勝手に治る』と言って入院するのを渋っていたが、保健の先生をしている宗一郎から見てしまえば、直ぐにでも入院が必要とのことだった。

 

 病院の駐車場へと戻り、俺は助手席に腰を下ろした。視線を横に向けてみると、ハンドルを握った志恩が溜息をついている。

 

「なあ志恩。シゲシゲ意外と元気にしてたな」

「そりゃあ、お前が見舞いに来てるから気丈にふるまってるだけだ。妖怪の俺や隻夜叉ならともかく、茂爺さんは普通の人間だ。あんなに吹っ飛ばされて平気な人間は何処にもいねえよ」


 志恩はそう言って車のエンジンを掛け、屋敷へと車を走らせた。


 志恩や宗一郎が言っていた通り、シゲシゲは普通の人間だ。幾ら平然としていたとしても、あれだけの攻撃を受けてしまえば、何らかの怪我を負うのが当然。

 俺のような死人でもなければ、志恩や隻夜叉のような純粋な妖怪でもない。


 シゲシゲは、倉敷茂という人物は普通のお爺ちゃんなんだ。


「なあ柚子葉。お前、桑真高校に転校するんだってな?」

 

 志恩が言った。どこから情報を知りえたのかは分からないが、俺が転校するのを志恩は知っていたようだ。多分、宗一郎がチクったのかもしれない。


 俺は何度かスマホをタップした直後、画面に表示された桑真高校のホームページを凝視する。

 画面には学校行事や部活の大会記録、校則や伝統などが表示されている。

 

「うん。九月から通うよ。転入手続きは皐月がしてくれたようだし、転入試験は面接だけだってさ」

「面接だけか。それなら心配はなさそうだが、お前は何部に通うつもりなんだ?」

「第一志望は三部の時間帯。第二志望は二部の時間帯かな」

「ああ二部と三部の時間か。それなら、俺の知り合いが居るだろうし安心だな」


 屋敷に向けて車を走らせる志恩。彼は桑真高校の卒業者だったらしく、桑真高校の三部の時間帯で働いている職員に知り合いがいるそうだ。

 流石は八童家の人間といったところなのだろうか。それから彼は、桑真高校の三部での高校生活を語ってくれた。


「あの高校は市内の高校の中でも別格な存在だ。一部や二部の生徒ならまだしも、三部の時間帯に通うつもりなら、変わり者ぞろいだから気を抜くなよ」

 

 車を徐行させる志恩。彼はそう言ったかと思えば、カフェのドライブスルーに寄った。


「お前、何が飲める?」

「スタバは初めて来るから、甘いやつだったら何でもいいよ」

 

 そう言って俺はスマホを弄り始める。


 スタバは初めてだ。

 普通の女子高生だったら気軽に立ち寄れるだろう。けれども、俺のような陰キャ女子高生には敷居が高すぎた。


 サイズ表記や長ったらしい名前のドリンク、豆乳やらミルクといった追加オプション等々。

 脳のキャパシティを超えるであろうそれらの存在は、俺のような陰キャの為に存在するのではなく、小泉静香さんのような本物の女子高生や陽キャの為に用意されたものだと思っている。


「ほらよ、何でも良いって言ってたから、甘いやつを頼んでおいた」

 

 店員から飲み物を受け取る志恩。自分用の飲み物と俺の分を受け取った彼は、こちらに飲み物を差し出した。


 受け取ったカップに張られたシールには、『キャラメルフラペチーノ』という文字が記されている。キャラメルというからには、甘い飲み物なのだろう。

 そんなことを考えながら志恩の方を振り向く。そこには、ドライブスルーの店員からメモを受け取る志恩の姿があった。


 志恩が受け取ったメモに目を凝らす。

 メモには手書きのような電話番号の文字が書かれており、頬を赤く染めた店員の顔からするに、志恩が店員さんに逆ナンされたのだと判断できた。


「それじゃあ後で連絡するよ!」

 

 店員にそう言った志恩は、再び屋敷へと車を走らせた。


 ドライブスルーを発ってから数十分が経過。あれから何事もなかったように志恩は桑真高校の話をしている。

 

 三部の時間帯に転校するのであれば、同じクラスになるだろう生徒から家業を訊かれる事。

 変わり者ばかりが通う三部には、八童子市に存在する旧家の嫡子や庶子が通っているとの事。

 一部や二部といった普通科の生徒が過ごす高校生活は、三部へと通う生徒になれば送れないだろう事。

 

 等々、俺が描こうとしていたバラ色の高校生活は、桑真高校へと通う身になる以上、あまり期待できないとのことだった。

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