肆ー二
何者かが俺を抱き上げているらしく、俺を抱き上げている人物へと視線を送った。
「起きたのね柚子葉。急に倒れちゃったからビックリしちゃったわ。体は大丈夫?」
俺を抱き上げていた結衣ママ。彼女はそう言って俺を地面にそっと下ろした。
何度か頭を叩いたり、頬をつねったりしてみる。手のひらに出来た擦り傷から痛みを感じ、ここが過去の記憶の中であると判断できた。
周囲を見渡してみると、目の前に水族館の看板が立てられており、建物には”江ノ島水族館”というパネルが間隔を置かれて設置されていた。
どうやら俺は過去の記憶に潜ることが出来たらしく、視線を遠くに向けてみると、その先には弁天橋の姿があった。
「ねえ柚子葉、急な旅行になっちゃったし、やっぱり疲れちゃった?」
結衣ママが言った。
彼女は俺に手を差し伸ばし、入場券を購入する列に並び始める。
「大丈夫だよ。暑くて倒れただけだと思う」
「そっか。明神さんがチケットと飲み物を買ってきてくれるって言ってたから、ここで待ってようか」
明神さん? 志恩の友人である
結衣ママの話によると、弁天橋で倒れた俺を抱き上げた結衣ママは、その場に出くわした明神冬夜さんへ助けを求めたらしい。
軽い熱中症だと判断した明神さんは、持ち合わせていた冷たいハンカチで応急処置を行ってくれたようだ。
それにしても不思議だ。脳内に残る過去の記憶では、俺は志恩たちを追いかけて江ノ島に留まるはず。もちろん、明神冬夜も志恩たちと同行するのだと思われた。
どうして明神冬夜が一人で行動しているのかは解からないが、結衣ママの死に関係しているのであれば、警戒しておかなければならないな。
それから数分が経ち、明神さんが俺たちの元へと戻ってきた。
手には三人分の飲み物と水族館の入場券。
「あれ、結衣ママがチケットを買ったんじゃなかったの?」
「えっとね、実は車の中に財布を置いてきちゃったの。橋を渡り切ったところで思い出しちゃったんだけど、そこに明神さんがいたからさ。入場券を買ってもらうことになったの」
結衣ママに入場券と飲み物を渡し、明神さんは俺にも同様の物を渡してきた。
「明神さん。助けてくれてありがとうございます」
「気にしないで良いですよ。そういえば柚子葉さん、体調の方は良くなりましたか?」
体調。熱中症の事か。それなら多分、大丈夫なはずだ。
肉体は六歳だが、精神は十六歳。この程度の熱中症など気合で乗り越えて見せる。
海沿いに水族館があるからなのか、入場券売り場にも潮の香りが漂い続けている。
四時を過ぎた頃だというのに、海岸には水着を身に付けた殆ど真っ裸の男女がはしゃぎ合っていた。
近くの駐輪場には複数台のツーリングバイク。ライダーたちは転倒防止用のレザースーツに身を包んでいる。
一方はほとんど裸の集団、もう一方は体にピチピチに張り付いたライダースーツを着た集団。
極端な両者の格好だが、俺に入場券を渡してきた明神冬夜さんもまた、海に旅行へ来たというのに相応しくない姿をしていた。
これから会社に出勤するかのような、真っ黒なスーツに身を包んだ明神冬夜。
恐らく、明神さんは好き好んでスーツを着ているのだろう。そうでなければ、炎天下のなか、わざわざスーツを着ている理由が見つからない。
「行きましょうか柚子葉さん。私は予定通りに行動するタイプの人間なんです。一時間後に始まるイルカショーは見ものですよ」
明神さんはそう言って俺の手のひらを掴んだ。
急に手を繋がれたが、なぜだか嫌悪感を抱かなかった。
恐らく、彼という存在が”神に仕える信徒”のように、無害な者だと感じられたからなのかもしれない。
「ねえ結衣ママ」
「分かってるわよ。もう片方の手が寂しいんでしょ?」
「えっと、うん……」
「じゃあ行こっか!」
それから俺は明神さんと結衣ママと一緒に水族館へと入場することになった。
結衣ママ曰く、「明神さんは江ノ島水族館、通称、”
手のひらを握り締める明神さんに視線を送るが、彼は年間パスポートの事を誇りに思っているらしく、全く動揺することもなかった。
結衣ママは明神さんをからっていたが、明神さんにとっては誇れるような物なのだろう。
水族館は一度も行ったことが無い。それはもちろん、記憶の海に潜る前である十六歳へ成長してからもだった。
多分、俺は今、過去の記憶に潜る際の”二つ目の注意点”を破ったに違いない。
行ったことがない場所に訪れるという事は、ほんの僅かな行動であっても現実を改編させることに繋がるからだ。
水族館に行くという事がどれほど現実に影響を及ぼすのかは解からない。
だけど、なぜだか分からないが、俺は結衣ママと過ごす時間の方が大事だと考えてしまった。
館内を照らす照明が少ないこと。自身の存在を矮小なものだと蔑むような巨大な水槽。
それから三人で水族館を回り始めたが、館内の照明が暗くて迷子になった。相変わらず方向音痴は治っていないようだ。
多分、深海魚や強い光に弱い生き物に配慮していると思われる。館内を人為的に海の中をイメージして暗くすることによって、魚たちがのびのびと生きやすい環境を作ったに違いない。
彼女たちの心配を気にも留めず、俺は一人でほっつき歩きながら、海水生物が閉じ込められた水槽を見つめ続けた。
「柚子葉童子、ここは海の中か?」
俺の肉体から精神だけを飛び出した隻夜叉。
彼も水族館に行くのが初めてらしく、水中を漂う魚たちを少年のように目を輝かせながら見つめていた。
「急に出てこないでよ。誰かに見られたらどうするの?」
「こんなにも美しい物を拝める機会など二度と無いと思ってな。出過ぎた真似をしてすまない。柚子葉童子、何か霊力が宿った御守りのような物は持っていないか?」
御守りか。鬼避けの護符を持ち歩くようになったのは一年後だし、そんな物を持ってるのかな。
サロペットの胸ポケットを探ってみると、当時身に付けていた"天狗避けの護守"に指先が触れた。
「こんな物しか持ってないけど、これでなんとかなりそう?」
「"天狗避け"の護守か。この護守はどこで頂いた物だ?」
「八尾山の薬王院だよ。もしかして不味い?」
「いや、好都合だ。鬼に金棒と言っても過言ではない。天狗避けの護守であればなんの問題もないな。むしろ、お主の霊力を向上させる物でもあろう。この旅の最中は肌身離さず持ち歩くが良い。勿論、風呂に入る時もだ。良いな?」
入浴中も持ってないといけないのか。面倒なことになりそう。
隻夜叉曰く、三大妖怪である鬼と狐、天狗の間には三つ巴のように相性と言ってもいい力関係があるらしく、鬼は天狗に勝るが、狐には負けてしまうようだ。
つまり、天狗を追い払う"天狗避けの護守"には、鬼の肉体の一部が粉末として護符に擦り込まれているらしい。
「じゃあ俺が狐避けの護守を持ってたら……」
「恐らく、護守に閉じ込められた余は発狂するだろう」
発狂か。それはそれで見たい気がする。
幽体化した精神を護守に注ぐ隻夜叉。彼の体は瞬く間に天狗避けの護守へと吸い込まれていった。
そうだ。今回の記憶の旅は一人じゃないんだ。
隻夜叉という心強い相棒がいるんだ。下手に過去を変えるような出来事をしなければ、黄泉の国の鬼にも見をつけられないはず。
等と考えながら、ブラックライトの光が照らされたクラゲの水槽へと近づいた。
どうやらクラゲコーナーは、そこまで人気な場所ではなかったらしく、水槽の前には一人の女子高生だけしかいなかった。
フワフワと水中を漂う数匹のクラゲを無我夢中になって目で追っていく。
「ねえお嬢さん。そんなにクラゲが好きなの?」
俺の隣に佇む女子高生が言った。
コクリと頷き返し、俺は彼女に問いかける。
「お姉さんもクラゲが好きなんじゃないの?」
「貴女にはそう見えるのね。いいえ、私はクラゲが嫌いだわ。体が透明なのも嫌いだし、触手が沢山あって気持ち悪い。でも、何故だか分からないけど、ずっと見られるんだよね」
「ふーん」
「クラゲコーナーに来る前、ペンギンやアシカ、イルカやカピバラといった生き物たちを見てきたわ。ねえお嬢さん。彼らは人間に観られることで生きる事を許された存在なのよ。悲しい生き物たちよね、人間の思いやりや同情を惹くために生きているなんて、惨めすぎて価値の無い存在だとは思わない?」
自分の価値観を押し付けるような彼女の言葉。無気味に感じる程、彼女の声色には哀れむようなものを感じ取れた。
何処かの私立学園に通っているのか、彼女は深淵のような黒色のセーラー服に身を包んでいる。
確かに彼女が言っている通り、水族館の生き物は観られることを条件として、衣食住が完璧に備わった水槽へと閉じ込められることを選んだ。
だけど、彼女が言っていた、「悲しい生き物」だと言う言葉には納得できなかった。
海水という青空を自由自在に舞い続けるペンギンの姿。俺には彼らが苦しんでいるようには思えなかったし、悲しい生き物だというのも一切感じられない。
事実、彼らは水族館という職場に勤めることで生きることを許されている。観られるという需要と観るという供給が重なっているからこそ、彼らは水族館で生きることを選んだんだ。
俺のように誰からも求められない価値の無い存在ではなく、彼らは人々に観られる価値がある存在だ。
「彼らの世界はこの水族館だけです。別に悲しい生き物だとは思えませんよ」
「そう。残念だわ柚子葉さん。やっぱり貴女とは気が合いそうにないわね」
去り際に彼女はそう言って何処かへ向かってしまった。
視線を横に向けてみるが、既にそこには女子高生の姿はなかった。代わりに居たのは結衣ママと明神さん。
「居なくなって心配しましたよ柚子葉さん。クラゲが好きなんですか?」
明神さんが言った。
フワフワと水槽を漂うクラゲの姿。何者にも邪魔されず、自由気ままに生を全うするクラゲは、とても魅力的に感じられる。
先ほど女子高生が生物に向けて哀れむような言葉を言っていたが、それは俺の存在を哀れむようにも思えた。
透明人間という怠惰な日常を送り、俺はその異常で狂った日常を平穏な生活として受け入れた。
生物の本能として食欲に従い飯を食らうが、それ以上の欲求を求めない俺という存在は、彼女が言っていた”価値の無い存在”と同様な物だとも思える。
俺の手のひらを握り締める結衣ママ。
自分という存在を認識してくれる結衣ママだけが、俺の心の拠りどころだった。
「ねえ結衣ママ。この場所、凄く寒い」
「確かに寒いわね。もうすぐイルカショーが始まる頃だし、そっちに行こっか」
それから俺は再び結衣ママと明神さんと手をつなぎ、イルカショーが行われるスタジアムへと向かった。
――
時刻は午後の五時前。
無事にイルカショーを堪能した俺たちは、弁天橋を再び渡って江の島の駐車場に戻り、帰宅の準備を始めた。
どうやら志恩や志恩のガールフレンド、葉月兄さんや優月さんも江ノ島を堪能したらしい。
デジタルカメラや写真機能付きガラケーで記念写真を撮った、などという話をしながら駐車場に戻ってきた。
「さてと、これで江ノ島とはバイバイだな……」
何かを企んでいるような笑みを浮かべた志恩。彼はそう言った直後、俺の肝を潰すような発言をした。
「ヨシッ。じゃあ皆のども、これから”熱海”に向かうぞ!」
「おい志恩、何言っとんねん。今日は夜に帰るって言っただろ?」
「ねえ葉月、今日って何の日か覚えてないの?」
突然、熱海に向かうと言い出した志恩。当然ながら葉月兄さんは優月さんの身を案じたらしく、志恩の頬を何度か叩いた。
しかし、その直後、優月さんが葉月兄さんに語り始めた。
優月さんの話によると、今日は「葉月兄さんと優月さんが交際し始めた記念日」であるらしく、優月さんは葉月兄さんに内緒で旅行計画を立てていたらしい。
旅行の全貌を語りだす志恩と優月さん。
「今回のサプライズは、お前らの交際十年を記念して”熱海旅行”に決めてたんだ。中々予約が取れなかったんだぜ。参加者は倉敷家と八童家、楢野家と明神家、まあ所謂、”倉敷家派”の旧家が揃ってるってことだ。他の旧家は全員熱海のホテルに向かってる。葉月、帰ろうとしても無駄だからな?」
「ってことよ、葉月。旅費や宿泊代、その他もろもろの費用は八童家と倉敷家が払ってくれるわ。それに、実は呪いを抑制する”血清”も数日分は用意してたの。だから、絶対に帰らせないわよ」
あまりの出来事に愕然とするしかなかった。いや、驚いていたのは俺だけではなかったようだ。
記念日という事は理解していたが、葉月兄さんは何も知らされなかったらしい。
正直な話、確かに俺は志恩の事を侮っていたかもしれない。現代の志恩はそこまで金遣いが荒いとは思ないが、今は十一年前の八月だ。
志恩が八童家の嫡男だった頃の記憶だ。
現代の志恩なら考えないだろうが、この記憶の旅に居る志恩は二十七歳の超陽キャだった。
八月六日までは残り二日。江ノ島から熱海に移動するという事は、熱海の方で事件が起こるのだろうか。
なんにせよ、警戒は続けるべきだ。俺は必ず結衣ママを救ってみせる。
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