肆章
肆ー一
潮風が吹き抜け、さざ波の音が結衣ママの声をかき消した。
「ねえ結衣ママ。俺、本当は未来から――」
「え? 大丈夫? ねえ柚子葉!」
自分の意識が六歳児のものではなく、十一年後の未来から送られたものだと告げたようとした直後、
十年前に”鬼童丸”から霊魂を奪われた時に感じたようなダルさ。指一本さえも動かせないような”何らかの力”が俺の全身に注がれているらしく、俺は霞がかった視界のなか、歩道の先に佇む”異形の鬼”を睨み付けた。
弁天橋の上で倒れた俺。数メートル先から忍び寄る鬼は、わき目も振らずに倒れた俺を凝視していた。
そこで俺は夢から覚めた。
夢というよりは過去の追体験と言った方が正しいかもしれないが、夢のような心地よさを感じたから夢と呼ぶことが正しいと思う。
ベッドから起き上がり、握りしめていた七度返りの宝刀から手を離す。
視線を壁の方に向けてみると、その先には壁に寄りかかって膝を抱えた隻夜叉の姿があった。
「隻夜叉、待っててくれたんだね。ありがとう」
「うむ。柚子葉童子のもとに”黄泉の鬼”が訪ねると思っていたからな。お主を一人でいさせるわけにもいかなかったのだ」
黄泉の国の鬼。彼が言っている鬼というのは隻夜叉自身ではなく、酒天童子でもない鬼を指しているのだろうか。
なんであったとしても、隻夜叉が警戒しているということは、何らかの規則を破ったから俺に目をつけたのかもしれない。
「柚子葉童子、お主が過去に潜っている間、鴉天狗から電話が来ていた。上手くごまかしたが、奴は童子が行おうとしている過去の改竄をよく思っていないと思える。奴が屋敷に戻るのが何時か解らない以上、チャンスは残り少ないと思っておけ」
隻夜叉はそう言って立ち上がり、続けて言った。
「柚子葉童子、お主が行おうとしている過去の改竄だが、それは現実の世界の理から外れた次元を歪める行為だ。余が体験したことではないが、遥か昔、世の伴侶である酒天童子が……」
四つ目綴じの和本を持ち上げる隻夜叉。彼は俺のとなりに腰を下ろし、片腕を使って器用にページをめくり始めた。
和本には細かく記されていなかったが、隻夜叉の話によると、彼の妻である酒天童子は俺と同じような行為をしたことがあるらしく、酒天童子は宝刀の力で過去に戻った際、黄泉の国にしか存在しない”鬼”に出逢ったそうだ。
酒天童子のその時の目的は、”亡くなった我が子を生き返らせる”ということ。
勿論、その赤子は隻夜叉と酒天童子の間に生まれた鬼の子だった。
なんとか過去を変えることに成功した酒天童子。彼女は自身の記憶の中で出逢った鬼と戦ったが、彼女の攻撃は一切通じなかったらしい。
酒天童子曰く、「黄泉の国に存在する鬼は、現実の世界に存在する鬼とは桁違いの
淡々と話を続ける隻夜叉。彼の言っている事が本当であれば、俺は記憶の中で黄泉の国から訪れた鬼に会ったことになる。
「なあ隻夜叉。俺、多分なんだけど、その鬼に目をつけられたかもしれない」
「やはりか。恐らく、柚子葉童子が見たというのは黄泉の国の鬼で間違いないだろう」
「分かった。多分、俺が記憶の世界から吐き出されたのも”黄泉の国の鬼”が関係しているかもしれない。俺一人じゃ過去は変えられないと思う。むしろ失敗する可能性だってあるし、戻ってこれないかもしれない。だとしても、過去を変えられるチャンスが目の前にあるのに、みすみす逃すなんて馬鹿がすることだ」
「童子や童子、やはり酒天童子の霊魂が肉体に宿っているだけはあるな。酒天童子が昔、京の都で似たような事を言っておった」
正直な話、過去の自分自身の行動を変えることで、結衣ママの死を無かったことにできるとは思えない。
記憶の世界から吐き出されたのも、多分だけど隻夜叉が言っている”黄泉の国の鬼”が関係しているだろう。
無茶苦茶な考え方ではあるが、某有名タイムトラベル映画のキャラも”未来から来た”という旨をヒロインに伝えた途端、俺と同じように現実に戻ってしまった。
俺が過去に戻った際に注意すること。
一つ目、自分が未来から来た人物であると、自主的に言わないこと。
二つ目、結衣ママの命を救うのは第一優先だが、現実に多くの変化を生むような改編はしないこと。
三つ目、どういった状況下で出現するのかは解らないが、黄泉の国から訪れる鬼とは絶対に戦わないこと。
一つ目の注意は当たり前のように思える。某ヤンキー人気漫画の主人公でも同じような失敗をした気がする。そのため、自主的に自分が未来から来たという事を伝える状況は、結衣ママが亡くなるという八月六日の深夜以降に限られるだろう。
二つ目と三つ目の注意も同様なものだと思える。
「ねえ隻夜叉」
「黄泉の鬼についての質問か?」
「それもある。ただ、先に訊くのは”現実の改編力”がどの程度なのか気になる」
「なるほど。現実の改編力がどこまで影響を及ぼすのか知りたいということだな?」
軽くうなずき、隻夜叉の話を聞き続ける。
先ほど隻夜叉が話した、「酒天童子が我が子を取り戻した」という話。隻夜叉の話によると、酒天童子が我が子を失う事件を未然に防いだ直後、酒天童子が救った我が子に関係する人物の記憶に”二つの記憶”が宿ったらしい。
つまり、隻夜叉の脳内には”赤子が亡くなった時の記憶と赤子が無事に成長した”という二つの記憶が宿ったそうだ。
それほど七度返りの宝刀の及ぼす効果は強大なものであるらしい。
「勘違いしてはならぬぞ柚子葉童子。確かに七度返りの宝刀は現実を改編する力を持つが、改編という能力を発動した持ち主には、相応の罪と罰が下される」
俺の瞳を真剣に見つめる隻夜叉。彼は自身の右腕を抱えるように、手のひらを無くなった右腕の袖に添えた。
宝刀の持つ”持ち主に災いを与え、周囲の人物に祝福を与える”という異能。
当然ながら持ち主であった酒天童子にも災いをもたらし、周囲の人物に祝福を与えたそうだ。
酒天童子にとっての災い。赤子を救ったことで負ってしまった代償は、隻夜叉が右腕を切り落とされるという代償だった。
宝刀の異能は”持ち主に災いを与える”というが、恐らく、酒天童子にとっての災いは、彼女の夫である隻夜叉の右腕の切断というのがそれに当たるのだろう。
「余と酒天童子の間に生まれた小鬼、名は”
隻夜叉が言った。隻夜叉には娘がいたのか。だとすると、隻夜叉は妻子持ちの鬼ってことになるよな。
肌が擦れ会う位置に座っていた隻夜叉。彼の恋愛観がどういうものかは解らないが、彼が既婚者である以上、俺は隻夜叉に惚れては不味い。
拳一個分ほどの距離を取り、俺は彼との間に一線を引くことを決意した。
「赫夜さんのことは分かった。隻夜叉の話が正しいのであれば、俺が宝刀の異能を発動すれば、それ相応の罰と罪が下されるっていうことだよね」
「その通りだ。柚子葉童子にとっての災いがどんなものであるかは解らないが、七度返りの宝刀は間違いなく災いを与える。本当に過去を変えるのであれば、得るも物と失う物の重要さと覚悟を持つことだな」
腰に携帯していた麻袋から携帯を取り出す隻夜叉。彼が手に取った携帯に目を凝らすと、それが自分のスマホだと理解できた。
「え、なんで隻夜叉が持ってんのよ」
「黙って拝借したのは申し訳ないと思うが、随分と長い間、電話が来ていたようでな。電話の相手が鴉天狗であったので、勝手に出ておいた」
「あー志恩からだったんだ。なにか用があったのかな……」
「これといった用件は伝えてこなかったが、タイミングもタイミングだったからな。柚子葉童子が過去の記憶から戻る直前に電話がきたのだ。これは偶然ではないと思って警戒したのだ」
隻夜叉曰く、志恩は俺が過去を変えようとしているのを知っているとのこと。
確かに、このタイミングで電話が来るのも偶然とは思えない。もしも志恩に邪魔されたら、結衣ママの運命は変えられないはずだ。
「なあ隻夜叉……」
「分かっておる、もう一度過去に潜ろうと思っているのだな?」
「うん。多分、志恩は必ずと言ってもいいほど、俺に過去を変えさせたくないはず。だから、隻夜叉の手を借りたい。いや、貸してくれませんか?」
「御意。お主の肉体には酒天童子の霊魂が宿っておる。柚子葉童子が過去で亡くなってしまえば、恐らく、酒天童子の霊魂も消えてしまうだろう。今回の記憶の旅だが、余も同行させてもらうぞ」
頼り甲斐がある。流石は忌段の頂点に君臨する大妖怪だ。
鬼という妖怪は忌み嫌われ、あらゆる存在から恐れられる存在であるが、目の前にいる既婚者の鬼は違うようだ。
既婚者という事もあり、愛する妻をひたすら求める隻夜叉という存在。
厳格な父であり、妻を思いやる夫という顔も持つ彼は、思ったよりも人間以上に人間らしい存在であるのかもしれない。
「童子や童子、なにを考え込んでおるのだ。やはり、余の子を孕みたいのか?」
真剣な眼差しで隻夜叉が言った。
前言撤回。この青鬼はやっぱり鬼だ。
既婚者であるのに十六歳の
変態度合いで言えば、最上位がシゲシゲ、中位が志恩、下位が隻夜叉なのだろう。勿論、猫屋敷宗一郎は論外だ。
というより、隻夜叉は既婚者なんだよな。つまり、俺は既婚者の男性にも気を許してしまったという事なのか?
なんて不埒な女なんだ。穴があったら入りたい気分。
「ねえ隻夜叉って今何歳なの?」
「余の年齢か。鬼になったのは齢二十五の時だ。そこからは全く老いなくなったからな、数えるのは辞めてしまった」
なるほど。ということは二十五歳の鬼に惚れてしまったのか。俺は罪な女だな。
確かに隻夜叉の見た目は青年と言うよりは、若々しい輩といった方が正しいのかもしれない。
志恩と比べると若く見られるし、楢野葵と比べると歳をとっているように見える。
全く。けしからん男だ。
猫屋敷宗一郎ほどではないが、彼の流し目は確かに女性を惹き付けるものだと思える。
第一印象さえ良い物に感じ取れたら、多分、俺は隻夜叉のことを好きになっていたのかもしれない。
ポンポンと頭を叩き続ける隻夜叉。
彼は四つ目綴じの本を持ち上げ、ページを見るように言ってきた。
「え、過去の記憶の中でも”宝刀を再現”できるの?」
「本に記されていることが本当であればだな。恐らく、宝刀の異能を介して記憶に潜り込むのだから、記憶の中でも宝刀を身に付けることが出来るのだろう」
和本に記されていたのは、歴代の宝刀の持ち主が「どうやって宝刀を携帯していた」かというものだった。
数百年間に所持していた持ち主によると、上段から下段まで存在する霊縛術の中段、「霊力の宿った物質の粒子化」という霊縛術が発動できれば、腰に差さなくても携帯出来るとのこと。
「また霊縛術か。俺の霊縛術って下段ぐらいだよね」
「いや、お主の霊縛術は赤子以下だ」
「え、赤子以下ってどういうこと?」
「文字通り、お主の霊縛術は虫けらと等しいということだ。鍛錬するがいい」
霊縛術には上段から下段までといった術式の段階が存在する。
隻夜叉は躊躇することなく、俺の霊縛術を蔑んだ。
本当に情けない話だ。宝刀を抜刀することも出来ず、その代わりに霊縛術で刃を施したというのに。
俺は本当に宝刀の持ち主として相応しい存在なのだろうか。
赤子以下ってどういうことなん。虫けらって……。
「ふーん。まあいいよ。虫けらでも構わない。だって俺、シゲシゲの『抜刀術・惨撃』が使えるし」
「剣術の問題ではない。お主の霊縛術が粗末なのは、三つの霊魂が一つの肉体に混同しているからだ。過去に潜って非常事態になった際、この”鬼の面”がお主を助けるだろう」
隻夜叉はそう言って腰にぶら下げていた”般若の面”を渡してきた。
腰の帯に紐でぶら下げられた一枚の仮面。鼻先からアゴまでを覆うような仮面と言っていいのだろうか。
黒を基調とした赤のコントラストが激しい般若面は、重さや触った感じからすると木製で作られているようだった。
彼が差し出してきた仮面をベッドに放り投げる。だが、その直後、俺の手のひらに粒子化された般若面が浮かび上がった。
「ちょっとマジで要らないんだけど」
「そう言うな。その般若面はお主の体に流れている”鬼の血”の力を呼び覚ますものだ」
「え? 嘘、俺の体に鬼の血が流れてんの?」
「うむ。死人の肉体ではあるが、鬼の血は流れておる。僅かにしか感じないのは、”千代子殿”が鬼の半妖だからなのだろう」
確かに隻夜叉の言う通りだ。俺の肉体には鬼の血が流れている、かもしれない。
千代子お祖母ちゃんが鬼の半妖であるのなら、その間に生まれた皐月の子供である俺にも鬼の血が流れていて当然だ。
肉体に流れる鬼の血筋は八分の一程度。
その八分の一の鬼の血を呼び覚ますのには、あの仮面が必要になるらしい。
仕方ない。宝刀は持っていけないが、鬼の仮面は粒子化するから持っていけるだろう。
彼が差し出した七度返りの宝刀を睨みつける。その後、宝刀を伝わる隻夜叉の妖術によって、俺と彼の精神は宝刀へ吸収された。
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