参ー八
「ねえ志恩……もう一回だけキスしたい」
「ダメだ……」
隙をついて抱きついたつもりだったが、易々と頭を押さえつけられた。
「それで、違和感の正体に心当たりはあるのか?」
携帯灰皿を甚平の袖から取り出した志恩。彼は何度か咳き込んだ後、煙草を灰皿に押し込んだ。
俺は考えに考え抜き、勘違いや記憶違い、幼少期の朧げな記憶である可能性も考慮した後、志恩に想いを伝えた。
「十年以上前の八月頃だったと思う。日付や時間までは覚えてないけど、これだけはハッキリと覚えてる。俺と志恩が初めて会った時、志恩の隣には楢野優月さんがいたよね?」
「ああ、柚子葉と初めて会った時のことか。十年以上前のことだからなあ、ハッキリとは言えねえが、確か優月も一緒に居た気がするな……」
志恩は突然、甚平を整え始めた。
何かに心当たりがあるかのように動揺した志恩の態度。
「じゃあさ、『ボイン戦隊・金髪レッド』っていうタイトルに覚えはない?」
「知らん。いや、知っていたとしても、そのエロ本は……」
重要な何かを思い出したのか、エロ本のタイトルに勘づいた彼は煙草を地面に落とした。
俺の足元に向かって転がり続ける一本の煙草。コロコロと転がり続ける一本の煙草は、まるで志恩の動揺を現しているようで滑稽に思えた。
煙草を拾おうとする彼の指先が揺れ動く。それでも彼は必死に煙草を拾おうとしていた。
彼に代わって俺は煙草を拾い上げる。
地面を見つめながら微動だにせず、志恩はしゃがみ続けていた。
憐れで滑稽で無様な志恩の元に近づき、彼の両頬へと手を伸ばす。
「ほら、ガーンバレ、ガーンバレ。志恩大丈夫? それに、男性がボイン好きなのは当たり前だし、ボインの魔力に魅了されるのって普通だと思うの。ほら、こうも言うでしょ? 『おっぱいに詰まっているのは脂肪じゃなくて夢と希望』だって。私は凄く寛容な金髪女子高生だからね。中高一貫の私立女学園に通っていたといっても、ただの保健室登校だから。でも興味深い話だよね。だって、エロ本ってただの紙っぺらなんだよ? 実際に揉めるわけじゃないんだし、結局のところは各々の想像力に頼るしかないじゃん。あ、志恩の事を否定してるんじゃないよ? 私はね、八童志恩という存在がどんな物に性的興奮を覚えたのか知る権利があるの。大切なパートナーの全てを理解するのが恋人の本分だし、そうすることが正しい考えだと思うんだ。でもさ、”ボイン戦隊・金髪レッド”っていうタイトルからすると、他にも隊員さんが居そうだよね。ああ、もしかしてシリーズ物のエロ本なのかな? その時、志恩は二十七歳だったよね? 私の記憶が間違ってなければ、志恩には彼女が何十人も居るんだよね。なんだか志恩が羨ましく感じるな―。ほら、こうも言うでしょ? 『釈迦に説法』って言葉。意味は確か、『自分よりもよく知っている専門家に対して、自分の方が詳しい顔をして教える』だったと思うけど、今の私にはピッタリな言葉だよね。だって私、志恩みたいに沢山のエロ本に精通しているわけじゃないし、異性との交際も志恩が初めてだからさ。志恩が喜んでくれるなら、出来る限りの協力は惜しまないよ。だけど、エロ本のサブタイトルに載っていた『寝取られ編』っていうのだけは見逃せないかな。だって寝取られ編が好きだっていう事は、私が他の誰かに寝取られることに性的興奮を覚えるんでしょ? そういう性癖が世の中に存在するのは知っていたけど、寝取られっていうのは”脳を破壊”するジャンルだからオススメできないかな。決して否定している訳じゃないんだけど、志恩がどうしてもそうしてほしいのなら、私なりに頑張ろうと思うよ。だってほら、私は志恩の大切な婚約者だからね。それに屋敷には”隻夜叉”がいるじゃん。彼だって私を求めているみたいだし、抱いてもらうには丁度いい相手だよね……」
彼が”宝物”と称していた、『ボイン戦隊・金髪レッド』へと嫉妬からなのか、呟かずにはいられなかった。
頬に添えていたはずの手のひらに自然と力が入る。
「ま、まま、待ってくれ。落ち着いて話そう柚子葉。あのピンク本は――たまたま半額セールで手に入れた物であって、俺は寝取られに興味があるわけじゃねえ。言い訳するつもりじゃねえが、俺の性的興奮対象は”ケモ耳”だ」
何度もツバを飲み込む志恩。
目を合わせないところをみると、もしかしたら俺に怯えていたのかもしれない。
ちっ。これだけ追い詰めても言い訳するのか。
いや、待てよ。寝取られジャンルが真実でないのであれば、彼が最後に言っていた”ケモ耳”というのが本当の性的興奮対象なのか?
寝取られというジャンルは誰も幸せになれない。読み手の脳に多くの傷跡を残し、暴虐の如く破壊の限りを尽くす王道ジャンルである。
しかし、寝取られというジャンルに一度でも興奮してしまった脳は、読者にさらなる刺激を追い求めてしまい、他のジャンルにも寝取られを強要する呪いに近い。
質の悪い呪術と言っても過言ではないだろう。読者の精神力を試すような呪術であるし、屈強な精神力を持つ者にしか耐えられない性癖だ。
いや、こうも考えられる。”読者は既に脳を破壊され尽くし、それに気づいておきながらも、より強大な刺激を求めている”ということ。
強力な呪いから解放されるためには、脳を癒やすような純愛物のピンク本を読まなければならないはず。
志恩が寝取られ体質ではないと理解した直後、彼の性的興奮の対象が”ケモ耳”であるという事を知り、穢れた脂汗が額から滲み出た。
「ねえ、志恩が寝取られに興味がないのは理解できたけど、さっき言ってた”ケモ耳が好き”っていうのは……本当の事なの?」
「誤解するなよ柚子葉。あくまで好意の対象だけであって、ケモ耳に興奮するわけじゃないからな」
「な、なんで”ケモ耳”に興奮するの。ボインの事なら理解できるよ、いつも視線が胸に向けられているから。でも、ケモ耳だけは理解できない。だってケモ耳が好きっていう事は、志恩は”ケモナー”ってことになるんだよ? 志恩が妖怪なのは理解してる。でも、そうまでしてケモナーになったのはどうしてなの!? 私はケモ耳美少女じゃないよ、ただの金髪美少女。それにほら、ケミ耳美少女って人間じゃないじゃん……」
「そんな目で見ないでくれ。仕方なかったんだ。ほら、俺は鴉天狗の妖怪だろ? 俺に好意を寄せてくる妖怪の殆どは、ケモ耳妖怪の女ばかりだったんだ。だから、仕方なく……」
なるほど。ケモ耳妖怪の女性が居るのなら仕方ない。
いや、ここで引き下がっていいのか?
性癖を歪めてしまうほとんどの要因は、幼少期の事に体験した異性との交流が関係していると言う。
熟女然り、ボイン然り。何らかの原因があって、志恩は仕方なくケモ耳が好きになってしまったのだろう。
しかし、ケモ耳に下半身が反応するのだとしたら、犬や猫といった動物にも興奮するのだろうか。いや、志恩の場合は”ボインとケモ耳”の二つだ。
片方だけの条件では抜けないはず。
だけど、そうなってくると考えを改めなければならない。
ケモ耳とボインを重ねた性癖。つまり、志恩が追い求める理想の女性像は”ケモ耳ボイン”ということになるのだろう。
等と考えながら視線を落とし、地を這いつくばる志恩を睨みつけた。
「大丈夫だよ志恩。ボインに関しては成長次第だけど、ケモ耳ぐらいならドン・〇ホーテのアダルトコーナーに置いてあるだろうから」
「なあ柚子葉、そんな虚ろな目で見ないでくれ!」
頬に伝わる涙をぬぐい、精一杯に許しを請う彼の姿。何もかもをさらけ出したような志恩の姿は、なぜだか愛おしく感じられるようなものだった。
仕方がない。今度、志恩のために駅前のド〇・キホーテに行かなければならないな。
――
志恩が性癖を暴露してから数時間後。俺は葉月兄さんの部屋でくつろぎながら、十年前の出来事を思い出そうとしていた。
本来であれば、当事者である志恩に助けを求め、欠落したであろう記憶を取り戻すのが正しい選択だろう。
しかし、そうもいかなかった。
志恩曰く、「今日は夜中までは帰れそうにない。お前が楢野町で起こした協定違反を正式に取り消すため、実家に戻らないといけなくなった」とのこと。
”戻らないといけない”という言葉には、どんな意味が込められているのだろう。
もしかしたら、倉敷家の屋敷には戻らず、そのまま八童家に居続けるのだろうか。いや、そもそも志恩が現代に居ることを八童家の人間は知っているのか?
「志恩、このまま帰ってこないのかな……」
十年前の九月八日前、志恩は
そして志恩が妖怪だと知った今、俺の中にある八童家への印象も変わりつつあった。
「志恩が鴉天狗の妖怪であるのなら、彼の両親も妖怪なのだろうか……」
その事を考慮すると、八尾薬王院に勤めている人間も怪しくみえる。
志恩は以前、平安時代の桑都について語ってくれた。
人間と妖怪が共存する桑都という都。彼の話が本当であれば、桑都の一部であった八尾山も共存地区であるはずだ。
等と考えながら勉強机に手を伸ばし、卓上に置いていた麦茶入りのコップを持ち上げた。
「多分、志恩は屋敷に戻ってくるはず。思い出せない記憶のことを彼に話すのなら、ある程度の情報を紙に書いて整理したほうがいいかもしれない」
勉強机の引き出しから白紙を取り出し、脳内に留まる記憶を文字に起こした。
――
時刻は正午を過ぎた頃。
離れ座敷の玄関先に葉月兄さんを呼んだ志恩。彼は複数の女性と明神冬夜、優月さんと葉月兄さんを引き連れ、敷地内の駐車場へと向かった。
「さっさと行くぞ葉月。お前の準備が遅いせいで優月がイライラしてんぞ」
「イライラなんかしてないから。海に着くのが夜になったとしても、呪いを抑制する液体は持ってますし、何の問題もありませんよ」
大人数が乗れる自動車に近づく優月さん。彼女は手のひらで何度か扉を叩き、運転席に座っていた志恩を睨みつけていた。
叩いた衝撃でドンっ、という音と共に車にへこみが出来る。
イライラしていないとは言っていたが、今思い返してみれば優月さんは明らかにイライラしていたと思う。
それから数分が経ち、葉月兄さんは俺の実母、
ベージュ色のトップスとサロペットに身を包んだ結衣ママ。
彼女は俺に気を遣ってくれたのか、お揃いのコーデで現れた。
「ねえ結衣ママ。葉月兄さんが海に行くって言ってる」
「知ってるわよ柚子葉。貴女も一緒に行きたいの?」
喉まで上がってきた「行きたい」という言葉を飲み込み、俺は結衣ママの足に抱き着く。
「ううん。行きたくない……」
「本当に? 正直に言ってごらん、ママには何でもお見通しなのよ?」
視線を合わせるようにしゃがみこんだ結衣ママ。彼女は俺の手を握った後、小さくデコピンをしてきた。
「痛い……」
「結衣ママは嘘が嫌いなの。約束を破る人も嫌いだし、色んな相手にチューをする人も嫌い。だから柚子葉、本当の気持ちを教えてちょうだい。貴女は海に行きたいの?」
本当の気持ち。本当は葉月兄さんと一緒に海へ行きたい。
大人の人たちと混じって遊びたいし、誰かと一緒に笑い合いたい。
だとしても、ここで俺が我が儘を言うことで、葉月兄さんたちの予定が狂うかもしれない。
小学生にも満たない園児だと言うのに、俺は人の視線や気持ちが気になり、正直な思いを伝えられなかった。
「……分からない。たぶん、行きたいと思う」
「偉いわ柚子葉。正直に言ってくれて結衣ママ嬉しいわ。葉月さん、先に海へ行ってください。私と柚子葉は後から行きます!」
大好きな結衣ママに嫌われたくない。
そんな思いを抱きながら言った言葉なのに、結衣ママは優しく微笑んで頭を撫でてくれた。
喜びのあまり駐車場を走り回ったが、一塁に滑り込む野球選手のように盛大に転んだ。
「柚子葉! 大丈夫?」
駆け寄る結衣ママ。彼女は俺を抱きかかえたまま屋敷に戻る。
そこで記憶が途切れた。
時を忘れるような追憶に耽っていたせいなのか、勉強机には文字が敷き詰められた数枚の紙が広がっていた。
「あれ、こんなに書いてたんだ……」
気分転換にでもアイスを食べようと思い立ち上がった直後、強烈な違和感が俺を襲った。
「どうして――宝刀を握っているの。それに手のひらの傷、この傷って記憶の中で転んだ時につけたはずなのに……」
手のひらにできた擦り傷。何度か手のひらを握ってみるが、傷は本物だったようだ。
何かがおかしい。いや、おかしいどころじゃない。
記憶の中でできた傷が現実にまで影響するなんてありえない。
それに左手に握られていた”七度返りの宝刀”の存在。
記憶を辿っていく前、俺は宝刀を握っていなかった。
浮世離れした出来事を受け居られず、俺は混乱しながらじっとしていられない足を動かし、宝刀の事を良く知る人物の元へと走り出した。
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