参ー九
浮世離れした出来事を受け居られず、俺は混乱しながらじっとしていられない足を動かし、宝刀の事を良く知る人物の元へと走り出した。
急な階段を駆け下り、廊下を走り抜ける。その道中、千代子お祖母ちゃんと目が合った。
「何してんの千代子お祖母ちゃん」
「晩御飯の支度をしてるの」
「ふーん」
「今日の献立はシゲちゃんの大好きなカレーを作るわ。シゲちゃんの書斎に行くのなら伝えておいてちょうだい」
厨房から漂う芳醇な香り。
今日の夕飯はカレーか。シゲシゲが喜ぶだろうな。
屋敷内の中庭に差し掛かり、彼の書斎がある部屋へと駆け込んだ。
「なあシゲシゲ!」
「どうした柚子、何か用があるのか?」
シゲシゲは読書に夢中であるらしく、俺のことなど気にせず本を読み続けていた。
シゲシゲを挟み込むように置かれた頑丈な本棚。
棚には分厚い辞書や歴史文献などが敷き詰められており、図書館を彷彿とさせるような部屋がそこにあった。
部屋の中央に置かれた分厚い一人用のソファに座っているシゲシゲ。彼の傍に近づき、持っていた宝刀を彼の机に置く。
「聴いてシゲシゲ、今さっきの出来事なんだけど……」
「なんじゃ。怪我でもしたのか?」
話を遮るように振り返ったシゲシゲ。彼は俺の手のひらを掴んだと思いきや、机の引き出しから包帯を取り出した。
「怪我の事はどうでもいい。いや、どうでもよくないか。あのね、今さっき十年以上前のことを思い出してたんだけど、不思議なことが起こって……」
それから俺は葉月兄さんの部屋で起きたことを話した。
十年以上前の出来事が思い出せない事。
記憶の中の結衣ママが言っていた、「色んな相手にチューをする人も嫌い」という言葉。
そして記憶の中で負った擦り傷が現実に反映し、目覚めた時には宝刀を握り締めた事。
「そうか。記憶の中の結衣さんがそんなことを言っていたのか。柚子は結衣さんの事をどこまで知っているんだ?」
思い当たる節があるのか、唇を噛みしめ眉をひそめるシゲシゲ。彼は机の上に置かれた宝刀へ手を伸ばし、俺の胸に押し当てた。
シゲシゲの問いかけに答えようとしたが、結衣ママのことを思い出そうとした俺の脳内には、陽炎のような朧げな母の姿しか残っていなかった。
「結衣ママのこと。何も分からない、どうして思い出せないのか分からない。何で私は結衣ママのことを思い出せないの……」
「落ち着いて聴きなさい柚子。お前の母、倉敷結衣は十一年前の八月六日、何者かによって殺された」
剣幕を見せるのでもなく、いきり立つような態度も見せず、シゲシゲは悲痛を物語るように小さく呟いた。
結衣ママの死について語り始めたシゲシゲ。
彼が語り始めた十一年前の出来事が脳裏を過るが、結衣ママの死についての記憶だけがポッカリと抜け落ちたままだった。
思い出すことのできない耐え難い事実が淡々と語られる。
大切な母との記憶を思い出せず、俺はただただ呆然と立ち尽くした。
「誰かが結衣ママを殺したんだ……」
「恐らく、柚子が結衣さんとの記憶を思い出せないのは、精神的な負荷が掛からぬよう、脳が記憶を封じ込めたのだろう」
「記憶の事は解った。でも、手のひらに出来た傷のことは理解できない。どうして記憶の中で負った擦り傷が現実にも反映されてるの?」
「そうじゃな……」
ソファから立ち上がったシゲシゲ。彼は敷き詰められた本棚から一冊の本を取り出し、ページをめくり続けた。
自分の馬鹿さ加減に呆れる。どうして俺は結衣ママの事を思い出せないんだ。
精神的なショックが記憶を封印するという話は聞いたことがある。いわゆる、トラウマという奴をそう言うのだろう。
「あったぞ柚子。十数代も前の持ち主が記録したものだが、本にはこう記されている。『七度返りの宝刀には、歴代の持ち主の記憶に干渉する能力がある。しかし、それは一定の条件下でなければ発動しない』とのことだ。七度返りの宝刀は柚子を選んだ。もはや、この書物はワシに必要ないな」
シゲシゲはそう言って本を渡してきた。
七度返りの宝刀に関して記された本。いや、本と言うよりは
何であったとしても、七度返りの宝刀について詳しく書いてあるのなら、思い出せない記憶を知るのに手掛かりになるはず。
一キロ以上はあるだろう和本を手に取り、書斎から出て行こうとしたが、シゲシゲに引き留められた。
「なんだよシゲシゲ」
「柚子、宝刀を忘れているぞ」
「ああ、そうだったな」
「なあ柚子、もうすぐお前の誕生日だな」
「まあな。不登校系女子高生だけど、ピチピチの十七歳だぜ」
「そうか。そういえば今年から十八歳が成人扱いされるようだな」
「ああ、ニュースで言ってた奴か。成人まではあと一年ってところだな。そんなに早く振袖姿が見たいのか?」
「まあな。柚子――あのな……」
シゲシゲが何を言おうとしていたのかは理解できていた。
だけど、彼の話を最後まで聞くのが怖かった。
八尾山の参道で身を挺して山男に宝刀を突き刺したシゲシゲ。
全身を強く打った八十四歳のお爺ちゃん。
市内の病院から退院したはいいものの、シゲシゲは未だに安静を命じられている。
「この本ありがとう。それとシゲシゲ、上手く隠しているようだが、エロ本を隠すなら引き出しの中じゃなくて本棚に紛れさせとけよ」
騒ぎ続ける心を抑え込み、俺は上手く話題を逸らした。
ここでシゲシゲの気を逸らさなければ、シゲシゲと目を合わせ続けることが出来ないように感じだからだ。
「じゃあ部屋に戻るわ。あ、そうそう。千代子お祖母ちゃんが言ってた。きょうの晩飯はカレーだってよ」
「分かった。柚子、ありがとうな」
小さく微笑んだシゲシゲ。
彼の引き込まれるような優しい瞳を見続けることが出来ず、俺は顔を伏せながら書斎から出て行った。
――
時刻は午後の五時を過ぎた頃。熱に浮かされるように本を読み漁り、七度返りの宝刀について理解できたことをノートに書き込む。
一心不乱にペンを握り、宝刀の能力を記したノートにペン先を当てた。
「今のところ、解ったのは、『血液に反応して抜刀する』ことぐらいかな……」
四つ目綴じの和本から得た情報によると、七度返りの宝刀は数代に渡って倉敷家の当主に受け継がれていたが、それ以前は多くの人間や化け物の手に渡っていたらしい。
隻夜叉が言っていた”酒呑童子の忌具”という記録は残っていなかったが、楢野家や狭間家、八童家や旧家の人間に渡っていたという記録が残されている。
その他にも宝刀の刀身を描いた図が記されていたが、持ち主の意思によって刀身は変化するらしく、同じような形状を描いた図は存在していない。
待ち望んでいたような情報が記されていなく、気を落とす他なかった。
記憶の中で負った手のひらの傷を宝刀に擦りつける。
その後、何度か念じてはみたが、一向に宝刀は抜けない。
葉月兄さんのベッドに飛び込み、差し入れるように宝刀を天井に向けて突き上げる。
「幾ら念じても引き抜けない。本の情報が正しいのであれば、持ち主の血液に反応して引き抜けるはず。他に条件があるのか?」
「何を呆けておるのだ柚子葉童子」
声に反応して肩をビクッと揺らす。
視線を横に向けてみると、隻夜叉が扉の前に立っていた。
ノックもせずに女子の部屋に入るなんて非常識すぎる。いや、葉月兄さんの部屋であるから女子の部屋ではないか。
藍色の直垂の上に籠手を身に付けた隻夜叉。
気配を察知させることなく部屋に入ったのだとすると、幽体化の能力を使って扉をすり抜けたのだろう。
「ああ隻夜叉。あのね、シゲシゲから、七度返りの宝刀についての記録が書かれた本を貰ったんだ。本に書いてあった”血液を鞘に押し当てる”っていう行為を真似してみたんだけど、全然抜けやしないんだ」
「なるほど。血液による”縛り”か。その四つ目綴じを借りるぞ」
机に置かれた本を手に取った隻夜叉。彼は宝刀を抜刀したという先代が残したページを睨みつけた。
「童子や童子。お主、宝刀に押し当てた血液には”霊縛術”を施したのか?」
「やってみたよ。志恩と隻夜叉から霊縛術を習って以来、暇な時があればずっと霊縛術の練習をしてるからね」
宝刀の柄を握り締め、彼と志恩が庭園で行っていた霊縛術を発動した。
柄から鞘の切っ先まで伸びる霊縛術。術式によって込められた霊力は、赤い刃となって鞘を包みこんだ。
「なるほど。霊縛術は上手く発動している。だとすると、術式の方ではなく”霊魂の方”に問題がありそうだな」
隻夜叉はそう言ってベッドに近づき、俺の隣に座り始めた。
ち、近い。どうして真横に座ったんだ?
人間には四つの距離が存在すると言う。公衆距離や社会距離、個体距離や親密距離といったパーソナルスペース。
その中でも親密距離においては名の通り、息遣いや体温さえも感じられるほどの密接した距離だったと思う。
四つ目綴じの本を睨みつける隻夜叉。どうやら彼の中にある人との距離感はバグっているらしく、彼は三つの距離を気にも留めずに近づき、肌が擦れるほどの位置に座った。
真剣な眼差しで本を睨みつける彼の姿は、正に美男子と呼んでも過言ではないものをしている。
「……童子、柚子葉童子、柚子葉!」
何度か俺の名前を呼び続ける隻夜叉。
彼の横顔に見惚れていたせいなのか、彼が肩を揺らしてくるまで我に返ることが出来なかった。
どうして俺はこんなにも男性への免疫力が無いのだろう。
相手が長髪の美男子だからか? もしそうだとしたら、悪いのは俺ではなく隻夜叉の方だ。見惚れる程に整った顔をしている隻夜叉に非がある。
相次ぐ責任転嫁が脳裏を過ぎり、恥ずかしさを抑え込むためにベッドへ飛び込んだ。
妄想列車の客車に敷き詰められた煩悩を封じ込め、想いを汲み取ろうとする列車を最寄りの駅で急停車する。
ベッドの脇に座る隻夜叉へと何度か視線を送るが、彼は呆れ果てたような眼差しを送り続けていた。
「ユズハ、ガンバル。ガンバって免疫力タカメル」
男児の身長はあるだろう抱き枕を抱きしめ、煩悩を振り払うように身悶えていると、隻夜叉までもがベッドに飛び込んできた。
「童子。
怪しげな笑みを浮かべながら隻夜叉が言った。
余計なお世話だ。こっちは中高一貫の女学園に通っていた陰キャ女子高生だぞ。男という生き物に免疫がないんだから仕方がないだろ。
等と想いを巡らせていたが、俺が何も言い返さない事を彼は不思議に思ったらしい。
その後、隻夜叉は、「熱でもあるのか?」と言いながらベッドの脇に座りなおし、俺の額に手を伸ばす。
俺は咄嗟に彼の手のひらを掴んだ。
「うるさい。そんな顔をしながら本を読むお前が悪いんだ」
「”人のせいにする性格”、相変わらず酒呑童子に似ておる。それより分かった事がある。抜刀に関しての情報は正しいのだが、この和本に記録されている、『宝刀の記憶』に関する項目ついては、間違っているものがあった」
隻夜叉はそう言って和本を差し伸べてきた。
隻夜叉の話によると、宝刀の歴代の持ち主である酒呑童子曰く、「自身の過去の記憶を、あたかも他人の記憶の様に追体験するには、条件が揃っていなければならない」とのこと。
彼が酒呑童子から聞いた話でしかないが、自身の記憶を再体験するには、”肉体から精神だけを取り除く”ことが必要であるらしい。
隻夜叉が言っていた、「肉体から精神だけを取り除く」という言葉。
不揃いだったパズルの盤面に前触れもなくピースが埋まっていく感覚。
それらは俺に足りなかった何かを補うように揃い始めた。
肉体から精神だけを抽出する異能。そんなことが人間に可能なのか? いや、違う。そうじゃない。
俺は精神だけを肉体から別離する術を知っている。
「隻夜叉――俺、俺……精神を……」
「肉体から精神のみを抽出か。余が知っている限りでは、”幽体化”の異能しか思い当たらんが……」
「それだよ。それだよ隻夜叉。俺、幽体化の異能を使える!」
「何を言っておる。幽体化は”忌段の妖怪か死を前にした人間”にしか使えぬ異能であるぞ。お主はそれが使えるというのか⁉」
隻夜叉は愕然とした表情を浮かべ、ベットから立ち上がった。
偶然とは思えないような状況に困惑せざるを得なかった。
記憶を再体験するために、”何者か”に用意された俺の異能。
これが偶然でないのだとしたら、十年前に参道で出遭った”鬼童丸”が関係しているのだろうか。
「俺は幽体化の異能が使える。隻夜叉、お前には言ってなかったと思うけど、俺は十年前に”鬼童丸”という赤鬼に霊魂を奪われたことがある」
「柚子葉童子。今、”鬼童丸”という赤鬼と言ったか?」
「うん。俺の霊魂を奪ったのは、鬼童丸っていう赤鬼。アイツが十年前……」
「鬼童丸という名は、”酒呑童子の忌名”だ! どうして隠しておったのだ!」
衝撃を受けたかのように、隻夜叉は呆然と立ち尽くしていた。
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