弐ー六


 目を覚ました俺は見知らぬ川岸に横たわっていた。

 先程まで居た八尾山の姿はなく、代わりに存在していたのは、鮮血のように赤く染まった河と真っ赤な空。


 周囲には彼岸花が植えられ、視界の全てを覆う赤色の空を見渡してみる限り、ここが現実の世界ではないと一瞬で理解できた。


 川岸の至る所には小石が積み重ねられており、周囲をよく見てみると、岸に膝をついた小袖姿の少年少女たちの姿がある。

 

「俺もしかして――」

「柚子葉。どうして主がここにおるのだ?」


 聞き覚えのある声に気づき、俺は背後を振り返る。

 そこには、死装束と思われる白い小袖に身を包み、目を丸くさせた女が居る。


 腰まで伸びた艶のある黒髪、鏡を見ているのではないかと錯覚してしまうような彼女の顔。


 彼女が夢に度々現れる”沙華姫”であることは一目で分かった。

 

「もしかして貴女。沙華さんですか?」

「隠す必要はなさそうじゃな。お主の言う通り、妾は倉敷沙華」


 彼女は自身を倉敷沙華と名乗り、起き上がった俺に手を伸ばした。

 

「ここは三途の川ですか?」

「流石は倉敷家の末裔であるな。ここは亡者がさまよう彼岸、死した者が辿り着く場所だ」


 沙華姫はそう言って対岸へと指を差した。

 彼女の話によると、俺が今いる場所は彼岸と呼ばれる場所だったらしく、鮮血の川を渡った先は黄泉の国であるとのことだ。


 どうして俺はこんな場所にいるんだろう。意識を失う直前、体に強い衝撃を受けた気がするけど、どうもよく思い出せない。


 確か、志恩と隻夜叉が睨み合って、滝場に光が広がって――。


 などと考え込んでいると、沙華姫に腕を掴まれた。

 

「どうしたんですか?」

「お主にやって貰わなければならないことがある。肉体が消滅した妾には行えず、この彼岸では出来ないことだ」


 歯を食いしばる沙華姫。俺の腕を握ってきた彼女の手のひらには、逸り立つ何かを抑えるようなものが感じ取れる。

 表情からしてみても俺に会える事を待望していたように見えた。


「柚子葉。お主の霊魂を奪ったのは鬼童丸ではない。お主が現世に戻った際、妾と姿形が瓜二つの傀儡が現れるはずだ。いつ何時かは分からぬが、その傀儡はお主の霊魂を奪おうとする」


 沙華姫が言った。


 彼女の言ったことが真実かどうかは分からない。けれども沙華姫は、俺の体から霊魂を奪ったのは鬼童丸ではないと断言していた。

 そして沙華姫と瓜二つの傀儡に気を付ける事。現世に戻り次第、沙華姫との話は志恩に伝えておくべきなのかもしれない。俺にはそう思えた。


 いや、ここが三途の川の彼岸である以上、俺は現世に帰ることが出来るのだろうか。死人という肉体であるからするに、俺は本当に死んでしまっているのではないか。

 

 等々、下着姿で呆然としていた俺は考え込んだ。

 

「沙華さん。俺はどうやったら現世に帰れますか?」

「そうか。お主は陰陽術や妖術、霊術が使えないのか。ならば妾が送ってやろう」


 そう言った沙華姫は、死装束の袖を探り始める。

 彼女は死装束の袖に何かを隠していたらしく、袖からボロボロの紙人形を差し出した。

 

「この人形は?」

「この紙人形には妾が生前に付与した霊力が込められておる。お主の肉に宿った霊魂を便りに、霊魂を現世の肉へと導いてくれるだろう」


 俺は沙華姫から紙人形を受け取る。

 その直後、手のひらに乗せた一枚の紙人形は、瞬く間に霊力を纏い、複数の紙吹雪へと分裂した。

 

 周囲を漂うように浮かび上がった紙人形。それらは徐々に動きを加速していき、俺の体を包みこんで球体になった。


「柚子葉。もしも鬼童丸に出会えたならば、妾は蘇るつもりがないと伝えてくれ」

「え、鬼童丸って……」


 鬼童丸という赤鬼。俺の霊魂を奪った彼に対し、沙華姫は何かを思い返していたかのように目を瞑る。


 懐古の情に浸っているのか、沙華姫の頬に涙が伝っているようにも見えた。

 

 球体と化した紙人形の紙吹雪。それらは純白の輝きを放ったかと思えば、何らかの術式を発動したらしく、眩い光に当てられた俺は目を開け続けることが出来なくなった。

 

――


 線香の香りや耳に流れ込む会話、バタバタと足を鳴らす音に気づいた俺は目を覚ます。

 

「あれ、ここは屋敷?」

「柚子。やっと目を覚ましてくれたか。あれから丸一日が経った。生きていて本当に良かった」


 布団から起き上がり、声を発した主の方へと振り向く。

 そこには安堵の笑み浮かべ、焦燥した様子のシゲシゲが座っていた。


「もう少し寝ていた方がいい。昨日は散々な目に遭ったようだな」

 

 そう言ったシゲシゲは俺の頭を撫でたかと思いきや、敷布団の傍から立ち上がる。


 部屋の隅にある仏壇や周囲を見る限り、俺が居るのは倉敷家の屋敷内であることは間違いないらしい。


 シゲシゲの話によると、滝場で俺が気を失ってしまった直後、志恩の後を追っていったシゲシゲは、滝場に居る志恩と合流したようだ。


 俺は昨夜の出来事を思い出し、部屋から立ち去ろうとするシゲシゲを引き留める。

 

「なあシゲシゲ。俺、昨日の夜に志恩と隻夜叉に会って……」

「分かっておる。志恩も猫屋敷先生、小泉さんも一緒に帰ってきた。数時間前に小泉さんは家に帰ったが、猫屋敷先生は屋敷に暫く泊まるようだな。起きたら挨拶でもしていきなさい」


 シゲシゲは居間に続く襖を開き、何処かへ向かった。


 布団の傍に置かれたスマホへと手を伸ばし、何度かタップ。画面には現在の時刻と日付が表示され、今が十九時四十五分であることを確認できた。


 スマホには十数件のメッセージが届いており、そのどれもがネクタイ仮面さんや千代子お祖母ちゃん、猫屋敷宗一郎や小泉さんからのメッセージ。


 ネクタイ仮面さんに無事だとメッセージを送り、いつの間にかアプリの友達欄に追加されていた小泉さんにメッセージを送る。

 

 二人に簡単な帰還報告を送り、俺は敷布団の傍らに置かれた”七度返りの宝刀”に手を伸ばす。

 

「変な夢を見た気がするけど、何の夢だか思い出せない」


 七度返りの宝刀は相変わらず錆びだらけだった。

 刀身を収める金属の鞘や持ち手の柄、あれだけの数の霊的存在達を祓ったとは思えないほど、七度返りの宝刀は傷ひとつない。

 

 山男に拉致されたのが同じぐらいの時間だとしたら、俺は丸一日寝ていたのか。

 何処かへ向かったシゲシゲは、志恩と宗一郎が屋敷に居るとは言ったけど、屋敷の中のどこに居るんだろう。


 布団から立ち上がった俺は、葉月兄の仏壇が置かれた部屋から出ていくため、布団の傍に置かれた部屋着へと手を伸ばした。

 

 丸一日寝ていたせいなのか、それとも昨夜の出来事で疲れているせいなのか。原因が何だったとしても、俺の体には疲労が溜まっていたらしい。


 重く感じる腕を部屋着に通し、モコモコのショートパンツを履き、宗一郎と志恩が居るであろう客間へと向かった。


 襖を開けた先には、居間でスマホを弄っている千代子お祖母ちゃんの姿があり、何かの動画を見ているようだ。

 

「おはよう千代子お祖母ちゃん」

「あら柚子葉。やっと起きたのね。客間にお客様と猫屋敷先生、志恩が居るわ。晩御飯を持って行ってあげるから、先に向かってなさい」


 千代子お祖母ちゃんはそう言い、座っていた座椅子から立ち上がり、厨房へと向かう。

 半妖であるからなのか、無事に帰ってきたからなのか。どうしてかは分からないが、千代子お祖母ちゃんの態度は、昨日以前と変わっていなかった。


 彼女なりの優しさなのだろう。

 冷たくもなく、心配するでもない彼女の態度は、変に気を遣われる事もなく好都合なものだった。


 俺は居間から出ていき、廊下を歩き続ける。

 

「そっか。志恩と宗一郎は客間にいるんだ」


 二階に続く階段がある廊下とは真逆の廊下を進む。

 屋敷内に存在する中庭へと到着すると、視線の先に猫屋敷宗一郎が佇んでいた。

 

 煙草を咥え、中庭を囲う手摺りに肘を乗せ、手のひらに顎を置く宗一郎。

 何かに気を取られているのか、彼は肩を叩かれるまで俺の存在に気づかなかったようだ。

 

「おーい宗一郎。何考えてるの?」

「ああ柚子葉さん。やっと起きたんですね。体の調子は戻りましたか?」

「うん。起きた時は変な感じがしたけど、今は調子が良いみたい」

「それは良かったです。貴女の体は現代の医療技術では説明できませんからね。何の効果にせよ、貴女が無事でいてくれて安心しました」


 宗一郎は咥えていた煙草を指で挟み、昨日の出来事を話し始めた。


 彼は保健の先生である。中高一貫校の女学園の職員であり、どちらかと言えば霊的存在を信じない人間。

 けれども、昨日の夜に出会った化け物という存在を目の当たりにした彼は、人間の常識の範疇を超えた存在を目にしたことで困惑していたようだ。


「あんな生き物が本当に居るとは思いませんでした」

 

 宗一郎が言った。視線は中庭に植えられた松の木へと向けられている。


 彼は続けて「狐に化かされた気分です」と言い、頬に垂れた長髪をかき上げ、目を瞑った。

 話で聞くのと実際に見るのとでは理解度が異なるらしく、化け物の存在を実際に目にした彼は、現実を受け入れられなったようだ。


 俺は持っていた宝刀の鞘で宗一郎の背中を小突く。

 

「宗一郎、そんなに落ち込むなよ。あんな化け物は滅多に現れない。普通の人生を送っていれば、干渉してこないからさ」

「そうですか」

「まあな。千代子お祖母ちゃんが晩飯を持ってくるって言ってたから、煙草を吸い終わったら客間に戻れよ」

「…………」


 宗一郎をその場に残し、俺は客間の襖を開こうとした。

 しかし、部屋の中から言い争いのような言葉の掛け合いが聴こえ、襖を開けずに耳を澄ます。


「だから、柚子葉は俺の婚約者なんだよ!」

 

 志恩の声だ。彼は廊下にまで聞こえる声を発し、誰かに向かって叫んでいたようだ。


「戯言ばかり言いおって。柚子葉童子に相応しいのは、余のような大妖怪であるぞ。大天狗でもない貴殿に柚子葉童子が守れるとでもいうのか?」

 

 この声は、この声は昨日の夜に出会った男の言葉だ。


 ジャージのズボンや真っ赤なタンクトップを脱げと言い、冗談であっても俺を孕まそうとした鬼の妖怪。

 志恩の交わしたファーストキスでは感じられなかった蕩けるような口づけを行い、俺の脳内を真っ白にさせた隻夜叉の声だった。


 居ても立っても居られず、俺は襖を勢いよく開く。

 そこには、座卓に身を乗り出す甚平姿の志恩、彼と同じように座卓に身を乗り出した着物姿の隻夜叉が居た。


 二人は俺の登場を予想していなかったのか、廊下に佇んでいた俺を見るや否や、咳払いをしながら座卓に腰を下ろした。


 先ほどまでの喧騒が嘘のように消え、エアコンの動作音だけが客間に響き渡る。

 

「えーっと。御二人共、どうしてこんなところに居るんですか?」

「柚子葉、この馬鹿青鬼に言ってやってくれ、『志恩は婚約者だ』ってな!」

「先程から世迷言ばかり言いおって、柚子葉童子に必要なのは余のような力ある者。柚子葉童子の肉から酒呑童子の霊力が感じる以上、彼女は余の妾になるべき存在だ!」

 

 恋愛の神様、現場が混乱しています。

 貴方はどうしてそんなに意地悪なんでしょうか。どうして俺のような陰キャにモテ期をお与えしたのでしょうか。


 想いを寄せ続けた片思い相手と命を救ってくれた恩人。両者は陰キャの俺を巡って争っております。

 御二人共、陰キャの女子高生から見てしまえば、胃もたれしそうな程の甘味でございます。


 一方は俺の事を婚約者だと仰っており、もう一方は化け物の軍勢から命を救ってくれた美男子です。

 恋愛の神様、貴方には人の心というものがないのでしょうか。


 順番があれど、俺は両者と口づけをしました。

 卵が先か鶏が先か。そんなことはどうだっていいです。


 優柔不断な俺には決めることが出来ません。

 貴方のような意地悪な恋愛の神様は、何を考えてこのような状況を作り出したのでしょうか。


 等々、俺は美男妖怪たちに見つめられ、脳内を煩悩で満たした。

 推しと言っても過言ではない二人の姿は、まさに尊い同士がぶつかり合う様をしており、カオスとなって俺の目を焼き尽していく。


 推し達から浴びせられる視線に耐えきれなくなり、俺は立っていられなくなった。

 背中から廊下へと一直線に倒れていったが、誰かが俺を受け止めてくれたようだ。


 俺の背中を支える誰かに視線を送る。

 振り返った先には、宗一郎がいた。


 こちらに暗黒微笑のような笑みを送る宗一郎。

 彼の妖艶な流し目は、数々の女学生を堕としてきた魔眼であり、彼の趣向を知っている者には効果がないはずだった。


 無論、彼の趣向を知っている俺も同様である。

 けれども、二人の尊いがぶつかり合う様を目にしたせいなのか、効くはずのない彼の魔眼は俺の瞳を焼き焦がした。


 宗一郎から視線を外し、脳内を煩悩で埋め尽くした俺は俯きながら客間の奥へと向かった。

 座卓の上座に座り、腰掛椅子に重心を乗せ、天を仰ぐ。

 

「やべえ。何か体調が悪くなってきた」


 長方形の座卓の向かい側には宗一郎が座り、右側には座卓に肘を乗せ、手のひらに顎を置く志恩。

 左側には座卓に腕を乗せ、刃物のように鋭利な爪で卓上を突く隻夜叉。


 部屋の何処に目を向けても、穢れなき尊いが渋滞しており、目のやり場に困った。

 

「色々訊きたいことがあるけど、順番に訊いていくから三人とも黙って」


 宗一郎は小さく頷き、ネクタイを緩め始めたかと思えば、胸ポケットから煙草を取り出した。

 隻夜叉と志恩は、依然、睨み合ったままだ。


 俺はこれまでの状況を訊くため、まずは志恩に質問をぶつけた。

 

「なあ志恩。昨日の夜の事だけど、俺が気を失ってから何が起きたの?」

「ああ、そのことだけどな……」

「柚子葉童子。お主が気を失ってしまったのは、この鴉天狗が霊力を拡散したからだ」


 志恩との会話に割り込む隻夜叉。

 誤解を生みたくないから発した発言だったのかもしれない。


 彼なりの気遣であったとしても、場が混乱するだけだ。

 

「待って待って。ちゃんと隻夜叉の話は聞くよ。まずは志恩からね?」

「仕方がないな。二番手なのは気に食わないが、小童の言い分もあるだろう。好きにするがよい」


 卓上を指で突き続けた隻夜叉は、指の動きを止めた。

 化け物たちから命を救ってくれた隻夜叉には悪いが、状況を整理するためにも志恩の話を聞かなければならない。


 顔を伏せながらも志恩を見つめ、俺は昨日の出来事を訊き始めた。

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