弐ー五


「柚子葉童子、余の後ろから離れるではないぞ」

 

 隻夜叉せきやしゃは背後にいる俺へと小さく呟いたかと思えば、宝刀を肩に担いで流し目を送ってきた。


 隻夜叉がそう言った直後、俺は彼の背中にピッタリと張り付きながら歩き続ける。

 

 松葉や混じりけのない水の匂いが俺を包み込み、それに付随するように腐敗した匂いや血生臭い香りが辺りを漂い始めた。


 肉塊の隙間を歩きながら鼻を手で覆う。

 

「酷い悪臭だ」


 怨霊や幽霊を斬り続ける隻夜叉。彼が宝刀を振り抜くたびに血飛沫が宙に飛び散る。

 霊的存在達の叫びが滝場に木霊していき、叫び声と共に血飛沫が宙を舞った。


 腐敗した妖怪の肉から噴き出す悪臭は、この世の物とは思えないほど腐りきった臭いを放ち続けている。

 

 錆びだらけの七度返りの宝刀を持つ隻夜叉へと視線を送り、俺は彼の姿に見惚れた。

 押し寄せる霊的存在達を次々と祓い続ける彼の姿は、さながら舞踊や芸能に近いものだと感じ取れた。

 

 祓うと言っても宝刀を叩きつけているだけだ。叩きつけていると言っても霊的存在達の体は両断されている。

 鞘から刀身を抜いていないのにも関わらず、隻夜叉が持っていた七度返りの宝刀は、霊的存在達の体に斬撃を作り続けていた。

 

 何かの妖術や霊術のようなものなのだろうか。そうでなければ、錆びだらけの鞘で斬りつけられるわけがない。

 

「鞘で叩いているだけなのに、どうしてこんなに」

「これは妖術ではないぞ柚子葉童子。お主のような半妖であれば理解できると思っていたが、そうではないようだな」


 迫り来る霊的存在達を斬り続ける隻夜叉は、妖怪や化け物、怪異や物の怪と呼ばれる存在が放った霊力の塊を宝刀で弾き返した。

 霊的存在を赤子の手をひねるかのように、易々とあしらう彼という存在。


 自身が放つ斬撃の全ては、妖術や霊術の類ではないと彼は言った。

 隻夜叉の話によると、錆びだらけの宝刀で霊的存在達を斬れるのは、自身の妖力を宝刀の鞘に込めたからだそうだ。


「この程度の怪異ならば妖圧で十分だろう」

 

 そう言って隻夜叉は宝刀を肩に置いた。

 

 流石は三大妖怪といったところなのだろうか。

 鬼という妖怪は天狗や妖狐と肩を並べる三大妖怪だ。地域によっては鬼を神と崇めることもあるという。


 隻夜叉という藍髪の鬼。姿形は成人男性と全く変わらない。

 人間と変わらない彼の姿は、美青年と例えるのには物足りなく、初老を迎えた男性と言い表すには誇張過ぎた。


 彼の背後を歩き続ける俺は隻夜叉に問いかける。

 

「なあ隻夜叉。お前は本当に鬼なのか?」

「柚子葉童子。これだけの屍を作り上げた余を疑うのか?」

 宝刀に滴る鮮血を振り落とし、水面へと宝刀を向けて隻夜叉は言った。

 

 隻夜叉が宝刀を向けた先には、彼が倒したと思われる妖怪の肉塊が転がっている。

 辺りを覆いつくすほどの肉塊の数々は、確かに隻夜叉が作り上げたものだ。


 そうであっても。そうだとしても、俺は目の前の現実を受け入れることが出来なかった。


 俺に小さく微笑んだ隻夜叉の微笑みは、どう考えても人間が浮かべた笑顔である。

 けれども、彼の笑顔に張り付く鮮血は、隻夜叉が藍髪の鬼、青鬼、鬼神という存在であることを誇示していた。


「童子や童子。陰陽師が消えたようだが、追わなくても良いのか?」

 

 隻夜叉が言った。


 彼の背後を歩き続けていたせいのなのか、それとも血生臭い香りに意識を持っていかれたせいなのか、妖怪や怨霊たちの亡骸に凝視していたせいなのか。


 意識を注いだものが何であっても、俺は隻夜叉の声で我に返った。


 隻夜叉が言っていた通り、周囲に天青吾郎の姿はなかった。

 残ったのは俺と隻夜叉、瓦礫の山と彼が屠った霊的存在達の亡骸だけである。


 こちらを振り向いた隻夜叉の姿は、化け物が噴き出した鮮血を浴びたせいなのか、夥しいほどの鮮血で直垂を赤く染めていた。

 

 研ぎ澄まされた刃のような彼の眼光が目に入る。

 その直後、俺の体から汗が噴き出した。

 

 俺が浮世的な存在であることを否定する存在。化け物たちを屠った青鬼という存在が目の前にいたからなのだろう。


 屍人という肉体なのにも関わらず、俺の生存本能は普通の人間と同様に危険信号を察知していた。


 足に力が入らなくなり、筋肉がこわばり、呼吸が乱れ始めて体が硬直する。

 志恩や千代子お祖母ちゃんからは感じない霊力。自身が妖怪の頂点に君臨していると誇示する彼の霊力は、普通の人間でも視えてしまうのではないかと思えるほど、彼の周囲を漂い続けていた。


 恐怖の感覚が全身を包みこみ、身動き一つ出来なかった俺は、隻夜叉の機嫌を損なわないよう必死に声を振り絞った。

 

「お願いです。何でもします。殺さないでください」


 情けを請うような言葉が滝場に木霊する。頭を垂れた先にあった水面には、必死に救いを求める憐れな女子高生の姿が写っていた。


 今の俺の姿を見たら志恩は何て思うんだろう。

 そんなことを思いながら、こちらに近づく隻夜叉へと懇願した。


「童子や童子。お主、何でもすると言ったが、それは本当か?」

 

 鮮血で濁った水面を凝視した俺は、顔を覗き込んだ隻夜叉と目が合った。


 彼が何を求めているのか分からなかった。何でもするとは言ったけど、隻夜叉が求めていることに応えられるだろうか。

 何の考えも抱かずに俺は続けて言った。

 

「はい。本当です。俺は何でもするつもりです」

「そこまで言うのであれば仕方ない。余の子を孕むつもりはあるか?」


 え、孕む? 孕むって妊娠しろってこと?


 聞き間違いではないかと思い視線を上げたが、間違いではなかったようだ。

 隻夜叉は宝刀を渡してきたかと思えば、片腕で器用に直垂を諸肌脱ぎした。


「柚子葉童子。余だけが脱いでも仕方があるまい。お主も脱いだらどうだ?」

 

 俺の胸部を指で小突く隻夜叉。先程の鋭い眼光は彼の瞳から消えており、期待に胸を膨らませた少年のような瞳へと変わっていた。


 近くの岩に腰を下ろした隻夜叉は、手のひらに顎を置いた。

 

 コイツ本気なのか?

 確かに俺は魅力的な女子高生かもしれない。金髪が似合う女子高生だし、普通に学校へ通っていれば彼氏が出来るかもしれない。

 

 性行為どころか、ファーストキスすら先日までしたことさえなかった。

 保健室での座学でしか行為をしらない俺に、コイツを満足させられるだけの技術があるのだろうか。

 

 そもそも行為には順序というものがあるはずだ。

 告白して手を繋いで彼氏の家でお泊り。そして気づいたら行為をする。外での行為なんて変態がするものだ。


 などと考え込んでいると、俺は急に恥ずかしくなった。

 様々な妄想という煩悩が脳内を覆い尽くしたからなのだろう。

 

 あんな事やこんな事を想像しているうちに、俺は鼻血を出していた。

 

「分かりました。助けてくれたお礼ですし仕方ありませんよね」


 先程に感じた感覚とは別の緊張感が全身に駆け巡る。

 

 鮮血で赤く染まったタンクトップとジャージのズボン。

 それらに身を包んでいた俺は、タンクトップを脱ぎ捨て、ズボンから足を引き抜いた。

 

「こんな粗末な物でよければ――え?」

「柚子葉童子。お主、そんな貧相な肉で本当に孕むつもりか?」


 不適な笑みを浮かべる隻夜叉が目に入り困惑した。

 

「え、違うんですか?」

「世も末だな。こんな冗談も通じぬ世になってしまったのか。余は幼子の肉などに興味がないぞ」


 彼はそう言ったかと思えば、臭い物に蓋をするかのように手を扇ぎ始めた。

 

 な、なにを言っているんだ。

 コイツ、自分で脱げって言ったくせに、女子高生になんて恰好をさせやがるんだ。

 

 志恩といいコイツといい、俺の体はそんなに興味を持たれない体をしているのか?

 こんなに連続で拒絶されると自信が無くなりそうだ。


「おい柚子葉童子。お主の小袖が流れて行ったぞ」

 

 隻夜叉が言った。


 彼が送った視線を目で追っていくと、その先には確かに川に流されるタンクトップとズボンが存在している。


 すぐに走れば追いつける距離にあったが、取りに行こうとは思えなかった。


 山男に拘束され、鬼除けの護符による霊力拡散を行い、極度の緊張感から解放された俺の心には、多くの心労が積み重なっていたようだ。

 

「ああ、もういいですよ。なんだか疲れちゃったし」

「そこで突っ立ってても仕方があるまい。余の隣に座る事を許可するぞ」


 隻夜叉はそう言って岩の塊を叩き続けた。どうやら隣に座ってほしいようだ。


 孕めと言ったり隣に座れと言ったり、彼の考えは全く掴めない。

 だとしても、ここで隻夜叉の機嫌を損ねてしまえば、俺も化け物たちのように屠られるかもしれない。


 長考という程ではなかったが、考えに考え抜き、彼の隣へと座ることを選んだ。

 

「あんまりジロジロ見ないでください」


 そう言って俺は隻夜叉の隣に座った。

 

 隻夜叉の視線が俺の胸部に注がれるのが分かった。

 初対面の男性。ただの男性ではない。俺の霊魂の半分以上を奪い去った妖怪と同類の妖怪。


 鬼除けの護符が消えた以上、霊的存在達は俺を認識することができるし触れることが出来る。

 無論、同様の存在である隻夜叉然り。


「先刻に申したが、お主は本当に酒呑童子ではないのだな?」

 

 そう言った隻夜叉は、俺の肩に腕を置き、不思議なものを見るような目つきで見つめてくる。


 彼の瞳には僅かに期待のようなものがあると感じ取れた。


 それでも俺はハッキリと否定した。

 

「思い出しました。酒呑童子って鬼の妖怪の事ですよね?」

「その通りだ。お主の肉に宿る霊力には酒呑童子に近い物が感じ取れる」

「俺は倉敷柚子葉です。童子でもなければ酒呑童子でもありません」

「そうか。不思議な感覚だな」

 

 顔を動かさずに隻夜叉を横目で見る。

 そこには、釈然としない一人の男性の姿が存在していた。


 隻夜叉にとって酒呑童子という妖怪は、どういった存在であるのだろうか。

 俺を酒呑童子と間違えることからするに、酒呑童子は女性の妖怪であるのだろうか。


 嘆きや悲しみに近い眼差しを向けられ、咄嗟に十年前の出来事が脳裏を過った。

 十年前に志恩と葉月兄さんが消えた時、俺もこんな瞳を浮かべていたのかもしれない。


「なあ――柚子葉童子」

 

 肩に回した片腕を使い、隻夜叉は俺の体を引き寄せる。

 その直後、隻夜叉は唇を重ねてきた。

 

 何が起こったのか理解できず、俺の脳内は煩悩だらけになった。


 昨夜のファーストキスに続き、俺は生まれてから二度目のキスをした。

 志恩とのファーストキスでは感じなかった想い。自分からではなく相手から求められたキスの味は、俺が小さいころから願っていた蕩けるような甘い味がした。


 隻夜叉の舌が舌に絡みつき、頭の中が真っ白になった。

 

「童子よ。お主が酒呑童子ではないことは理解できた。だが、改めて言わせてもらおう。童子、余の妾になるつもりはないか?」

 

 唇を離した途端、悠々たる声色で隻夜叉が言った。


 妾って結婚相手の事だよね。


 俺には志恩っていう婚約相手がいる。婚約と言っても口約束だ。

 二十以上も歳が離れている志恩にとって、俺はどんな存在なのだろう。女癖が悪い志恩にとって、俺という存在は本当に求められているのだろうか。


 抱き寄せられた俺は隻夜叉の胸に顔を埋めた。

 コロコロと変わっていく自分の恋愛感情が惨めに感じる。


 俺は、俺を必要としてくれるのであれば、相手が誰であっても構わないのだろうか。求められたら応えてしまう優柔不断な女なのだろうか。などと思い惑う。

 

「今は答えられません」


 そう言って俺は言葉を濁した。濁さずにはいられなかった。

 大好きな志恩という存在が現代に戻ってきた以上、志恩がハッキリと俺を拒絶してないのだから、隻夜叉の問いかけに答えられるわけがない。


 そんなことを考えながら顔を上げた。

 隻夜叉は俺の答えを聞いていなかったのか、滝の方へと凝視している。


 彼の視線を辿っていくように滝を見つめると、流れ落ちる滝を浴び続ける一人の男性が佇んでいた。


 甚平姿に身を包んだ初老の男性。俺より二十歳ほど年が離れた魅力的な男性。短髪とサングラスが似合う片思い相手。


 そんな彼に向かって俺は呟いた。

 

「志恩。迎えに来るのが遅すぎるよ」

「柚子葉、なんだよその恰好。ソイツに何かされたんだな?」


 志恩の視線は俺の全身に向けられている。

 どうやら志恩は、俺が下着姿でいるのに困惑していたらしく、彼の表情には激怒や驚嘆のようなものが込められていると感じ取れた。


 その直後、志恩の周囲に風が漂い始めた。

 水飛沫を含んだ冷たい風。触れるものの全てを切り裂くような冷たい風には、霊力のようなものが込められていたようだ。


「柚子葉童子。あの鴉天狗は、お主の知り合いか?」

 

 抱き寄せた俺を振り向かずに隻夜叉が言った。


 俺は隻夜叉の問いかけに答えられなかった。

 俺にとって志恩という存在は”片思い相手”である。口約束でしか契りを交わしてない相手を婚約相手と呼ぶ自信がなかった。


 志恩に向けた視線を隻夜叉へと移す。

 

「うん。志恩は友達だよ」

「友達か。ならば余の恋敵であるようだな」

 

 志恩を友達と呼ぶのにはおかしいと感じた。

 けれども、俺の想いが一方通行である以上、志恩を彼氏や婚約相手、大切な人だと紹介するには違和感を感じざるを得なかった。


「そこでじっとしてろよ柚子葉。今すぐ助けてやるからな!」

 

 そう言った志恩は、十年前に参道で見せた瞬間移動のような力を使ったらしく、滝場から姿を消したかと思えば、岩に座っていた俺と隻夜叉の目の前に姿を現した。


 俺の腕を掴む志恩。彼の動きに合わせて隻夜叉が志恩の腕を握った。

 

「柚子葉童子。お主は余の封印を解いてくれた。従うべき主人とまではいかないが、恩を仇で返すほど余は愚かではない」

 

 志恩の腕を握りしめる隻夜叉。彼は片腕なのにも関わらず、易々と志恩の動きを封じていた。


 その直後、隻夜叉と志恩は妖力や霊力を放出したらしく、目を塞いでしまうほどの閃光が滝場を照らした。


 強力な霊力や妖力、高圧な霊圧や妖圧に当てられたせいなのか、俺は意識を保つことが出来ずに目を瞑った。

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