弐ー四


 岩肌の上を流れる水が滝面へと流れ落ちる。滝面に落ちた流水は水飛沫に変わり、さながら水飛沫は水花火と言っても過言では無いものへと変化した。


 水花火によって出来た水飛沫が伊達男の頬に当たり、頬を伝った水飛沫は、雫となって頬から首元へと垂れていく。

 伊達男はそんなことなど気にしていなかったらしく、柔らかな目つきで視線を送り続けていた。

 

「やあ倉敷柚子葉さん。私の名前は天青てんせい吾郎ごろう。陰陽師をしている者でございます。以後お見知りおきを」

 

 柔らかな口調で伊達男が言った。


 縦縞の黒いスーツに身を包んだ年配の伊達男は、自身を天青吾郎と名乗り、持っていた杖を滝面へと突き刺す。

 

 伊達男の行為と言葉には、全く敵意というものが感じられない。

 例えるのであれば、貴族の御令嬢へと奉仕する執事のような口調を彷彿とさせるようなものをしている。


 物腰の柔らかな老紳士。言い渡された仕事を完璧にこなす老執事。等々、彼を言い表せる言葉は色々あったが、そのどれもが敵意を向けてくるような存在ではなかった。


 伊達男が差し出した手のひらを見つめる。

 

「天青吾郎。山男が言っていた陰陽師の事か」

「その通りでございます。本来ならば私が貴女様を迎えに行く予定でしたが、手を離せない事情が出来てしまった故、柚子葉様のお迎えは山男に任せました。お怪我はありませんでしたか?」


 コイツは足が不自由なのだろうか。そうでなければ杖なんか使うはずがない。それより、手が離せない事情とは何の事を言っているのだろうか。

 そんなことを考えていると、伊達男は杖に重心をかけて立ち上がった。


 滝面に佇む伊達男を睨み続ける。

 

「おい伊達男。どうして俺をこんな場所に?」


 縦縞の黒いスーツの胸ポケットに手を当てる伊達男。彼は立ち止るや否や、折り畳まれた真っ白なハンカチを胸ポケットから取り出した。


 目の前の伊達男が陰陽師だと思い出し、俺は咄嗟に滝面から起き上がる。


 俺は咄嗟に嘘をついた。

 

「お前の目的は分からない。けれども、数分も経てば家族が助けに来てくれるからな」


 ブラフだ。助けなんか来るはずがない。

 俺がコイツを牽制するには、それが例え嘘だったとしても言葉にしなければならなかった。

 

 伊達男がハンカチを取り出すという行動。微々たるものではあったが、その行為には何らかの悪意が込められている。そう感じた。


 俺は男と合わせた視線を外さず、一切の瞬きをせずに彼を睨み続けた。

 伊達男の目的が分からない以上、近寄らせてはいけない。そう思いながら摺り足で後ろに下がる。

 

「おいおい、柚子葉さん。そんなに怖がらないでくれるかな。こいつは何の変哲も無いハンカチだよ」

 

 伊達男が言った。男の視線は俺の手のひらへと向かっている。


 参道で尻餅を着いた際に作った傷を心配しているのだろうか。


 天青吾郎の目的が分からない。

 けれども、ハンカチを受け取るということは、相手に恩をつくる事になりかねない。


 蓄えた顎髭に手を当てる伊達男。

 目の前の男は慣れた手つきでハンカチを取り出し、宝刀を持っていた手でストローハットを胸に置く。その直後、伊達男は綺麗な姿勢で御辞儀をした。


「貴方様の肉体に傷を作ろうとは思っておりません。お怪我をされているのでしょう?」

 

 伊達男はハンカチを差し出し、紳士を彷彿とする様な態度で言った。


 伊達男の態度には、紳士を彷彿とする様なものがあったが、それ以外にも感じられることがあった。

 敏腕営業社員が商材を売り込む際、訪問企業の重役にする様な態度。気に入られようと媚びへつらう様な口調。それに通じるようなものが感じ取れる。


「さあ受け取ってください柚子葉さん」

 

 伊達男は少しずつ距離を詰めてくる。

 

 伊達男の周囲をうろつく山男に目を凝らす。

 そこには彼の周囲を歩き回る山男が存在しており、明らかに天青や天青以外の何かに怯え続けているように見えた。


 心臓を模した化け物。縦縞のスーツに身を包んだ伊達男。二人に囲まれているのにも関わらず、俺は意外にも冷静を保つことが出来た。

 

「なあ天青。お前の仲間はどこだ?」

「そんなもの、私には必要ありませんよ」


 冷静でいられた理由。それは、俺を包み込んだ瘴気の濃度が薄くなったからだ。

 俺が数分前に感じた化け物の気配。それらが嘘のように消えたからである。


 山男の体内に閉じ込められた時、幽体化した直後に感じた強力な瘴気。

 その瘴気が周囲からは感じ取れなかった。


 山男という化け物を凌ぐ化け物が放つ瘴気。伊達男が言った手を離せない事情。何かに怯えた山男の様子。

 

 手が離せないという事。それは天青吾郎がこの場所から離れることの出来ない事情があったという事だ。


 ブラフを掛けてみる必要がありそうだな。


 青天吾郎と山男は何かを隠している。そう思った俺は、下卑た笑みを浮かべながら滝の方へと指を差した。

 

「おい伊達男。俺に隠そうと思って射線に入ってるんだろうけど、俺には見えてる。滝に居る男の姿は見えてるよ」

「ちっ……やはり沙華姫の生まれ変わりだけはあるのか」


 愕然としたような天青吾郎の表情。心急くままに走り出した天青吾郎の行動。

 それらには先ほどまでに漂わせていた悠々たる様子が一切感じられず、天青吾郎が滝の裏側に何かを隠しているのは容易に判断できた。


 こちらに近づき手を伸ばす天青吾郎。殺気めいた何かを漂わせながら距離を縮めてくる。


 男の手のひらがジャージに触れた瞬間、俺はジャージに縫い付けられた”鬼除けの護符”へと霊力を注ぎ込んだ。

 八童薬王院で作られた特別製の護符は、瞬く間に霊力を何倍にも膨れ上げ霊力の拡散爆発を行った。


 俺を中心にして球体の霊力波紋が広がっていく。

 球体の霊力は水面に波紋を作り、岩肌を流れる流水を弾き飛ばし、山男と天青吾郎の体を球体の外へと吹き飛ばした。


 その直後、ジャージに縫い付けられた鬼除けの護符は燻り始める。


 爆発的な霊力を拡散したことで役目を果たしたのだろう。そう思った俺は、体に火傷を負わないようジャージを脱ぎ捨てた。

 

「志恩が渡してきた護符を受け取るべきだった」


 八童家の霊力が込められた鬼除けの護符は、妖怪や怪異、幽霊や怨霊などを寄せ付けない効果があると言われている。

 言われているだけではない。俺は何度も鬼除けの護符に助けられた事がある。


 死人という体は浮世離れした存在であるが為に、似たような存在である霊達をおびき寄せる。

 この世に未練を残して死んでいった存在、地縛霊や浮遊霊といった浮世的な存在達は、それらの存在を視てしまった人間に取り憑くことがある。


 見なくて良いものを視てしまった人間は、知らなくても良いことを知ってしまい、理解しなくて良いことを理解してしまう。

 気づかなくていい物に気づいてしまう人間は、関わらなくていいものに関わってしまい、巻き込まれないものに巻き込まれる。


 余程の世捨て人でなければ、そうやって人間は生きていくのだろう。

 けれども、俺は普通の人間ではない。霊魂のほとんどを奪われた死人だ。


 霊感が特別に強いという訳ではないが、視えるものは見える。

 八尾山の八童薬王院で頂く鬼除けの護符は、視なくてもいい物を見ない為に作られた護符である。


 引き寄せてしまった霊的存在を引き離し、特別な人間が普通の人間に紛れるための護符。

 普通じゃない人間が普通に生活を送るための必需品だ。

 

 水面に脱ぎ捨てた俺のジャージは、ジューッという音を鳴らして護符を鎮火した。

 

 著しい霊力爆発と引き換えに、鬼除けの護符は本来の効果を失った。

 それ故に、俺は視なくてもいい物が見えるようになる。

 

「肌身離さず持ってたから気づかなかったけど、こんなに視えるなんて思いもしなかった」


 水面に突き刺さった”七度返りの宝刀”を拾い上げる。

 

「さっきの爆発で天青が落としたのか。シゲシゲも心配してるだろうし、これは持って帰らなくちゃ」


 真っ暗な視界に明かりが灯される。


 錆びだらけの宝刀を手に持ち、周囲を見渡す。

 空中を漂う謎の明かりによって、霧が晴れるように視界が開かれた。


 さまよう視線を無理矢理抑える。視界の端を横切る物体達へと視線を送った。

 

「俺は普通の人間だ。コイツらとは違った存在なんだ」

 

 目を凝らさずともハッキリと視える。

 俺の周囲を無数の霊達が漂っていた。


 怪異や妖怪、化け物や物の怪と呼ばれる浮世離れした存在達。死者の魂を象るような青白い火の玉。等々、自身の目を疑うような霊体達が周囲を漂い続け、滝の方へと虚ろな眼差しを送り続けていた。


 幼いころに抱いた恐怖を追懐するでもなく、記憶のどこかに封じ込めた霊的存在達を見て追憶に耽るわけでもなく、俺は虎視眈々と滝の裏側を狙いすました。

 

「ここには誰もいない。俺には何も見えていない」


 そうやって自分に言い聞かせる。

 無理にでも言い聞かせ、動揺を隠し続けた。


 喉の奥にまで上がった叫び声を飲み込み、不安や心配で乱れた心を落ち着かせる。

 

 その甲斐もあってなのか、周囲を漂う霊的存在達は、俺という存在に気づいていたとしても、近寄ろうとはしてこなかった。

 

「この先に何かが居る。山男や天青が恐れている何かが……」


 霊的存在達に察知されないように、水面から足を上げずに摺り足で慎重に歩を進める。


 滝の方へと進んでいく事により、僅かではあったが水面に波紋を作ってしまった。

 一歩、二歩、三歩と進んだ直後、俺は誰かに肩を掴まれた。


「このスーツは何十万もしたんだ。こんなにボロボロにしやがって!」

 

 何者かが俺に呟いた。

 恐る恐る背後を振り返ると、ボロボロのスーツに身を包んだ天青吾郎が背後に立っているのが見えた。

 

 声を荒げる伊達男の様子に俺は愕然とする。

 

「どうして……あれを食らって起き上がれるなんて」

「柚子葉さん。こんな姿ではあるが私は陰陽師だ。霊術であれば死んでいただろう。あれほどの霊力を至近距離で受けたのは久し振りだよ!」

 

 通常の人間であれば、あれほどの霊力爆発を零距離で受けたら立っていられない。やはり、天青吾郎は普通の人間ではないらしい。

 

 恫喝ともとれる伊達男の怒鳴り声が周囲に響き渡る。

 周囲に漂っていた霊的存在達は、彼の叫び声に気づいたようだ。


 虚ろな眼差しから羨望の眼差しへと変わった霊的存在達の視線が向けられる。

 肉体を欲するが故に送ってしまった視線なのだろう。


 伊達男に霊達が見えてるかは分からない。

 見えていたとしても、この数の怨霊たちを天青と俺で捌けるのだろうか。

 

 息も絶え絶えな天青吾郎の手のひらを肩から振り払い、俺は滝に向かって走り出した。

 押し寄せる霊的存在達に宝刀を押し当て、彼ら達の間に出来た隙間を走り抜け、滝の裏側に手のひらを当てる。


 何かの物体に指先が触れた。

 

「これは……注連縄しめなわだ」


 流れ続ける滝の隙間へと目を凝らす。

 そこには、五寸釘によって岩肌に突き刺さっていた古臭い注連縄が存在していた。


 古臭い注連縄に突き刺さっていた五寸釘は、天青吾郎が突き刺したものなのだろうか。


 視えないものが見えるようになった俺の視界には、五寸釘に霊力のような力が宿っているのが確認できた。

 

「何でもいい。何が出てきたって構わない!」

 

 持っていた錆びだらけの宝刀の柄を握りしめ、注連縄に突き刺さった五寸釘が抜けるように宝刀を当てた。


 注連縄に突き刺さった五寸釘が水面に落ちる。

 その直後、籠手を身に着けた腕が姿を現し、俺の腕を握りしめた。

 

「この感覚。もしかして……!」

「クソっ垂れ。せっかく封印してやったのに、面倒な事をさせやがって」


 背後を振り返った俺は、気に食わない表情を浮かべた伊達男の姿が目に入った。

 

「この滑らかな肌と霊力の質。会いたかったぞ――酒呑童子」

 

 注連縄から発せられる言葉に耳を疑い、恐る恐る声の方を横目で見た。


 注連縄から這い出るように姿を現した何者かを凝視する。

 そこには俺を酒呑童子と勘違いしている存在、十年前に出会った赤鬼を彷彿とするような存在が背後に立っていた。


 背中まで伸びた藍色の髪。志恩を彷彿とするような高身長。猫屋敷宗一郎ほどではないが、男の眼光は鋭い物だった。

 直垂ひたたれのような藍色の衣類に身を包み、甲冑の胸当てや肩から腕の先端まで続く籠手を身に着けた武者。

 

 人間であると言われれば信じてしまうほど、男の姿は人間に極致している。

 けれども、俺には一瞬で理解できた。


 この男は赤鬼と同様の存在。化け物の頂点に立つ鬼であることを。

 

「俺は酒呑童子じゃない。お前は誰だ」

「どうした酒呑童子。余の名を忘れてしまったのか?」

「俺はお前のことを知らない。俺は酒呑童子でもなければ沙華姫でもない。だたの、ただの倉敷柚子葉だ」

「倉敷柚子葉? うーむ。余の名は隻夜叉せきやしゃだ。奇妙な感覚だな。お前の体からは酒呑童子の霊力が感じられる」

 

 藍色の長髪を揺らめかせる存在は自身を隻夜叉と名乗り、タンクトップ一枚の俺を背後から抱きしめ、耳元に頬を当てて小さく呟き続けている。


 周囲には複数の怨霊や化け物たち。

 こちらを睨みつける天青吾郎が居るのにも関わらず、俺は年上の成人男性に抱きしめられてしまい、胸の高鳴りを隠せずにいた。


 保健室登校の陰キャ女子高生。妄想列車の車掌を務める俺にとって、相手が化け物だったとしても興奮せざるを得なかった。


 コイツは紛れもなく鬼だ。

 それなのに、俺はどうして緊張しているのだろう。

 相手が年上の男性だからか? それとも恋愛経験が少ない俺の心が童貞臭いからか?


 そんなことを考えながらぼーっとしていると、俺を背後から片腕で抱きしめていた隻夜叉は、何かに気づいたのか俺の手のひらへと手を伸ばした。


「お主が持っている脇差し。七度返りの宝刀ではないか?」

 

 隻夜叉が言った。


 声には敵意というものが一切感じられない。むしろ暖かさを感じ、畏怖というものを感じられず、親しみさえ感じてしまうほど。

 相手が憎むべき鬼という存在であるのに、俺は何故だか分からないが安心感を覚えた。


「四方には怨霊たち。前方は陰陽師。逃げ場がないな童子よ。助けてほしいか?」

 

 俺の手のひらに指を絡めた彼は、俺の手のひらを支えながら宝刀を天青吾郎の方へと向けた。


 隻夜叉が言っている通りだ。

 周囲には霊的存在達がうごめいている。逃げ場なんてない。

 

 この状況を打開できるなら、どんな化け物が出てきても構わないと思っていた。

 けれども、よりによって出てきた化け物が”鬼”だとは思いもしなかった。


 緊張で呼吸が早くなる。隻夜叉の吐息と声が耳に垂れた。

 

「俺を助けてくれるのか?」

「無論だ童子よ。お主が封印を解いてくれなければ、余はあのまま祓われていただろう。それにお主からは酒呑童子の霊力を感じる。そんなお主を助けないわけがないだろう」

 

 隻夜叉の指が俺の指先を絡める。彼が味方かどうかは定かではない。

 けれども逃げ場がない以上、俺は隻夜叉を信用せざるを得なかった。

 

「俺は童子じゃない。倉敷柚子葉だ。隻夜叉、アイツらを退治してくれ」

「御意」


 隻夜叉がそう言った直後、背後にいた彼は、俺が浮世的離れな存在であると証明するための”幽体化”を使用したようだ。

 背後にいたはずの隻夜叉は俺の体を通り抜け、七度返りの宝刀を手に持ち、霊的存在達を斬り始めた。

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