参ー六


 蕩けるような突然のキス。いや、ファーストキスではないから、これは”セカンドキス”と言ってもいい物だろう。


 相手が十年以上も想い続けた志恩ということもあり、それにプラスして婚約者ということも相まってなのか、心が浮き立ってはいられなかった。


 目の前が真っ白になり、頭の中も真っ白になった。

 だけど、真っ白というには純白さの欠片も感じず、純粋というには程遠く離れたキスに近く、脳内は淡い薄ピンク一色に染まったと思う。


 志恩とのセカンドキス。

 彼とのファーストキスも倉敷家の庭園内だった気がするが、そんなことはどうでもよかった。


 何故なら今回のキスは、俺から迫った衝動的で能動的なキスではなく、志恩の方から迫ってきた受動的なキスであったからだ。


 ファーストキスの時のような気が急くようなものでなく、そうすることが当然であるかのような自然なキスだった。

 

「ま、待って志恩……誰か、誰か来るかもしれな――」

「柚子葉、俺は今、この東屋内に霊縛術を応用させた簡易結界を張ってる。俺たちの声は誰にも聞こえないし、誰も俺たちを認識できない……黙って目を瞑ってろ」

 

 俺の瞳をじっと見つめる志恩。彼の言うことが本当なのか解らないが、結界が張り巡らされていることを願うしかなかった。

 事実、このキスがシゲシゲにバレてしまえば、退院直後の彼の体調を悪化させかねない。千代子お祖母ちゃんならまだしも、それがシゲシゲだった場合は大事になるはずだ。


 俺が妄想内で描いていたような甘ったるいキスは、当然ながら俺の脳を蕩けさせた。


 口内に押し込まれる志恩の舌。これは言うなれば、大人たちがするような”ディープキス”という物であるのだろうか。


 体感にすると一時間と二十三分五秒くらい。いや、実際の時間は一分にも満たないような僅かな時間だったに違いない。

 時間や次元という概念を超越したようなキスだったのは、彼が鴉天狗の妖怪だからなのだろうか。それとも、平安時代と現代を行き来する彼だからこそ、そう感じたのだろうか。


 原因が何であったとしても、好きな相手とのキスがこんなに脳を刺激するようなものだとは思いもしなかった。


 甘酸っぱさや惰性のようなキスではなく、俺という存在の全てを受け入れてくれたような大人のキスは、彼が二十歳も年上の女癖が悪い人物故の物だったのだろう。


 重ねていたはずの唇が徐々に遠のいていき、絡みついていた舌同士が離れた直後、下唇に彼の体液が張り付いた。


「これでお前も大人の仲間入りだな」

 

 志恩が言った。


 糸を引くような蕩けるキスの直後、俺の妄想内に存在する”妄想暴走列車”は、煙突から爆煙を噴出した。


 力強い汽笛を鳴らし、幸せホルモンから抽出した石炭を燃やし続ける妄想暴走列車。列車は押し寄せる淡い薄ピンク色の大波に立ち向かい、空高く舞い上がった。


 タイムトラベル映画に登場した機関車型タイムマシーンを彷彿とする空中飛行。志恩との濃厚な大人キスによって目的地を失った妄想列車は、次の目的地へ向かうために空を飛ぶ必要があったのだろう。


「おーい柚子葉、起きてるか?」

 

 俺の頭をポンっと叩いた志恩に驚き、妄想内から現実に引き戻された。


 本来ならば、ここでツンデレの一つや二つ、『痛ったいなあ』などや『気安く叩いてんじゃねえよ』といった反応をすべきだったのかもしれない。

 罵詈雑言とまではいかない何かを発するべきだったが、淡い薄ピンク一色に染まってしまった俺の脳では、それらを処理することが出来なかった。


 言うべき言葉が次々と浮かんでは薄れていき、代わりに”ハグやキス”といった言葉が浮かんだ直後、穢らわしい言葉が脳内を埋め尽くす。


 小さく微笑んだ彼に見惚れた。

 

「あ、ああ、あの……」

「しっかりしろよ柚子葉、満足してないのか?」


 ポンポンと頭を叩き続ける志恩。なんとか人間的な理性を取り戻すことができた。


 しかし、彼の唇から発せられる引力に逆らうことができず、自然と唇が引き寄せられていった。

 

「おかわり! もう一回だけおかわり!」

「ああ、生きていたようだな。柚子葉、おかわりは無しだ。もうすぐ隻夜叉が戻るだろうし、シゲシゲや千代子婆さんも起きてくる頃だ。この事がシゲシゲにバレれば、俺は屋敷から追い出されるかもしれねえ。そうなると、八尾山の実家に帰らねえといけなるからな」

「いや、シゲシゲにキスを見られたとしても、俺が何とか説得する。それに志恩は婚約者なんだよ? キスぐらいしたって普通だと思うし、”その先”をするのだって恋人同士なら普通じゃないの⁉」

「”その先”って――お前、この十年で本当にピンク頭に鳴っちまったんだな。お前が二十歳になるまで……いや、今の時代法律だと十八歳が成人だから、十八歳になるまでだな。それまでは、お前を抱くつもりはねえよ。期待して損だったな!」


 嫌味とも思えるような彼の不適な笑みと発言。その直後、淡い薄ピンク一色だった俺の脳内は真っ白になった。


 確かに彼の言うとおりである。

 死人という肉体になったからといって、俺の貞操観念までも死人になったわけではない。


 三十八歳を迎えようとする志恩に対して、俺は今月の中旬ごろにやっと十七歳を迎える子供でしかないんだ。


 二十歳は年齢が離れている志恩から見てしまえば、相手は年下の女子高生でしかない。


 いや、ただの女子高生ではない。死人の肉体のお陰で真っ白な肌を保ち、胸もふっくらと膨らんできた現役女子高生である。それに幼馴染だ。まあ、同年代ではないが、古くからの仲であるから幼馴染という事にしておこう。


 金髪現役女子高生が相手なのだ。誰もが羨むような存在であるし、勿論その肩書きを取り払ったとしても、初老を迎えた成人男性が年下の女の子に手を出すなど、身内が許したとしても世間や法が許しはしない。


 たとえ、『私達は愛し合っています。彼は私の大切な婚約者なんです』と、公言したところで、世間は志恩の事を”ロリコン野郎”としか思えないのだろう。


 ここはグッと我慢だ、倉敷柚子葉。

 そうだ。彼が言っていた通り、来年の九月には十八歳になるし、そうすれば成人同士の交際に文句を言う人間などいなくなる。


 勿論、障害や壁、困難や苦難が立ちはだかるかもしれない。

 イケメン男子生徒や可愛らしい年下の後輩、魅力的な保健の先生や魅惑的な担任教師、山で出会った鬼の妖怪や偶然通りがかった男性にナンパされるかもしれない。


 多くの困難に遭うだろうが、俺が心から想う人物は志恩だけだ。どんなに魅力的な男性が現れたとしても、決して揺らいではいけないのだ。


 等と考えていたが、どうやら俺の思考は脳内に収まらず、言葉として声に漏れ出てしまっていたようだ。


「お前、色々妄想しすぎだろ……」

 

 志恩の方へと視線を送る。

 彼は天を仰ぎ、手のひらで両目を塞いだかと思えば、呆れていたようだ。

 

「えっと……今のはただの妄想。現実ジャナイヨ。うん、タダノ妄想。それに……俺は陰キャ女子高生ダカラ」

「ハイハイ、んなことぐらい解かってる。お前の歳の頃、俺も似たような事を考えた時期もある。心配なんかしてねえよ」

「え、本当に心配してない? 誓ってもそう言える?」

「ああ、誓ってもいいぜ。それに俺はもうオッサンだからな。それより気になったんだが、お前は俺のどこに惚れたんだ?」


 志恩の好きな所。

 改めて訊かれると、直ぐにはパッと思い浮かばなかった。

 

 志恩という存在に好意を寄せているのは確かだが、どの部分に惚れたのかと言われると、良い表現が見つからない。


 こちらの様子を伺う志恩を見つめ、彼の全てを見渡せる場所に立ち、彼の姿を視界に収めた。


 夏が終わろうとしているのに、志恩は未だに甚平に身を包んでいる。

 職人が丹精を込めただろう一級品の下駄を履き、額には真っ黒なサングラス。


 甚平の胸元から見える彼の鎖骨。三十代を終えようとしているとは思えないような色艶のある肌。一見、ボサボサに見えるような藍色の短髪だが、それは彼なりのセンス故のものなのだろう。


 普通の女子高生であれば、同年代の男子生徒に魅了されるのだろうが、俺はそうでない。


 八童家という厳格な家柄にも興味はないし、彼がそこまで歴史を重んじるような旧家の生まれだとしても、俺は彼に好意を寄せていただろう。


 彼という存在に魅入られ、女癖が悪いことや優柔不断な性格を含めた彼に惹かれ、その重い思いが”想い”に変わった結果、俺は志恩という存在に恋をした。


 勿論、同年代の男子生徒が嫌いだから志恩を選んだわけではない。むしろ、志恩という存在に出会わなければ、間違いなく俺は同年代の男子生徒に恋をしていただろう。


 優柔不断な恋愛の神様に導かれた結果、その男子生徒と浅春を謳歌していただろうし、その人を想い続けたに違いない。

 しかし、俺は陰キャで保健室登校の不登校系女子生徒。常人を超越したコミュ障がある他、死人の肉体を持つ美少女である。


 さきほど同年代の男子生徒と青春を謳歌すると言ったが、前言撤回。それは妄想上の話だ。だけど、美少女問うのは撤回しない。


 話を元に戻す。

 俺が志恩を好きな理由。それは多分、彼という存在が手の届きそうで手の届かないような物であるからなのかもしれない。


 河口町の幼稚園に通い、俺がシゲシゲの家に住んでいた一年の間。そう、俺が八尾山の参道で”赤鬼”に出会う前、童子ではなく幼女だった頃の話だ。


 当時の俺は勿論、霊的な存在などとは縁のなかった幼女。


 志恩が妖怪であるとも知らず、葉月兄さんと優月さんが頻繁に屋敷に訪れていた頃の事だったと思う。

 

「あれ、何かがおかしい。どうして俺は――優月さんの事を知ってるの?」

「なに黙ってんだよ。そんなに俺の好きな所が多いのか?」

 

 志恩は膝に肘を置き、俺の方をじっと見つめていた。


 欠落した記憶を補うように、”俺が知らない記憶”が脳内に流れ込んできた。

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