倉敷柚子葉の浮世事情
津名吉影
壱章
壱ー一
十年前の夏休み。七歳だった俺、
――
八月の上旬、時刻は正午を過ぎた頃。
常人では音を上げてしまうような暑さがバスを包みこみ、車内には熱気が漂っていた。
「このバスは河口小学校前行きです。次は、終点の河口小学校前です。お降りの際はicカード、又は……」というアナウンスがバスの車内に流れ、俺は目を覚ました。
エアコンが効いていないのにもかかわらず、バスの車内は極楽浄土といっても過言ではないほど冷気が行き渡っている。
車内に差し込む太陽の光が温かく感じる。
ふと、車内を見渡してみた。
閑散とまではいかないが、対面するように置かれたバスの座席には、老婆やスーツに身を包んだ男が座っている。
都内にある家から電車を使って一時間。八童子駅前から発車するバスを待つのに三十分。終点のバス停まで一時間。
合計二時間半の長旅を終えたせいなのか、肉体的にも精神的にも疲れが限界を達していた。
「やっと終点だ。降りる準備をしないと……」
抱きかかえていたリュックサックに手を突っ込み、俺は財布を取り出そうとする。
空のペットボトルやアイスの包装紙が目に入り、夏休みの宿題が姿を現し、プラスチックの筆箱に指先が触れた。
リュックを探り続け、やっとの思いで財布を抜き取ることが出来た。
「マジで最悪、アイスでべとべとになってんじゃん……」
べとべとな財布と汚れた手のひら。ポケットにハンカチは入っていたが、咄嗟に汚れを座席に擦りつける。その直後、バスは折り返し地点に着いたらしく、キキーッという音を鳴らして停車駅に停まった。
財布を手に持ちながら運転席の隣にある降車口へと向かう。すると、座席に座っていた運転手が車内へと振り返った。
やばい、もしかしたら汚れた手のひらを座席に擦りつけていた、のがバレていたのかも。
平然を装いながら降車口に向かい、何事もなかったようにバスを降りようとした。
「ちょっと待って、キミ、もしかして倉敷さんのお孫さん?」
バスの運転手の男が言った。彼は眉間に小じわを寄せながら腕を組み、俺の方をじっと凝視していた。
面倒な事になりそうだ。ここは適当に返事をしておいた方が良いのかもしれない。
「はい、
べとべとの手のひらをジャージにこすりつける。
「これ、熱中症予防のポカリ。それと、他の乗客がいなかったから良かったけど、手の汚れは座席に擦りつけないでね」
それを見ていた運転手の男は、ペットボトルとハンカチを差し出してきた。
男からペットボトルを受け取り、飲み口に封がされているのを確認。
その直後、「親切にされたら『ありがとう』と言うのを忘れないように」と言う、母の姿が脳裏を過った。
「すみませんでした。飲み物とハンカチ、ありがとうございます」
降車口から飛び降り、去り際に小さく呟いた。
バスから降りて外に出た途端、強い日射しと生暖かい風に包まれ、一気に夏の暑さに引き戻された。
プシューっと音が鳴り、バスは扉を閉めて動き出した。
「あれ、何か忘れている気がするような……」
短パンと長袖のジャージのポケットを探り、忘れ物がないか確認。
「たぶん、気のせいなのかな」
バスに張り付くセミの鳴き声に気づき、車内に麦わら帽子を忘れたことを思い出した。
「そうだ、麦わら帽子――置きっぱだった……」
折り返し地点の敷地内から道路に走り出た市内バス。
動き出したバスに目掛けて手を振るが、バスの運転手は手を振り返してくれるだけだった。
「ああ、最悪だ……帽子なしでお祖父ちゃんの屋敷まで行かなきゃダメなのか」
後部座席に放置された麦わら帽子は、一体どこに行ってしまうのだろう。
そんな無駄な事を考えながら空を見上げた。
雲1つない青空。無情なほどに容赦なく照り付ける太陽の光。
舗装されたばかりなのか、車道から漂うタールのにおいが鼻先をかすめる。
砂利道や日射しで乾ききった歩道に目を向けてみると、視線の先には一羽のカラスが横たわっていた。
見た限りでは怪我はしていない。だとすると、暑さにやられて動けなくなってしまったのだろうか。
なんであったとしても、横たわる鴉を放っておくことが出来なかった。
動けなくなったカラスを持ち上げ、日の当たらない木陰に置いてあげる。
「ほら、ポカリだよ。おじさんが飲んだかもしれないし、あんまり飲みたくないからキミにあげるよ」
クチバシを大きく開けるカラスにポカリを与える。
彼なのか彼女なのかは解らなかったが、カラスは元気を取り戻して大空に飛んで行った。
昔、母親に『親切にされたら、他の誰かにも親切にしてあげるのよ』という言葉を言われたことがある。母曰く、『親切というのは、回り回って自分に帰ってくる』とのこと。
などと母の言葉を思い出しながら砂利道に目を向ける。
「ここから三十分ぐらい。俺、生きてたどりつけるのかな……」
炎天下のなかバス停から五分ほど目的地に向かって歩くと、目印にしていた小学校の校舎が目に入った。
暑さの余り、着ていたジャージを脱ぎ捨て、腰に巻き付ける。その直後、小学校の敷地内から子供たちの声が聞こえた。
敷地内にあるプールの柵越しに、こちらを覗き見る小学生の男女。彼らは俺に指を差すや否や、罵声を浴びせてきた。
「見てみて、あの金髪の人。真っ赤なダサいジャージ着てるよ」
「え、金髪? 本当だ。うちの兄ちゃんが通ってる高校のジャージよりダサいわ」
「あいつ、めっちゃチビの金髪じゃん。俺たちとそんなに変わんねえ」
喉にまで登ってきた言葉を飲み込み、言い返すのをグッと堪えた。
相手はただの小学生。
ここで何かを言い返したとしても、不審者扱いされるだけだ。
それに金髪を隠す麦わら帽子をバスに忘れた以上、注目を浴びるのは仕方ないことだ。
持っていたポカリを飲み干し、それから五分ほど歩道を歩き続ける。すると、既視感のある緑の看板が目印のコンビニが目に入った。
「よし、やっとコンビニまで着いた。田舎って本当に不便だよな」
無駄に広く作られた駐車場を通り抜け、コンビニの手動扉に手を押し当てる。
エアコンが効いた店内に入り、壁際に設置された雑誌コーナーへと目を向ける。夏休みという事もあり、コーナーには俺と同じような恰好の男女が地べたに座って本を読んでいた。
「町には一軒しかコンビニがないし、当たり前だよな……」
河口町にはコンビニが一軒しかない。
毎年河口町に一度は訪れるが、何年経ってもそれは変わらなかった。それ故に小学生や中学生、高校生や大人も皆、このコンビニに訪れる。
集会所や溜まり場と化した家族経営のコンビニ。正直な話、このコンビニに入るのは抵抗があった。
でも、ここで飲み物を買えなければ、お祖父ちゃんの家に着く前に暑さで倒れてしまうかもしれない。
「仕方ない、さっさと買い物を終わらせよう」
店内をうろつくことなく、飲み物が置かれている棚に真っ直ぐ向かう。その直後、店内で話し込んでいた一人の女性が俺の方を見てきた。
不審者を見るような目つき。いや、珍しい物を見るような目つきだったと思う。
俺は女性の視線を気にせず、飲み物が置かれた棚からポカリを取り出し、アイスコーナーからパピコを手に取った。
レジへと向かい、パピコとポカリを差し出す。
店員のおばちゃんは、客が来たというのに俺を放って井戸端会議に夢中だった。
この町の住人ではない俺は声を絞り出す。
「これ、お願いします!」
声を発したと同時に店内が静寂に包まれた。
この静寂。去年もこの静寂が俺を包みこんだ気がする。
「ああ、倉敷さんのお孫さんじゃないの……」
俺の目を見る代わりに、金髪を凝視する店員のおばちゃん。
そそくさとお釣りを受け取り、何事もなかったように店内から出ようと扉に手を当てる。その直後、何者かが俺の肩に手を乗せてきた。
腕を辿っていき振り返ってみると、俺の肩を掴んだのは雑誌コーナーで本を読んでいた二人の高校生。
何がいけなかったのだろう。
高校生は俺の肩を揺さぶり、舌を鳴らした。
「おい、異腹野郎。用が済んだのならさっさと町から出て行けよ!」
男の臭い息が鼻先まで漂う。
俺はコイツの事を知らない。赤の他人だ。
だけど、コイツやコイツの取り巻き、町の人間のみんなは俺の事を知っている。
「言われなくても解かってる」
それだけ。それしか言えなかった。
言い返したとしても面倒になるだけだ。
コンビニを出てから数十分が経過。
目的地に向かって歩き続けると、目的地が目に入った。
広大な敷地とトウモロコシ畑。お祖父ちゃんが管理している田畑が目に入り、その端っこには人を寄せ付けないほどの大きな屋敷。
敷地内の回遊式庭園を通って屋敷の玄関に向かう。
玄関の入り口に設置されている郵便受けには、
古臭い屋敷の玄関には新しく設置されたインターホン。
何度がインターホンのボタンを押してみたが、屋敷の中にはチャイムが鳴らなかった。
「まだ壊れてたんだ。いつまで放置してるつもりなんだろう……」
仕方なく玄関の戸に手を掛けるが、カギは掛かっていない。
「誰も来ないのは解るけど、不用心にもほどがあるだろ」
それから”ただいま”も言わず、俺は玄関から屋敷の居間へと向かう。
廊下にまで聞こえるテレビの音に気づき、居間に誰かが居るのが分かった。
「おーいシゲシゲ、遊びにきたよ」
「あら柚子葉、いらっしゃい……」
居間にいたのは、
千代子お祖母ちゃんは、俺が屋敷に入っていた事を知っていたらしく、テーブルの上には、お客さん用の湯飲み茶わんと鬼饅頭が用意されていた。
「お祖母ちゃん。シゲシゲお祖父ちゃんはどこ?」
「ああ、シゲちゃんなら車で駅まで向かったわよ。柚子葉を迎えに行くって言って出てったわ」
なるほど。入れ違いか。
千代子お祖母ちゃんの話によると、シゲシゲは買い物ついでに俺を迎に行くため、市内の駅まで車を走らせたらしい。
つい数分前に出てったようだ。
コンビニの袋からパピコを取り出す。
数十分しか経ってないのに、パピコは溶けていた。
仕方なく半分に割り、千代子お祖母ちゃんに差し出す。
「お祖母ちゃん。アイス食べる?」
「もしかして、このアイス、山田さんのコンビニで買ってきたの?」
眉をひそめる千代子お祖母ちゃん。
怒られるのは分かってた。
「だって、一軒しかコンビニがないんだから仕方ないじゃん」
「ダメよ柚子葉。何をされるか分かったもんじゃないのよ?」
パピコを差し出した俺の手のひらを、強く握りしめる千代子お祖母ちゃん。
お祖母ちゃんは俺が虐められたりしてないか心配だったようだ。
俺は持っていたパピコの蓋をかじる。
部屋の隅から隅までを見渡し、座布団に座った。
何も変わってない。去年と一緒だ。
鴉天狗が描かれた掛け軸。狐の形をした陶器。線香を炊いたような部屋の匂い。畳の香り。
それらを味わう為に、考え事をするわけでもなくボーッと天井を見上げた。
コンビニの件で俺を心配しているのか、千代子お婆ちゃんは側に寄ってきた。
「だから、何にもされてないから心配しないでよ」
「違うわ柚子葉。ボーッとしてないで、
そんなの分かってる。そのために都内から来たんだから。
腰に巻き付けていたジャージを落とし、隣の部屋に続く襖を開いた。
部屋の隅にある仏壇には、
葉月兄さんの写真だけではない。俺と葉月兄さん、兄さんの親友である
十年前に八尾山のリフトで撮ってもらった写真は、色褪せていなかった。
仏壇の前の座布団に座り、葉月兄さんの為に用意していたパピコを仏壇に置く。
葉月兄さんの遺影は、俺が鬼に霊魂を奪われた時とは違い、満面の笑みを浮かべていた。
「ただいま、葉月兄。お兄ちゃんと志恩のお陰で今年も生きていられるよ」
部屋中に漂う線香の香り。
十年前のあの時、あの場所の光景が脳裏に浮かぶ。
――
十年前の九月二十日。夕方だったと思う。
その日、七歳の誕生日を迎えた俺は、葉月兄さんと兄さんの友人である志恩と一緒に山へと登った。
東京の郊外の山奥にある薬王院は、登山用の靴でなくても登る事が出来る。
もちろん七歳になったばかりの俺の体力でも平気だった。
薬王院での参拝が終わり、俺は葉月と志恩に追いかけられながら、参道を降りた。
駅まで続く整備された参道を歩く。参道の両脇には赤い灯籠が置いてある。
その後ろを着いてくる葉月と志恩。
二人に追いつかれないように俺は走り続けた。
追いつけない志恩の馬鹿ヅラを見て、俺は笑みを浮かべる。
「おい志恩! 追いつけるもんなら追いついてみろ!」
「はあ、なあ葉月。俺、本気出していいか?」
「そうやな志恩。ほどほどにな」
甚平の袖を捲り上げる志恩が目に入り、葉月兄は、"やれやれ"と言いながら髪を整え始めた。
追いつけるはずがない。俺はそう思っていた。
再び参道を降りようとする。
その直後、突風が俺の体をすり抜け、振り返った先に志恩がいた。
「どう……して」
「残念だったな柚子葉!」
何が起こったのか分からなかった。
後ろに居たはずの志恩が目の前に居た。
咄嗟に逃げようとしたが、志恩にはお見通しだった。
「ほれ、柚子葉の負けじゃ。チューさせてくれ!」
俺の体を包み込むように彼は両腕を広げ、逃げ道を塞いだ。
徐々に近づく志恩の顔。
「キモい! 顔を近づけんな!」
数センチ。数ミリの距離まで迫ってくる。
俺は恥ずかしくなって顔を背けた。
もう少しで唇が触れる。いや、少しは触れたのかもしれない。
でも、恥ずかしさに耐えきれず、俺は志恩の顔にアッパーカットを食らわした。
解けた腕から這い出た後、彼の尻を蹴り上げた。
「バーカ! バーカ!」
「こら柚子葉。志恩が可哀想やないの」
「そうだぞ柚子葉。俺、めっちゃ悲しいわ。もうちょっとでチューできたのに」
いじける志恩。彼の肩を叩く葉月兄。それを眺める俺。
大好きだよ。葉月兄、志恩。
すごく楽しい。
この時間が永遠に続く。そう俺は思ってた。
再び参道を降りて行こうと振り返るが、人が立っていたのに気づかず、ぶつかって尻餅をついた。
「ごめんなさい」
「
沙華。何処かで聞いたことがある。
恐る恐る視線を上げる。
嫌な予感がした。
澄んでいた空気が淀んでいき、瘴気と化した空気が体中を包み込む感覚。
十年経った今でも、男の姿はハッキリと覚えてる。
ナイフのように尖った両耳。真っ赤な両目。銀髪が入り混じった赤髪。もろ肌脱ぎの着物。
この人、夢に出てきた人だ。
「お兄さん。もしかして
「いいや、違う。だが――」
俺の胸に手を当てた鬼童丸は、体の中から霊的な何かを奪い取った。
後から分かったことだけど。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが言うには、俺の体から奪われたのは霊魂という物体らしい。
霊魂を抜かれた俺の体は、あっという間に冷たくなっていき、死人と化した。
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