壱ー九


 翌朝、志恩が帰ってくると思って部屋で起き続けていたが、彼は朝になっても屋敷には戻って来なかった。


 勿論、起きていたのは彼を待つためだけではない。諸事情により睡眠をとることができずにいたのだ。

 

「ファーストキス……ファースト……」

 

 等と呟き続け、昨夜のことを思い返していた。

 

 薄手の羽毛布団を頭まで被り、ブツブツと呟く俺の姿は、他人から見てしまえば、さながら不審者としか思えないであろう。


 一瞬の出来事とはいえ、俺は念願のファーストキスを果たした。

 果たしたと言っても、ファーストキスはスタート地点であってゴールではない。


 十年という年月を超えたファーストキスの味。

 

 それは思っていたよりも甘酸っぱくもなく、とろけるような気分に陥ることもなければ、青春の一コマにも載らないであろうものだった。


 なによりそう思えたのは、ヤタ君という鴉の式神の乱入や志恩との心の距離感。

 さらにいってしまえば、志恩に嫌われたくないという思いで、咄嗟に行ったキスであるからなのかもしれない。


 小中高のほとんどを不登校と保健室登校で過ごしてきた俺にとって、ファーストキスという一大イベントは、人生で一度しか味わえない幸せな瞬間になるはずだった。


 想像してみよう。

 好きな人へと想いを告げたい女子高生が居たとしよう。

 部活のマネージャーをしている彼女は、部活が終わった直後に想い人の元へと駆け寄る。


 帰り道が一緒の二人は、段々と日が暮れていくことに気づき、影を重ねるように距離を縮めていく。

 他愛もない会話を繰り返す二人は、直行直帰の校則を破って公園に寄り道をする。


 完全に日は暮れ、蒸し暑い空気が二人を包み込む。


 自販機にもたれ掛かる二人は、そこでも他愛もない会話を繰り返す。

 けれども、他愛のない会話にも限界というものが存在する。


 帰り道の途中で買った飲み物に手を伸ばす男子高生。しかし、彼が持っていたペットボトルには、一滴も内容物が残っていなかった。

 それを知ってか知らずか、隣に座っていた女の子は、持っていたペットボトルを鞄から取り出す。


 小さく「ありがとう」と言う男子高生に対し、女子高生は小さく微笑むだけだった。


 ここで問題が起きる。

 どうして男子高校生は、自動販売機で飲み物を買わなかったのか。

 どうして女子高生は、それを指摘しなかったのか。


 答えは言うまでもない。

 だが、あえて言わせてもらおう。


 告白などはしなくとも、二人は既に相思相愛であるのだ。


 クラスメートの一人から隣の席の人へとジョブチェンジし、友達という立場から年月を経て幼馴染へと昇華した二人の周りには、他者が介入できないほどのクレバスが存在している。


 ゆえに、二人の間には揺らぐことない恋愛感情が、意識していなくとも存在しているのだ。


 ペットボトルの蓋は既に緩んでおり、男子高校生はそのことに気づく。

 

「この飲み物は彼女が飲んだ飲み物」ではないかと。そう判断するのだ。


 男女交際が乏しく、初々しい恋人同士にしか現れない現象が、二人を包み込むように発生した。


 恋愛の神様はどんな思考の持ち主なのかは存じないが、悪趣味な人物であるのには間違いない。


 なぜなら相思相愛の二人に、ペットボトル越しの”間接ファーストキス”という一大イベントを課したのだから。

 

 下劣で汚らしく、悪趣味で意地悪な恋愛の神様は、二人がたじろぐ様子をおかずにして、何杯も白米を食べているに違いない。

 

 閑話休題。


 無論、二人の初々しいカップルの行方は、俺にはさっぱり分からん。

 だが、俺の肥大化した下劣な妄想によると、このあと二人は唇を重ねるであろう。と予測する。


 保健室登校の女子高生の妄想には、限度があったようだ。

 ただの妄想なのに、俺は鼻血を出していた。


 興奮に興奮を重ねた結果、脳内の至る所に存在していた煩悩たちが、鼻孔へと飛び出してきたのだろう。


 行き過ぎた妄想列車の暴走を止め、俺は敷布団から起き上がった。

 

「もうちょっと! ロマンチックなファーストキスがよかった!」


 決して不満を抱いているわけではない。

 妄想列車に乗車したカップルと同様に、俺だって志恩とファーストキスをすることができたんだ。


 彼らを羨ましく思うのは間違っている。

 むしろ、俺と志恩の周りにだって、彼らと同様に巨大なクレバスが囲んでいるのだ。


 しかし、俺の妄想内の志恩は、鴉天狗の翼を広げてどこかに飛んで行った。

 俺はそれを見送るしかなかった。


 なぜなら、俺には翼なんて生えてないんだから。

 それに、志恩は妖怪である。


 ただの妖怪ではない。大空を自由自在に飛び回る鴉天狗だ。

 初老の鴉天狗と十六歳の女子高校生の間には、大きなクレバスと心の距離感だけが残された。


 そこで再び俺は考える。

 三十八歳を迎えるアラフォー男子に期待し過ぎてしまったのだ。と。


 さらに俺は考える。

 十年ぶりの再会という一大イベントに紛れ込んだ、”妖怪という身分を明かす”というイベントが、二重に重なってしまったこと。


 それゆえに、志恩は異類婚姻譚という事を気にしているのかもしれない。

 

 さらに言ってしまえば……。

 等々、昨夜の出来事を振り返りながら呆然としていた俺は、いつの間にか葉月兄の部屋から出ていき、シゲシゲと千代子お祖母ちゃんの三人で朝食をとっていたようだ。

 

 屋敷内の構造は把握している。

 一年に一度ではあるが、夏休みの間はお世話になっているからだ。

 

 しかし、どうやって居間まで向かったのだろう。

 ぽっかりと記憶が抜け落ちている。


 やはり、志恩の事を考えすぎて、頭がおかしくなったのかもしれない。

 

 箸を持ちながら我に返り、シゲシゲの方へと視線を送った。

 

「なあシゲシゲ。志恩が帰ってこない」

「そうか……」


 シゲシゲは大好物の漬物を食べていた。

 キュウリとたくあんの漬物を交互に口の中に運び、食事に夢中だ。


 そこで俺は昨夜に起こった出来事をボソッ、と呟く。

 

「なあシゲシゲ。俺、昨日志恩とチューした」

「そうか……あ?」


 賑やかだった食卓は静寂に包みこまれた。

 地方番組のお天気お姉さんの言葉だけが、部屋中に流れ続けている。


「あらあら、とうとうやったのね柚子葉」

 

 千代子お祖母ちゃんが言った。彼女は満面の笑みを浮かべている。


 千代子お祖母ちゃんは、俺が志恩に片思いしているのを十年も昔から知っている。

 シゲシゲとは異なり、千代子お祖母ちゃんはスマートフォンを持っている。


 いや、持っているだけではない。

 さながら現代女子高生のようにチックトックを使いこなし、シゲシゲとの日常生活を写真に収め、動画投稿なり俺に送っていたりもした。


 もう一度言おう。

 千代子お祖母ちゃんはハイテクお婆ちゃんだ。


 河口町という外界から切り離された世界において、彼女が外界の社会事情を知り得るには、チックトックやユーツーブなどの情報収集と情報発信の場が必要であったのだ。

 

 彼女は立ち上がったと思えば、俺の傍に近づき頭を撫でてくれた。

 

「良かったわね柚子葉。婚前交渉はダメだから、そこだけは気をつけなさい」

「はーい」


 和やかな雰囲気を漂わせる俺と彼女とは異なり、八十五歳を迎える筋骨隆々の変態マッチョメンは、持っていた箸を折り曲げた。

 

 筋肉モリモリの変態マッチョメンは、突然の事後報告に驚いたらしく、折り曲げた箸を食卓に落とした。

 開いた口が塞がらないシゲシゲ。ニンマリとした笑顔を浮かべた千代子お祖母ちゃん。


 俺の事後報告によって、両者は両極端な態度で迫ってきた。

 

「痛っ。なんで叩くんだよ!」

「柚子。志恩だけは辞めとけ。シゲシゲの一生のお願いだ。頼む!」


 頭をポンッと叩いたシゲシゲは、居間の隅に置いていた刀に手を伸ばした。

 

 恐らく、シゲシゲは志恩の女癖の悪さを知っているがために、俺の身を案じて刀を手に取ったのだろう。

 しかし、千代子お祖母ちゃんは、シゲシゲの行為を許しはしなかった。


 持っていた菜箸を握ったお祖母ちゃんは、数日前に見せた若い女性の姿へと肉体を変化させた。

 若いお姉さんと化した千代子お祖母ちゃんは、”小さい男だわね”とブツブツ呟きながら、シゲシゲの背後に佇んだ。

 

「あ……俺、知ーらない」

「あ、柚子葉。いい機会だから教えてあげるわ」


 千代子お祖母ちゃんは、居間から立ち去ろうとする俺を引き留めた。

 

「私のご先祖様はね。鬼の大妖怪なの」

「ふーん」

「ふーんって。怖くないの?」

「うん。どうせそんなところだと思ったから」


 千代子お祖母ちゃんの話によると、彼女は鬼の血を受け継ぐ半妖であるとのことだ。

 肉体が若返るのは、ご先祖様から受け継いだ妖怪の血が反応して起こる現象であるそうだ。


 昨日は志恩が鴉天狗だと暴露。今日は千代子お祖母ちゃんが鬼だと暴露。


 俺は平然を装いながら居間から出て行ったが、内心バクバクであった。

 無理もあるまい。自分が知っている人物が半妖や妖怪であると告げられたのだから。

 

 そそくさと居間から立ち去った直後、廊下にまでシゲシゲの叫び声が聞こえた。


 千代子お祖母ちゃんが”菜箸”で何をしたのかは分からない。

 しかし、あの絶叫からすると、相当ひどい目にあっているのには違いない。


 サンキューバッバ。

 あんたは何時だってナンバーワンだよ。

 

 廊下を進んでいき、再び二階に戻ろうとした俺は、玄関のガラス戸を凝視した。

 視線の先にあるガラス戸には、成人男性のようなシルエットが浮かんでいる。


 ガラス戸の向こう側に誰かが立っているようだ。

 

「妙だな。来客なんて来るもんなんだ」


 ガラス戸の向こう側に居る何者かのシルエットには、見覚えがあった。


 もしやと思い、俺はガラス戸の向こう側に居る人物を侵入させては不味いと判断し、忍び足でガラス戸に近づく。


 自身の存在に気づかれないよう、亀のようにゆっくりと動き続け、ナマケモノのようにノロノロとガラス戸に手を掛けた。

 その直後、インターホンの音が玄関に鳴り響いた。

 

「倉敷さーん。倉敷柚子葉さーん」

「こ、この声は間違いない。猫屋敷ねこやしき先生だ」


 聞き覚えのある声にたじろぎ、俺は脳内に保健室の先生の姿を浮かべた。


 中高一貫の私立学園にて、保健室登校を許してくれていた猫屋敷宗一郎。

 学園内の女子生徒に好意を寄せられ、同学園内の女性職員のハートを握った男である。


 白衣に身を包んだ猫屋敷先生は、一部の女生徒から”宗一郎様”と呼ばれるほど、数々の女生徒から崇められていた。


 物腰の柔らかさとゆったりとした口調。背中まで伸びた長髪を一本に結ぶ彼の姿は、さながら白馬の騎士と呼んでも過言ではない人物であった。


 御託はここまでにしておこう。


 俺は宗一郎が嫌いだ。

 いや、嫌いというわけではない。ただ、面倒な男だと思っている。


 数年間もの間、保健室登校をしていた俺は、父親よりも顔を合わせている彼のことが苦手であった。


 彼に新しいネイルを見せつけた時は、除光液で強引に消し落とされ。

 アイシャドーのメイクをして登校したと思えば、醜女や不器用などと言われ続けた。


 ゆえに、俺は宗一郎が苦手である。


「倉敷柚子葉さーん。いるんでしょー。もうブスって言わないから、屋敷に入れてよー」


 宗一郎はしびれを切らしたらしく、ガラス戸の取手に手を伸ばしたようだ。


 不味い。このままでは宿題のことがばれてしまう。

 いや、そもそも宗一郎は、どうして田舎までやってきたのだろう。


 違う。今はそんな事を考えている場合じゃない。

 俺が今すべきことは――。


「柚子葉さーん。勝手に入っちゃうからねー」

 

 宗一郎はそう言い、玄関のガラス戸をゆっくりと開き始めた。


 すかさず俺は、宗一郎が嫌いな”動物の鳴き声”を真似した。

 

「にゃ、ニャーン。ニャーン」


 メス猫のポーズをとりながら、鳴き声を真似していた俺は、ドン引きしている宗一郎と目が合った。


「ああ居たんですか、柚子葉さん。居るなら玄関を開けてくださいよ」

 

 冷酷なまでの瞳で、こちらを睨み続ける宗一郎。


 俺は蛇に睨まれたカエルのように、彼を横目で見ることしかできなかった。


 そこには、”やれやれ”といった手振りで呆れ果てている彼の姿があった。


 猫屋敷宗一郎は大の猫嫌いである。

 

 中高一貫の私立学園に保健室登校していた際、校内のグラウンドに猫が迷い込んだ事件があった。

 その時。宗一郎は猫を学園外に追い出すため、あらゆる手段を使った。

 

 保健室に備蓄している消毒薬などを散布させ、猫を追い払ったのだ。

 

「俺は猫だニャーン……猫だニャーン」

「はいはい。貴女みたいな不細工な猫は、この世にいませんよ」


 メス猫の鳴き声を真似した俺だったが、宗一郎には効かなかったようだ。 

 宗一郎は不気味な笑顔を浮かべながら、俺の方を見つめていた。

 

 めくれたタンクトップを整え、立ち上がった。

 

「それで宗一郎先生。こんな田舎まで何の用ですか」

「あれ? お父さんから聞いてないの?」


 宗一郎は不思議そうな表情をしながら腕を組んだ。


 お父さん? 皐月が何か言ったのかな。

 

「皐月からは何も聞いてないよ。何年も口をきいてないからね」

「そっか。いや、皐月お父様から連絡があったんだよ」

「連絡?」

「うん。夏休みが明けたら、柚子葉さんを”八童子桑真高校”に転校させるってさ」


 宗一郎の話によると、俺の父親”皐月”は、夏休み前に予定していた通り、俺を市内の高校に転校させるようだ。

 手続きも既に済んでいるらしく、後は転入試験を受けるだけらしい。


 なぜだか分からないが、宗一郎は寂しげな表情を浮かべていた。

 崩壊した俺の家庭事情を知っているからなのだろうか。


 靴棚の上に置かれた時計を覗き込む。

 

「宗一郎。教えてくれてありがとう。でも、それを教える為だったら、ラインに送ってくれればいいのに」

「そうだったね。でも、私の教室の常連だったし、様子が気になったのもあってね」


 宗一郎が言っていることは間違いない。

 俺は、彼の保健室という教室に居る、唯一の生徒であった。


 完全な不登校から保健室登校にまで成長できたのは、彼のサポートのおかげもある。


 サポートと言っても、ただの話し相手だ。

 それでも、俺は学校に通い続けるため、宗一郎を頼るしかなかった。


 猫屋敷宗一郎。彼は俺の学生生活の恩人である。

 

 彼の行為を無碍にするわけにもいかない。そう思った俺は、宗一郎を屋敷に上がらせた。

 

「外、凄く暑かったでしょ。大したものはないけど、なんか飲んでいきなよ」

「そうだね。じゃあ少しだけお邪魔させてもらおうかな」


 東京都内から八童子市の河口町までは、車を使ってでも二時間は掛かるだろう。

 どのような交通手段を用いて屋敷まで来たのかは知らないが、長旅だったのには違いない。


 上がり框あがりかまちに腰を下ろした宗一郎は、持っていた鞄を廊下に置き、革靴を脱ぎ始めた。

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