弐ー二


 懐中電灯を手に持ち、もう片方の手のひらで甚平を扇ぐ志恩が目に入る。


 昨夜ぶりの再会に胸を踊らせた俺は、緊張を隠しながら彼の元へと近づいた。

 

「おい志恩。何でここにいるんだよ。屋敷に戻ってこないで何してたんだよ」

「あ? そんなのどうでもいいだろ。それに、お前が着いて来いって言ったから来てやったんだよ!」


 参道の奥にまで響くような大声で志恩は言った。

 

 朝には屋敷に帰ってくるはず。

 そう思っていた俺は、期待を裏切られた事に苛立ち、彼を睨んだ。


 志恩は悪びれる様子もなく、だるそうにボリボリと頭を掻き、悪態のようなものをつきながら参道の方へと体を向けた。


 ブツブツと「面倒ばかり掛けやがって。これだからガキは嫌いなんだよ」などと呟く彼の姿は、さながらショッピングモールでオモチャをねだる子供のようにも見える。


 昨夜にファーストキスを捧げた相手とは別人と思ってしまうほど、志恩の態度は明らかに不機嫌そうであった。


 彼はシゲシゲの耳元に口を寄せる。

 俺や宗一郎、小泉さんに聞かれては不味い話なのか、こちらに聞こえないように耳打ちを始めた。


 この人は誰なんだろう。

 俺が知ってる志恩は、どんな我が儘を言っても許してくれる人間のはずだ。


 怒ったとしてもフザケ半分であることが多いし。

 冗談だと言い、場の空気を読むタイプの男性でもある。


 昨日とは別人の彼を見て呆然としていた俺は、何者かに腕を掴まれて我に返った。


 暗闇から伸びた手のひらに驚き、心臓の鼓動が跳ね上がり、背筋が凍っていく。


 さまよう視線を抑えながら、腕を掴んだ手のひらに目を向ける。

 そこにいたのは、猫屋敷宗一郎だった。

 

「ビックリした。驚かさないでよ宗一郎」

「柚子葉さん、そんなに驚かないで下さい。それより、もしかして、あの方が”志恩さん”ですか?」


 俺の動揺が伝わってしまったのか、ビクッと跳ねた俺の体に合わせ、宗一郎の体も跳ね上がった。


 目の前にいる”志恩”という存在に、宗一郎は驚きを隠せないでいたようだ。

 俺の傍から離れていった彼は、志恩を観察するように覗き込み、シゲシゲと志恩に並ぶように足早と参道を歩いていった。


 保健室登校をしていた俺は、たびたび宗一郎に志恩と葉月の事を相談していた。

 勿論、俺の体の秘密を知っている宗一郎は、俺の話を真実であると疑っていなかった。


 霊魂の半分以上を抜かれた俺の体は、死人と同様である。

 脈拍や体温、生理現象や三大欲求などは、平均的な女子高生よりも下回っているし、同年代の高校生よりも基礎体力がない。


「ねえ柚子葉ちゃん。あの人って、十年前に消えた八童志恩さんだよね。もしかして知り合いなの?」

 

 小泉さんが言った。宗一郎ほどではないが、彼女も彼という存在に驚いていたようだ。


 こちらを覗き込む小泉さんに対し、俺は何て返事をしたらいいのか戸惑った。

 

「うん。志恩は俺の友達……かな」

「えー! 八童家の人と知り合いだなんて、やっぱり柚子葉ちゃんって凄いんだね!」


 面倒なことになった。

 こんなに驚かれるくらいだったら、屋敷で話しておけばよかった。

 

 目を見開き、瞳を丸くさせ、志恩に熱い視線を送る小泉さんは、まるで神様や仏様に出会ったかのように興奮している。

 猫屋敷宗一郎とは異なり、小泉さんの反応は予想できた。

 

 愛人との間に生まれた庶子しょしの俺とは異なり、志恩は十年前まで八童家の嫡男だった。


 八童子市の中でも最も古い旧家の生まれである彼は、八尾山の土地の全てを所有する一族の一人である。

 十年前の九月に失踪扱いされなければ、俺たちが居る八尾山の所有権は志恩が握っていただろう。


 前を歩く宗一郎へと視線を送る。

 そこには、幽霊でも見るような目つきで、志恩を覗き込む宗一郎の姿があった。


 俺と小泉さんは、彼らを追いながら参道を歩き続ける。

 

「俺は凄くないよ。凄いのは俺の家柄だけ」

「えーそうかな? あんなに格好良い人と知り合いだなんて羨ましいな」


 小泉さんはそう言い、小さく溜め息を吐いた。


 彼女が言ったことに間違いはない。正直に言ってしまえば、八童志恩という男性は魅力的だ。

 

 同年代のアラフォー男性と比べたとしても、頭一つ抜けている。

 三十八歳を迎えようとしても尚、十年前と全く姿が変わっていないし、色気は増すばかりだ。

 

 そんな色気たっぷりの志恩と、俺は”友達”である。

 そう。結局は友達のままなのだ。


 男女の仲でもなければ、二回りも年が離れている。

 友達というよりも、知り合いと呼ぶのが正しいのかもしれない。


 志恩にとって、俺はどんな存在であるのだろうか。

 親友の妹としか思われていないのだろうか。付き合っている訳ではないのだから、ただの女子高生としか思われないのだろうか。

 

 俺にはさっぱり分からない。


 口約束ではあるが、昨日の深夜、一方的な形で婚約を申し込んだ。

 けれども、それは俺の一方的な想いである。


 女癖の悪い志恩から見てしまえば、二回りも年下のメンヘラ女が、一方的に想いを寄せたとしか思えないはずだ。


 考えに考え抜く。考えが纏まらず、頭の中を考えがグルグルと駆け回る。

 俺は答えが出せないままで居るのが嫌になり、覚悟を決めた。

 

 小泉さんを参道に置いていき、志恩の背後に忍び寄る。歩き続ける彼の腕を掴み、大声で叫んだ。

 

「おい志恩! 昨日の夜の事は忘れてないだろうな!?」

「ったく、うるせえガキだな。ほらよ……」


 こちらを振り返った彼は、持っていた何かを俺に投げつけた。

 

 参道に落ちた何かを見下ろす。

 そこには、八童薬王院という文字の刺繍が施された護符があった。

 

「鬼避けの護符は貰ってきてやったよ。薬王院に行こうとしてるのは、それが理由だろ? 用が済んだならガキ共はさっさと帰りやがれ!」

 

 志恩はそう言い、俺を突き飛ばすように手を伸ばした。


 彼の手のひらが赤いジャージに当たり、その勢いで俺は参道に尻餅を着く。

 尻餅を着いた拍子で手のひらに傷が出来た。

 

 参道に落ちた鬼除けの護符に視線を送り、そのまま流れるように志恩を睨みつけた。

 

「痛っ……マジで最悪なんだけど」

「クソッ。面倒ばかり掛けやがって、ほら起きろよ」


 志恩はそう言い、手を差し伸べる。

 不安げに辺りを見回し、首にせわしなく手を置き、不本意ながらも俺に手を差し伸べる彼の姿が目に入る。


 突き飛ばした事を謝るのでもなく、イライラしている理由を伝えるのでもない。

 転んでしまった俺を起こす為に、しょうがなく伸ばした手のひらが迫ってくる。


 そんな"気持ち悪い"手のひらが俺の顔に近づく。


 志恩が何にイライラしているのかは知らない。

 いや、知りたくもない。知ったところでどうにもならないのだから。


 どうして目の前の男は、軽々しく人を突き飛ばせるのだろうか。

 もしかしたら、昨日の夜から今日の夕方に掛けて、何かがあったのかもしれない。


 昨日の夜、楢野町に向かった志恩は、何かのトラブルに巻き込まれたから、ブツブツと文句を言い続けていたのかもしれない。

 だとしても、正直なところ、そんな事はどうでもいい。


 何があったのかは知らないが、男だろうと女だろうと、簡単に人を突き飛ばすような人間の手なんか借りたくない。

 

 そう思った俺は、志恩が差し伸べた手のひらを叩き、自分の力で起き上がった。

 

「邪魔。汚いから触んな」


 俺が苛立っている事に気づいたのかもしれない。

 自分の行った行為が、馬鹿野郎がする行為なのだと理解したのかもしれない。


 もしかしたら、わざわざ差し伸べた手を振り払った事で、今以上に生意気なクソガキだと思ったのかもしれない。


 俺が感じた幾つもの"かもしれない"という思いが、志恩にも伝わっていたようだ。


 彼は摺り足で近づき、掛けていたサングラスを額に掛け直し、我に返ったように覗き込む。

 表情を曇らせ、先程と同じように手を伸ばし、顔をしかめる彼の姿が目に入る。


 自分で突き飛ばしておいて後悔するなんて、至極自分勝手な男だ。

 

「邪魔って言ってるだろ!」

「悪かった悪かった。そんなに怒んなよ柚子葉。ちょっと冷静になれよ」


 ふざけた笑みを浮かべながら、こちらに近づこうとする暴力男。

 それに合わせて俺も摺り足で後ろに下がる。

 

 グチャグチャに丸めたアルミホイルは、綺麗に広げたとしても元には戻らない。


 ただの暴力男としか、彼の事を思えなくなってきた。

 

 たったの一度の行為だ。

 ワザとやった行為ではないと思う。そう思いたい。

 

 突き飛ばしたのは考え事に集中しているからであって、勢いで手のひらを押し当てたのかもしれない。そう願いたい。


 事情があるからイライラしてるんだ。だから、仕方がない。

 そんな子供みたいな志恩に対して、俺が大人にならなきゃいけないんだ。


「柚子葉ちゃん。手のひらの傷、血が止まらないよ」

 

 小泉さんが言った。


 彼女の言うとおりである。

 死人である俺の体は、一度でも怪我をしてしまえば易々とは治らない。


 命の源である霊魂を奪われたことで、俺は死人という体を手に入れた。

 青白い肌には色艶が宿っておらず、生ける屍と大差は感じられない。

 

 故に浮世離れした普通ではない俺の体には、自然治癒力が全くと言ってもいいほど存在しない。


 俺の体は特別であって特別ではない。ただの。

 そう。ただの屍人だ。


 小泉さんが差し出したハンカチを受け取る。

 

「ありがとう小泉さん」

「大丈夫だよ。それより……」

 

 これ以上の出血は命に関わりかねない。

 そう思った俺は、志恩が投げつけた鬼除けの護符を踏みつけ、受け取ったハンカチを手のひらに押し当てた。


 彼が言ったからではないが、冷静になるため深く息を吸う。

 数秒、数十秒は目を瞑っていたのかもしれない。


 乱れたジャージを整え、喉まで込みあがってきた不快感を抑え込み、死人と同様の目つきで志恩を見上げた。

 

「ごめんね志恩。それと私、薬王院には直接行くって決めてるから、先に行ってるね」


 顔を伏せながら一言だけ言い残し、志恩の真横を通り過ぎた。


 視線をさまよわせる志恩が目に入る。彼の手のひらがビクッと動いた気がした。


 それでも俺は参道を歩き続けた。


 彼に構っている場合じゃない。

 確かめなければならないことがある。それを確認できないまま帰ってしまえば、わざわざ八尾山に来た意味がない。


 参道の両脇に建てられた街灯や灯籠の赤い明かりを頼りに前方を凝視する。

 数十メートル離れているのに、ここからでも目的の場所はハッキリと見えていた。


 街灯の光を遮るように生えた”杉の木”を目指し、歩き始めようとした。

 その時。再び志恩が俺のジャージの袖を掴む。

 

「しつこいなあ。まだ何かあんのかよ……」

 

 手のひらへと視線を送り、勢いよく後ろを振り返った。

 そこに居たのは、暴力男でもなければ銀髪ゴリラでもなく、陽キャの女子高生でもなければ猫嫌いの流し目男でもなかった。


 ベチャッ、ベチャッという液体が落ちる音を鳴らし、鼻を塞いでしまうような硫黄の匂いを漂わせ、遠くを見るような眼差しで呆然と立ち尽くす化け物が腕を掴んでいた。


 歪な形の心臓に、無数の口と手のひらが生えたような化け物。

 風船のように膨らんでいる化け物は、さながら動き続ける心臓のように鼓動を放ち続け、息をするように体から液体を噴き上げていた。


 全身から十数本の腕を伸ばす化け物は、その一本一本を俺の腕に絡め始めた。

 

 あ、死ぬやつだ。

 

 そう思えたのは、心臓の化け物と視線が合ってしまったからだ。

 

「お願いします……手を離してください」


 両手をギュッと掴み、俺は何かに祈るように小さく呟いた。


 何かが誰なのかは分からない。

 下劣な笑みを浮かべた恋愛の神様でも構わないし、小泉さんが想像していた神様や仏様でもいい。


 人間ではないもの。コイツより強そうな化け物とか怪異、物の怪とか妖怪。怨霊だろうが何でも構わない。

 強くて逞しい別の生き物だったら何でもいい。


 そうであれば、そうでなければ、目の前の化け物には敵うわけがない。

 そんな事を思いながら、化け物と合わせてしまった視線を参道へと向けた。


 俺の体に手を伸ばす志恩や宗一郎、体を震わせている小泉さんの姿が見えた。

 

「シゲシゲ。助けて……」


 どうしてシゲシゲに助けを求めたのかは分からない。

 齢八十五歳を迎えるお爺ちゃんに、一体何が出来るのであろうか。


 妖怪である志恩に助けを求めても良かった。

 でも、志恩にあんな態度をとったばかりだし、彼氏でもない人に頼るのもおかしいよな。


 等と考えているうちに、俺の体は化け物の腕に抱きかかえられた。

 

「化け物風情め……すぐに祓ってやるわ」

 

 シゲシゲはそう言い、鬼のような形相で飛び込んだ。


 俺が助けを求めるよりも早く、シゲシゲは化け物の存在に気づいていたようだ。

 銀髪のゴリラは化け物の頭上に飛び込み、持っていた何かを化け物の頭部に突き刺した。


 何を突き刺したのかは分からない。

 木の枝や鉄骨でも構わない。何であったとしても、化け物には効果があったようだ。

 

 その何かを突き刺された化け物は、刺し傷から血しぶきを噴き出し、体中にあった無数の唇から叫び声をあげた。


 暴れ回る心臓の化け物に突き刺さった物体へと目がいく。

 突き刺さっていた物体は、倉敷家の家宝である”七度返りの宝刀”だった。

 

「シゲシゲ……何でナマクラ刀なんか」

「すぐに出してやる。そのままじっとしておれ」


 シゲシゲが言った。

 普通の人間であるのに、シゲシゲの言葉には説得力があった。


 けれども、俺を抱きかかえた心臓の化け物は、無数の腕を使ってシゲシゲの体を吹き飛ばした。

 

 化け物の腕が俺の体を体内に押し込んでいく。それでも俺は参道の石壁に背中を打ったシゲシゲへと手を伸ばした。


 無数の手のひらが視界を覆っていき、俺の視界は真っ暗になった。

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