弐章

弐ー一


 宗一郎と小泉さんの手伝いもあり、無事に観察日記の対象は”シゲシゲ”に決まった。


 庭園の池に飼育している鯉を観察することもできたが、何十匹もいるという事から鯉は観察の対象外になった。


 その他にもメダカや朝顔などが候補に上がりはしたが、それでは小学生と全く変わらないという指摘を宗一郎から受け、観察甲斐のある生き物を考えた結果。

 シゲシゲという生き物がいいのではないかという案が上がり、紆余曲折あったが対象はシゲシゲに決定した。


 シゲシゲにバレたら驚かれるだろう。

 どうして自身が観察対象に決定したかと問われれば、上手く答えられる気がしない。


 本来ならば観察日記とは"成長過程"を観察するべき宿題であるのに、観察対象が八十五歳を迎えるお爺ちゃんなのだ。


 極楽浄土に片足を突っ込んでいるシゲシゲは、これ以上に成長する訳がない。


 高齢ということもあり認知症にでもなってしまえば、成長するどころか退化する一方なのだ。


 それでもシゲシゲという生き物を観察したいと思ったのは、十年という節目があったからだ。


 これまでの十年間。

 赤鬼に襲われた十年前の九月二十日から、毎年の夏休み、俺はシゲシゲの家にお世話になっている。


 しかし、お世話になっているとはいえ、俺はシゲシゲの事を知らなさすぎている。


 彼はただのお爺ちゃんではない。

 齢八十五歳を迎えるであろう筋肉モリモリの変態マッチョメンなのだ。


 衰えのない驚異的な性欲を愛する妻にぶつけても尚、"ボインのお姉ちゃん"が写ったピンク本に手を出すお猿さんである。


 いや、それではお猿さんに失礼かもしれない。

 お猿さんのように可愛げがあるのならまだしも、さながらシゲシゲの体格は"ゴリラ"と呼んでも過言ではないのだ。


 野生のボスゴリラは、十三歳から十五歳を過ぎる成熟期になると、背中の毛が銀色に変化する。


 成熟期に達した銀毛のゴリラは、シルバーバックと呼ばれるそうだ。


 それは群れのリーダーの証であるらしい。


 風格のある面構えをしたシルバーバックが目に浮かび、それに重なるようにシゲシゲの姿が映り込んだ。

 

「うん。どう考えてもシゲシゲは変態ゴリラだ」


 昨日は、千代子お祖母ちゃんが半妖だと知り、志恩が鴉天狗だと知った今。

 俺という浮世な存在が特別であると認めるには、シゲシゲというお爺ちゃん、いわゆる普通の人間を側に置くしかなかった。


 とは言っても、シゲシゲが普通の人間かどうかは定かではない。

 

 シゲシゲは、千代子お祖母ちゃんが半妖だと知っている。

 つまり、シゲシゲも何らかではあるが、特別な存在であるのには違いないのだ。


 シゲシゲが普通の人間であって欲しい。

 人間でなくとも、シルバーバックであるなら観察対象になるはずだ。

 

 俺はそう思いながら、観察日記という文言が書かれたノートを睨み、観察日記の表題に"シゲシゲの生態"と記入した。

 

「よし。これで宿題が終わったな」

「終わってませんよ柚子葉さん。これから始めるんです」


 宗一郎はそう言い、出かける準備を始めた。

 彼に合わせて俺も準備を始める。


 彼の言う通りである。

 あれから夕方になるまで三人で案を出し合ったはいいものの、進んだのは観察日記の対象決定だけである。


 ノートの表面に書き殴られた"シゲシゲの生態"という文字だけが今日の成果なのだから、文句を言われてもしょうがない。


 鬼避け護符を縫い付けられたジャージに手を伸ばす。

 宗一郎に返事をした俺は、彼と同様に準備を始めた小泉さんを横目で見た。

 

「分かってるよ。それより、小泉さんも着いてくるの?」

「うん。八童薬王院は由緒ある場所だし、このまま帰っても暇になるだけだからさ」


 小泉さんはそう言うと、スマホを取り出し誰かにメッセージを送った。


 一分もしない内に彼女のスマホは着信音を鳴らした。

 

「柚子葉ちゃん。今日は休んでいいって連絡が来たから、一緒に行けるね」


 小泉さんは持っていたスマホの画面を見せてきた。

 画面には、「了解! ゆっくり休んでね!」とのメッセージが写されており、その後も次々とメッセージがスマホに届いた。


 宗一郎に呼ばれて小泉さんは倉敷家に訪れた。

 彼女の話によると、本当はバイトや部活、家業の手伝いの予定が入っていたが、俺の為に一日を費やしてくれたらしい。


 急なシフト変更や予定の変更が出来たのは、それらに小泉さんが普段から真面目に取り組んでいたからであるようだ。

 

 顔が広いというのは本当らしい。

 流石は陽キャである。俺には真似出来ない芸当だ。

 

 バイトや部活をした事がない俺から見てしまえば、急な予定変更など、思っていたとしても口に出せないだろう。


 昨日に予定していた通り、今日は夕方から八童薬王院に行く予定だ。


 予定通りであれば、シゲシゲと志恩、俺を含めた三人で参拝する予定だった。

 でも、志恩は夕方になっても屋敷に戻ってこない。


 このまま彼を待っているのはもったいないと思い、俺は予定通りに薬王院へと向かうことを決めた。


――


 早めの夕飯を済ませた俺たちは、シゲシゲの運転のもと、八尾山の八童薬王院へと車を走らせた。


 助手席に俺が座り、後部座席に宗一郎と小泉さんを乗せ、車は道路を走り続けている。


 河口町から八尾山へ向かうルートは二つ存在する。

 一つ目は秋川街道を真っ直ぐ進んでいき、八尾街道にぶつかる交差点を右折するルート。


 夕方から夜の間は渋滞にハマることが多い。

 ゆえに、シゲシゲはそのルートを選択せずに、二つ目のルートを選んだようだ。


 俺たちを乗せた大型四駆自動車は、秋川街道を真っ直ぐ進んでいき、美山街道を登ったかと思えば、有料道路を通って八尾山口駅へと走っていった。


「田舎はすぐに日が落ちますね」

 

 宗一郎が言った。後部座席を覗き込むと、宗一郎の顔が夕日に照らされていた。


 彼の言う通りだ。

 車を走らせてから三十分も経ってないというのに、暮れ始めた夕日はオレンジ色の光を残して落ちてしまい、周囲は真っ暗になっていた。


 頼りになるのは一定間隔に置かれた街灯の光。

 数百メートルごとに離れたコンビニの光だけだ。


 それから数分もしない内に、俺たちを乗せた車は八尾山の登山口駐車場に停まった。

 

「なあシゲシゲ。こんなに遅い時間に来たのって初めてなんだけど、薬王院ってそんなに遅くまでやってるのか?」

「柚子は知らないと思うが。今年から八尾山のビアガーデンは、夜の十時まで営業してるんだ」


 筋肉モリモリの変態マッチョメン。

 否、シゲシゲは車から降りたかと思えば、ポケットに入れていた登山パンフレットを差し出した。


 長方形に折りたたまれたパンフレットを広げる。

 

「ふーん。一年しか経ってないのに、随分と盛り上がってるようじゃないの」


 ルームランプに照らされた登山パンフレットには、デカデカと”八尾山はちおざん”という文字が書かれていた。

 

「八尾山? 何これ、そのまんまじゃん」

「違うよ柚子葉ちゃん。それは"ハッピーマウンテン"って読むの」


 俺は後部座席から聞こえた声に耳を傾ける。

 顔を動かさずに目だけを動かした俺は、顔の真横にまで接近した生命体の姿に圧倒された。


 小泉さんの胸部が真横に迫ってくる。

 声の主は座席の間をすり抜けるように、助手席と運転席の間から身を乗り出していた。


「ほら、八尾山って、直訳すればハッピーマウンテンって読めるでしょ?」

 

 小泉さんはそう言い、俺が持っていたパンフレットに指を伸ばした。


 肩に掛かった彼女の髪が揺れ動く。

 揺れ動く髪からデコオのシャンプーの香りが漂った。

 

 なるほど。八尾がハッピーで、山がマウンテンか。


 ふざけた名前だ。

 多分、考えた奴の頭の中は、お花畑であるに違いない。


 それよりも、気がかりなことがある。

 

「小泉さん。もしかして、デコオのシャンプーを使ってます?」

「うん。私のお気に入りなんだ」


 デコオのシャンプー。

 それは一世を風靡した伝説のシャンプーである。


 ある女子高生アイドルが使用していると明言したデコオのシャンプーは、自身も女子高生になれるという噂がネットで広がり、その次の日には買い占められていたらしい。


 無論ながら、買い占めを行ったのは転売業者が大半である。

 しかし、買い占めの行為に紛れ、密かにシャンプーを買い求めた購入者層が存在していた。


 言うまでもないが、その購入者層は十代の女性ではない。

 二十代や三十代、四十代から五十代といった男性購入者層である。


 何を思ってデコオのシャンプーを買い求めたのは知らない。

 いや、知りたくもない。


 閑話休題。


 結論から言えば、小泉さんは紛れもない女子高生であった。

 身なりや体形、髪形から匂いまでが完璧な女子高生だ。


 そんな完璧な女子高生に圧倒された俺は、助手席の窓を叩く人物へと目を向けた。

 

「何やってんの宗一郎」

「何やってんのとは、こっちのセリフですよ! 茂おじい様は先に行きましたよ!」


 ドンッというトランクのドアが閉まる音と共に、ルームランプの明かりが消えた。


 車のキーを持っているシゲシゲが離れたからなのであろう。

 

 俺と小泉さんは車から降りて宗一郎の後ろを追っていく。

 後方を振り返ると、車のテールランプが何度か点滅していた。


 宗一郎の腕に抱き着き、俺は清滝駅へと向かった。

 清滝駅は八尾山駅と繋がるケーブルカーの乗車駅だ。


 夕方前の四時ごろであれば、リフトを使って山上駅まで行ける。

 俺はジャージのポケットからスマホを取り出し、時刻を確認した。

 

「六時十五分。シゲシゲの話が本当であれば、ケーブルカーも遅くまでやってるのかな」


 ケーブルカーの終発時間は、平日と祝日では三十分ほど異なる。

 パンフレットを見た限りだと、ハッピーマウンテンの山腹エリアに存在する飲食店は、シゲシゲが言っていた通り、十時前後まで営業しているようだ。


 恐らく、飲食店の営業終了時間に合わせた事で、ケーブルカーの運行時間も変化したのだろう。

 

「なあ宗一郎。俺、シゲシゲの方に行ってくるから、小泉さんの事は任せたよ」

「分かりました。”観察日記”の為もありますし、静香さんのことは任せてください」


 街灯の光を頼りに後方を振り返った俺は、小泉さんに視線を送った。

 

「ねえ小泉さん。俺、”観察日記”の宿題やってくるから、宗一郎の面倒は任せたよ!」

「はーい! っていうか、そろそろ”静香”って呼んでよ!」


 小泉さんはそう言い、足早に宗一郎の元へと向かっていった。


 小泉さんの言いたいことは理解できる。

 同じ高校へと通う仲になるのだし、少しは距離を縮めておくべきなのかもしれない。


 けれども、俺の本能ランプが点滅している以上、彼女と関わることで、自分の陰キャがより際立ってしまうようで嫌だった。

 そんなことを恐れていた俺は、うかつに小泉さんを静香さんと呼べる気がしないでいた。


 清滝駅の改札口で待っているシゲシゲに抱き着く。

 銀髪ゴリラ……否、シゲシゲは四人分のチケットを購入してくれていたようだ。


 彼の剛腕に顔を擦り付ける。

 

「なあシゲシゲ。お前、本当に今年で八十五歳になるんだよな?」

「まあな。柚子が二十歳を迎えるまでは死ぬつもりもない。それに、千代ちゃんを置いて先に死ぬわけにもいかんからな!」

 

 満面の笑みを浮かべながらシゲシゲはそう言った。

 シゲシゲの弾けるスマイルには、純粋さを感じさせるものがあった。


 愛する妻を思った笑顔。

 なんだかんだ言って俺はシゲシゲのことが好きだ。


 愛していると言ってしまえば噓になるが、大切な存在であるのには違いない。


 後方にいた宗一郎と小泉さんにチケットを渡し、俺を含めた四人はケーブルカーに乗った。


 乗車してからも俺はシゲシゲの腕に抱き着いている。

 シゲシゲという存在が居なければ、千代子お祖母ちゃんという存在が居なければ、俺という存在は本物の黄泉に行ってしまっていたからだ。


 十年前の九月二十日。

 蛸杉の目の前で倒れていた俺は、山腹にある八尾山駅で待っていたシゲシゲによって助けられ、一命をとりとめた。


 霊力の強い人間には、霊魂という不確かなものが体の中にあるらしい。

 しかし、赤鬼に霊魂を奪われた俺の体は、肉体から霊魂が消えたことにより危篤状態になった。


 霊魂を奪われた日からの数日間の記憶はない。

 シゲシゲの話によると、俺の体から抜けた霊魂は、全体の九割であるとのことだ。


 俺の体は霊魂を抜かれた状態ではあったが、奇跡的に一命をとりとめていた。

 生まれつき霊魂を持っている人間は、霊魂の七割以上を抜き取られてしまえば、死人と化して人間ではなくなる。


 どうして俺が助かったのかは、シゲシゲも理解できていない。

 俺の体から霊魂が抜けて数日が経ったある日、突如、俺の体内に全体の一割ほどの霊魂が戻ったようなのだ。


「柚子。着いたようだな」

 

 シゲシゲはそう言い、ケーブルカーの降車口へと向かう。


 ガコンッ、という音と共にケーブルカーが揺れる。

 

 俺と小泉さん、宗一郎もシゲシゲの後を追うように、降車口から駅のホームへと足を乗せる。


 その直後、視界を塞ぐように、眩しくて目が開けられないほどの光が俺たちを照らした。


 眩い光に耐えながらも目を見開き、光の方へと目を向ける。


 そこには、懐中電灯を手に持ち、バタバタと手を仰ぐ、甚平姿に身を包んだ志恩の姿があった。

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