壱ー四
次の日の朝、置き時計から流れる目覚まし音のジリジリ、という音が耳に入り、俺は目を覚ます。
「あーうるさい」
ビーズ入りの枕に手を伸ばし、置き時計に目掛けて放り投げる。
薄手の毛布を被り、もう一眠りしようとした。
それを許してくれないらしく、置き時計は、数分後に再び目覚まし音を響かせた。
敷布団から起き上がり、置き時計を掴み上げる。
「朝の六時。どう考えても早過ぎだろ」
時刻は六時五分。
どうして葉月兄さんは、こんな時間に目覚ましを設定したんだろう。
いつかは葉月兄さんと志恩が戻ってくる。その時の為に、なるべく葉月兄の部屋はいじらないようにしていた。
だから、目覚ましの設定はそのままにしてある。設定を変えてはいけない。そう思ったからそのままにしていた。
敷布団から体勢を起こして、赤いジャージに袖を通した。
ふと窓に目を向ける。
コツン、コツン。と窓ガラスを突く音が聞こえた。
昨夜に引き続き、
「おーい朝っぱらから勘弁しろよ。なあヤタ君。きゅうりじゃ満足できなかったのか?」
文句を言いながら敷布団から立ち上がった。
ドタドタと床を踏みながら窓ガラスに向かう。窓から外を覗いた。そこにいたのは、シゲシゲだった。
瓦の屋根に乗ったシゲシゲと目が合う。
「なあシゲシゲ。どうして朝っぱらから屋根に上ってるんだよ」
「まあ色々あってでな」
「ふーん色々かあ」
「そうじゃ。色々じゃ。だから――」
シゲシゲは切望していたようだ。そんなシゲシゲを面白く思い、俺は伏見がちな眼を浮かべて微笑む。
「じゃあなシゲシゲ」
俺は間髪入れずカーテンを閉じ切った。
「おい、柚子!」
「嫌だよシゲシゲ。面倒臭い」
「頼む! 千代ちゃんに締め出されたんじゃ! 屋敷の出入り口は何処も鍵が掛けられておるし、千代ちゃんが油断しとる場所といったら、ここの窓しかなかったんじゃ!」
「うるさい、うるさい、うるさい――」
千代子お祖母ちゃんに追い出されたって、何をしたんだよ。追い出されるってことは、また隠れてエロ本でも読んでたのか?
シゲシゲと千代子お祖母ちゃんは、齢八五歳になっても仲がいい老々カップルだ。
お互いが初恋相手という事もあってか、俺の前でもイチャイチャしてることが多い。
馬鹿なシゲシゲだ。お祖母ちゃんに締め出されたってことは、相当やらかしたんだろうな。なんて思いながら二人の関係を脳内で浮かべていると、窓ガラスの開く音が聞こえた。
「よし、ここなら千代子ちゃんの結界が張られてなかったし、簡単に入れたな」
シゲシゲの侵入を許した窓ガラスに目を向ける。
おかしい。確かに窓のカギは掛けたままだったはずだ。
昨夜の縁側で起こった事件に敏感だった俺は、昨日の夜、ヤタ君が何処かへ飛んで行った直後にカギを掛けた。
それも入念にだ。数分や数十分おきに目を覚まし、何度も窓にカギが掛かっていることを確認して寝たはずだった。
それなのに、シゲシゲはその窓から容易に侵入してきた。
敷布団から起き上がり、シゲシゲを見る。
そこにはピッキング道具を手に持ったシゲシゲの姿があった。
「なあシゲシゲ。自分の屋敷にピッキングしてまでも侵入するって、どんな気分だ?」
「まあ……ちょっとだけ、寂しいな」
虚ろな瞳のシゲシゲ。孫から、自分がやったことを改めて突き付けられた彼は、残念そうな顔で膝をついた。
シゲシゲの場合、俺の曽祖父にあたる人物から、ピッキング技術を学んだらしい。
秘伝のピッキング技術。無論、シゲシゲは俺の父親である
二本の針金を駆使して窓ガラスを容易に突破したシゲシゲ。そんな彼の無様な姿に小さく微笑む。
「大体朝っぱらから屋根に上って何をしてたんだよ。それに、さっき言ってた”結界”ってなんなの?」
「そうだな。柚子も今年で十七歳になるだろうし、教えてもいいとは思うが」
「あら、シゲちゃん。こんなとことから屋敷に入ったのね。私としたことが油断してたわ。迂闊、盲点、見落とし、まあなんでもいいわ」
腕を組んで対面して座るシゲシゲと俺。
俺は声の方へと視線を上げる。そこには狐のように目が半開きの千代子お祖母ちゃんの姿があった。
千代子お祖母ちゃんの背中。かすかに鬼のような霊体が佇んでいる気がした。
自分のすぐ後ろに千代子お祖母ちゃんが居ると、シゲシゲは気づいたようだ。
「なあ千代ちゃん。今日の朝ごはんはなんじゃ」
「朝ごはん? そんなことより”これ”は何なんですか?」
「あ、ピンク本だ。へえシゲシゲって”こういうの”にも興味があったんだ。やるじゃんシゲシゲ。まだまだお若いねー」
千代子お祖母ちゃんの殺気で一ミリも体を動かすことができないシゲシゲ。
そんな無様なシゲシゲを放って、立ち上がる。
千代子お祖母ちゃんの隣に立ち、彼女が持っていた”薄い本”を見る。
そこには”――やら――などは好きですか?”などの、大きく書かれた文字が並べてあった。
何度も言うがシゲシゲと千代子お祖母ちゃんは、イチャイチャの老々カップルだ。
元気ハツラツと言っても過言ではない。
去年の夏休み、俺が遊びに来ていた時。シゲシゲとお祖母ちゃんは――。
閑話休題。
震えるシゲシゲを置いて階段を駆け下りる。
階段の突き当りに差し掛かった時。二階からシゲシゲの叫び声が聞こえた。
無論、あとは言うまでもない。
”イチャイチャ”する二人を放っておき、廊下を進んで居間へと向かう。
食卓には数冊のピンク本が並べてあった。
「うげっ。こんなものにも興味があるんだ」
食卓に並べられたピンク本と朝ごはん。人間の三大欲求の2つを大いに満たす物質が食卓に敷き詰められていた。
ピンク本を座布団に置き、食事を始める。
ふと、葉月兄の部屋に置いてあるピンク本の事を思い出す。
「
食卓に置かれた扇風機のリモコンに手を伸ばす。ピッピッ、と音を鳴らしたリモコンは、扇風機を作動させた。
――
時刻は十時四五分。
早朝の”ピンク本事件”から数時間が経った。
俺は宿題に夢中。宿題といっても、不登校の俺に課された夏休みの宿題は大したもんじゃない。夢中といっても、仕方なくやっているだけだ。
小学校での虐め事件以来、高校に入学してからも不登校続きだった俺は、不登校から脱したいとも思わなかった。
週1回の保健室登校。それが俺の高校生活だった。
高校一年の頃から二年の夏休み前まで保健室登校していた俺は、保健の先生と心の教室に常駐するカウンセラーから宿題を出された。
保健室のベッドに寝転ぶ俺。
そんな俺の相手をしてくれる保健の先生とカウンセラー。
「本当に、このままでいいの?」
「そうだぞ倉敷。十年前の出来事なんて、みんな忘れてるぞ」
「このままでいいよ。俺は学校生活なんか一ミリも興味ないから」
真っ白のベッドに寝転ぶ俺は答える。
「俺は進学するつもりもないし、就職するつもりもない。どうせ、十八歳になったら田舎へ送られる予定だし」
「確かにそうかもしれないが、〇先生。何とか言ってくださいよ」
「分かりました。柚子葉さん、私もいつまで貴女の面倒を看てあげられるか分かりません。この宿題だけやってみませんか?」
保健の〇先生は、一冊のノートを差し出してきた。
仕方なくノートに目を向ける俺。そこには”観察日記”という文字が書かれていた。
「えー。高校生になって観察日記なんかやらないといけないの」
「柚子葉さんには丁度良いと思ったの。今年の夏休みも河口町で過ごすんでしょ? もしかしたら、今日でお別れになっちゃうかもしれないし、私の最後のお願いだと思って、やってみてくれないかな?」
〇先生が言っている通り、一学期が終わった終業式の今日。この高校での生活が終わるかもしれなかった。
〇先生は微動だにしなかった。俺がノートを受け取るまで、諦めないらしい。
だから、俺は仕方なく先生からノートを受け取った。
倉敷家の居間から庭園へと目を向ける。
そこには一本の松の木があった。
「観察日記かあ。何を観察すればいいんだろう」
パピコを咥えながら頭を抱える。
松の木を観察するなんて馬鹿馬鹿しい。もっと他に観察するべき対象があるはずだ。
筆箱からシャーペンを取り出し、白紙のノートを睨みつける。
数分、数十分は睨んでいたと思う。それでも頭には何も浮かんでこなかった。
畳に寝転がり、縁側へと視線を送る。
「ねえシゲシゲ。観察日記の宿題を出されたんだけど、どうすればいいかな」
「そうじゃな。松の木の観察――」
そう言うと思った。松の木だけはダメだ。あんなの観察するなんて馬鹿馬鹿しい。
シゲシゲに訊いたのが間違いだった。と思い、間髪入れず言い放つ。
「却下。もっと他にいい案だして」
「それ……じゃあ」
「聞こえなーい。もっと大きく喋ってー」
「抜け……そう」
シゲシゲの声が段々と小さくなる。何かに夢中になっているようだ。
何を言っているのか聞こえず、畳を這いながら縁側に近づく。
「ああ、また宝刀の手入れしてたんだ」
「ふん……!」
「諦めなってシゲシゲ。お前さんには抜けやしねえよ」
「そん……なの、わからん」
顔が真っ赤になるシゲシゲ。かなり力んでいるらしい。
ボロボロの鞘から本体を引き抜こうとするが、引き抜けないようだ。
俺は倉敷家の宝刀を思い出し、昨夜に現れた陰陽師を思い出し、吹き飛んだ小鬼を思い出す。
「なあシゲシゲ。昨日の夜に訊き忘れたんだけどさ、シゲシゲと千代子お祖母ちゃんが言ってた”結界”ってどういうことなの?」
「ああ、そのことだが――」
昨夜の非日常的な事件が脳裏に浮かぶ。
宝刀の手入れするシゲシゲと、縁側の物干し竿に洗濯物を干す千代子お祖母ちゃんを目で追う。
そこには俺が望んでいた日常があり、昨夜の出来事が無かったように平然と過ごす二人の姿があった。
宝刀を縁側に置き、こちらを振り返るシゲシゲが目に入る。
「千代ちゃんから口止めされた。柚子が十八歳を迎えるまでは教えてあげられない」
「そっか」
「なんだ。気にならないのか?」
「そりゃあ気になるよ。でも、説明されても理解できないし、訊いても無駄なら意味がないと思ってるから」
葉月兄が六時に目覚ましを設定したこと、志恩がエロ本を部屋に置いて行ったこと。
千代子お祖母ちゃんが若返ったことや、シゲシゲがピンク本に興味があること。
そんなことは、当人がそうしたいから、そうなったんだ。当人以外の人間が口を挟んだとして、理解できるのであろうか。その答えは明らかに”NO”であると思う。
不登校な俺が保健室に登校したのだって、同級生や家族から見てしまえば、おかしい行動だと思われるだろう。
学校に行きたくないなら、完全に家に閉じこもってればいいものの、俺はわざわざ保健室登校という学生生活を選んだ。
高校生活への憧れや期待。日常的な空間から非日常的な空間に淡い希望を抱いていたのかもしれない。
そんなことは、当人以外は知る余地もないのだ。
縁側に座ろうとした瞬間、シゲシゲは俺の動きに合わせて立ち上がった。
「柚子。このあと、トウモロコシ畑に向かおうと思うんだが、お前も来るか?」
「嫌だ。面倒くさい」
「そうか。今日の晩御飯は焼きトウモロコシだ。期待しておけ」
「はーい。あ、ちょっと待って」
畑仕事に向かおうとするシゲシゲを引き留める。
急いで厨房に向かい、冷蔵庫に手をかけた。
巨大な冷蔵庫の中には、熱中症対策の麦茶がポットに入っていた。
ポットを取り出し、厨房の棚から水筒を取り出す。
「シゲシゲ。もうちょっと待ってろよ」
畑仕事に慣れているシゲシゲとて、真夏の炎天下のなか、数時間も仕事をすることになれば、倒れるに違いない。
キンキンに冷えた麦茶を水筒に注ぎ込み終えた俺は、縁側に駆け込む。
だが、そこにはシゲシゲの代わりに、千代子お祖母ちゃんがいた。
あれだけ待ってろと言ったのに、シゲシゲは先に行ったようだ。
縁側に腰を下ろし、踏み石に置かれたサンダルを履く。
「あれ? シゲシゲは?」
「先に行っちゃったわよ。柚子葉も一緒に行くつもりなの?」
「うん。シゲシゲがぶっ倒れたら可哀そうだし、麦茶を渡しに行くだけだよ」
「分かったわ。私が渡しにいってくるから、柚子葉は屋敷で待ってなさい」
縁側に近づく千代子お祖母ちゃん。俺が持っていた水筒に手を伸ばしてきた。
俺は咄嗟に水筒を抱きかかえる。
「大丈夫だって。俺が行くから」
「駄目よ柚子葉。お祖母ちゃんの言う事を聞きなさい!」
庭園中に響くほど、大きな声で叫ばれた。
おそらく、昨夜の出来事で敏感になっているのかもしれない。そう思った俺は、千代子お祖母ちゃんを睨み返す。
「俺は今年で十七歳になるんだ。買い物だって一人でできるし、河口町にだって一人で来た。水筒ぐらい一人で渡せるよ!」
「柚子葉! 待ちなさい!」
千代子お祖母ちゃんの制止を振り切り、庭園を駆け抜けた。
シゲシゲは今年で八五歳。
元気ハツラツな、わんぱくお祖父ちゃんだ。
足も速ければ、重いはずのカゴでさえ軽々しく背負ってしまうだろう。
どこまで先に行かれたかは知らないが、遠くまで離れていないことを願うしかなかった。
「くそっ。間に合わなかったか」
庭園を抜けた先にあったのは、広大なトウモロコシ畑。
倉敷家の広大な敷地内の一角にあるトウモロコシ畑だった。
俺の身長よりも遥かに伸びきったトウモロコシ畑が目に入る。
一株一株が俺の身長を優に越しており、思わず圧倒された。
シゲシゲはこの中にいる。それは間違いない。
昨夜とは異なり、俺は鬼除けの護符を縫い付けたジャージを着ている。
それに、今は真っ昼間だ。
鬼なんか出るはずがない。そう思い、俺はトウモロコシ畑を進んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます