壱ー七


 露天風呂に肩まで浸かっていた志恩を横目で見る。

 そこには、俺の幽体化した裸の姿を直視できない志恩の姿があった。

 

「ったく、しょうがねえな」

「ほら、話の続きが聞きてえなら”幽体化”を解除してくることだ。じゃねえと俺は何も話してやんねえ」

「女子高生の裸一つで恥ずかしがるなんて、童貞かよ」

「うるせえぞ柚子葉! 俺は素人童貞だ! お前は女としての自覚が足りねえんだよ」


 志恩の言う通りなのかもしれない。

 俺は少しばかり女としての自覚が足りなかった。

 幽体化しているとは言えど、裸には変わらないんだ。

 でも、俺が裸で居たいのは志恩に女として見られたいからであって、こういう時以外の状況であれば、こんなに破廉恥なことはしない。


 仕方なく俺は、浮世離れした”幽体化”の能力を解除した。

 志恩の隣にいた幽体化した俺は、数メートル先に棒立ちしている自身の体へと戻る。

 

「これなら文句ないだろ」

「おいおい、ここは露天風呂なんだぞ。いつまで立ってるつもりなんだよ」


 再び志恩に文句を言われた。

 志恩がいる場所からなら、湯けむりが邪魔して俺の姿が見えないはずなのに。

 

「はいはい、分かりました!」

「ったく、十六歳のガキが大人みてえな真似をすんじゃねえよ!」


 露天風呂の中央に置かれた岩へともたれ掛かったらしく、志恩の声はさっきよりも近くから聞こえた。


 俺は股を隠していた風呂桶を露天風呂の湯に浮かべ、肩までお湯に浸かった。

 

「なあ志恩。そっちに行っていいか?」

「ああ勿論ダメだ。十六歳の裸なんて見たくねえからな」


 岩を挟んで露天風呂に浸かる俺と志恩。

 

 ていうか、さっきから十六歳、十六歳って。志恩の奴、気にしすぎだろ。

 

「なんつったんだよ? 聞こえねえからそっちに行くからな!」

「クソっ垂れ。勝手にしやがれ」


 言質は取れた。ちゃーんと了承は得たもんね。


 露天風呂の中央に置かれた岩を沿うように進む。

 湯けむりに混ざって志恩の姿が見えた。

 

 どうやら、俺の猛アピールに観念した志恩は、仕方なく俺を受け入れてくれたようだ。


 プカプカと浮かぶ風呂桶を先導にして近づき、漂っていた湯けむりを手で払い、志恩の隣へと腰を下ろした。

 

「なあ志恩。お前、今年で三十八歳になるんだろ。どうして女子高生に興味がねえんだよ」


 溜息をつきながら、志恩の脇腹に腕をくっつける。

 それでも志恩は無言のままだった。


 確かに今の俺は十六歳。

 けれども今年の九月の誕生日、晴れて十七歳を迎える。

 

 不登校と保健室登校で、精神的には幼いままであろう。

 だとしても、肉体的には立派に成長してるはずなんだ。


 そんなに。そんなに無視しなくてもいいじゃん。


 たとえロリコンでなくとも、志恩は三十七歳の成人男性だ。

 否、もう数年で初老を迎えるはずの男から見てしまえば、女子高生の裸なんて、貴重で珍しく、滅多に拝めない神秘な存在である。


 そこで俺は疑問を抱いた。

 信じたくはないけど、志恩は女に興味がないのかな。と。


 志恩は一向に俺の方を振り向こうとしなかった。

 それどころか、志恩は両腕を大きく広げて岩に乗せ、顔面を手拭いで覆い、夜空の方へと顔を上げていた。


 相手にされていない。

 いや、それどころか女としても見られていない。


 十年経った今でも、俺の事を七歳のガキだとしか思っていないんだ。そう感じざるを得なかった。


 志恩の体にくっつけた腕を足の上に戻す。

 

 俺は気付かれないように志恩を横目で見た。

 

「分かったよ。変なことはしねえから、志恩が居た平安時代のことを聞かせろよ」

「ああ、やっとか。それじゃあ、どこから話してやろうかな」


 顔を手拭いで覆っていた志恩は、首に手拭いを掛けた。

 そして、俺の前から消えた十年間。

 葉月兄と過ごした十年間。

 平安時代で過ごした十年間を語ってくれた。

 

「柚子葉、結論から言ってやるよ。お前の霊魂は取り戻せそうにない」

「ふーん」

「分かっているだろうが、お前の霊魂は鬼童丸に奪われたままだ」

「その話は縁側で聞いたよ。俺が訊きたいのは、志恩が過ごした葉月兄との時間だよ」


 志恩に俺の体の魅力は通じない。

 だから、俺はさらしていた上半身をお湯の中にひっこめた。


 志恩はそんな事にも目もくれず、話をつづけた。

 

「”桑都”っていう都はな、千二百年前の八童子市の一画がそう呼ばれていたんだ」

「うん。歴史の授業で習ったから、それぐらいは知ってる」


 千二百年前、俺たちが今いる八童子市には、八つの都が存在していたという。

 その都の一画である”桑都”という都が、今の河口町の原型になったといわれている。


 東京の郊外にありながら、独自の文明を開化させた八つの都。

 山々に囲まれた八つの都は、花の都として賑やかだったらしい。


 志恩が話を始めた途端、露天風呂に漂っていた湯けむりが、徐々に消えていき始めた。

 

「八尾山の薬王院があるだろ? その参道に”蛸杉”っていう杉の木があるのは覚えているか?」

「忘れてないよ。それに俺、毎年薬王院で鬼除けの護符を貰いに行ってるから」


 八尾山の薬王院に通じる参道。

 

 俺が忘れるわけがない。

 十年前、あそこで鬼童丸に霊魂を奪われたんだから。


 志恩は安堵の息のようなものを漏らした。

 

「そいつあ、いい選択だ。茂爺さんに任せて良かった」

「それで、蛸杉がどうしたっていうんだよ」


 彼は掛けていたサングラスを外し、おでこに掛ける。

 それから、俺の目を見つめた。じっと見つめる。真剣な眼差しで。

 

「あの蛸杉の樹齢は四百年ほどと言われているが、それは知っているか?」

「それも家庭教師に教わった。室町時代からあるらしいし、かなり年寄りだよね」

「柚子葉。その歴史はデマだ。あの蛸杉は千年以上、あるいは二千年は生きてるかもしれねえ」

「は?」


 志恩にデマだと言われ、俺は戸惑った。

 こちらを凝視する志恩を睨み返す。それでも志恩は視線をそらさなかった。

 

 俺は保健室登校だし、数年以上も引きこもり生活をしていた。

 だけど、家庭教師のおかげで、そんなに頭は悪くなかった方だ。


 日本全体の歴史についての知識は、高校生はおろか、中学生や小学生よりも劣っているかもしれない。

 それでも、八童子市の歴史については、同年代の高校生よりも知見を広げていた方だった。

 

 知っていて当たり前だ。

 志恩や葉月兄が消えてからの十年間。

 志恩と葉月兄を取り戻す為に、小さな情報でも貪り続けたんだから。


 だけど、志恩は「お前の知らない桑都の歴史は、お前が知っている桑都の歴史より腐ってやがる」と言った。


 志恩が言うには、八尾山にある蛸杉には、妖怪の怨念が封印されているらしい。

 それも一つや二つではない。何十体、何百体。何千体もの妖怪の怨念だという。

 

 平安時代の八童子に居た陰陽師達は、都に出回る妖怪たちを祓う。

 祓われた妖怪は、自然に消えていく。教科書や歴史の資料でしか知らない俺は、そう思っていた。


 だけど、志恩は「ゲームのやりすぎ」だと、俺の頭を叩きながら言った。


 叩かれたのに反応して、咄嗟に俺は立ち上がった。


 志恩が女には興味がないと分かっていても、立ち上がらずにはいられなかった。


 志恩の視線が全身に注がれるのが分かった。

 肩まで伸びた金髪から首元へと、首元から胸を辿って腰回りへと彼の目が追っていく感覚。


 それらに浴びせられる視線に気づいた俺は、自身が抱いていた疑問が偽りの物だったと理解した。

 

「おい志恩。叩いていいのか?」

「待て柚子葉。俺が悪かった。だから……」


 志恩になら幾らでも見せられる。

 女子高生の体なんだ。それに、新鮮な十六歳。

 ただの十六歳じゃない。


 金髪の美少女。十六歳の美少女。

 女子高生。JK。金髪ギャル。


 などなど、言い方は色々あるが、神秘的で高貴な存在であるのには間違いない。


 志恩から見てしまえば、二十以上も歳が離れたクソガキだとしか思われないだろう。

 

 だが、俺の体は女であるのには変わりないはずだ。そう思いながら立ち上がった。

 勿論、志恩の真横でだ。

 

「こっちを見ろ。こっちを見ろ。こっちを……」

「分かった分かった! 俺が悪かった!」


 微かに頬を赤く染めた志恩の姿が目に入る。

 そんな彼を見て、俺は急に恥ずかしくなった。


 頬が熱くなっていく。

 恥ずかしさに耐えきれず、再び俺は肩までお湯に浸かった。

 

「妖怪や亡霊を供養するために、蛸杉の力を借りたんだ」

「まあな。だから、蛸杉の霊力に妖怪たちが引き寄せられる」


 手拭いで顔を覆っていた志恩は話を続けた。

 

「あの蛸杉は本来、時間を遡るための道具じゃねえ」

「時を超えるかー」


 蛸杉には大きな穴のようなものがある。何千年という成長の過程でできた穴だ。

 

 陰陽師達は亡骸を供養するため、八尾山に存在していた蛸杉の力を借りたらしい。

 邪を祓うという蛸杉は、今でいう廃棄物処理場という役割を担っていた。

 祓った妖怪や死んだ者の魂を穴に入れることで、魂を別次元に転移させ、年月を経て供養する能力があったという。

 

 俺が知りえた八童子市の歴史では、蛸杉が参道を動き回ったという逸話だけが残っている。

 意思が存在する杉の木。樹齢四百年の杉の木、という事だけしか知らなかった。

 

 プカプカと浮かぶ風呂桶を抱きかかえて、志恩を横目で見る。

 そこには頭を抱える彼の姿があった。

 

「あの蛸杉がそんな生き物だったなんて知らなかった」

「知らなくても仕方がねえよ。千二百年もあれば、歴史は幾らでも改ざんされるからな」


 歴史の改ざんなんて、どうでもいい。

 平安時代の八童子に妖怪が居たなんて、どうでもいい。

 蛸杉が現代と平安時代を繋ぐ存在だなんて、どうでもいい。

 

 どうでも良くない話、俺が訊きたかった話は、そんな事じゃなかった。


 志恩が顔を覆っていた手拭いをはぎ取り、立ち上がった俺は、真剣な眼差しで彼の瞳を睨みつけた。

 

「それでさ、葉月兄さんは何で平安時代に取り残されたままなの?」

「…………」


 裸を見られようが構わない。黙っている志恩を睨み続けた。

 

 遠くを見るような眼差しの彼の瞳が目に入った。

 そして志恩は一言だけ「分からねえ」と呟いた。


 志恩の声が震えているように感じた。

 だけど、志恩が嘘を言うわけがない。と俺は思った。


 彼の言葉が、俺の頭の中をグルグルと駆け回る。

 

 分からない? 分からないってどういう事なんだろう。

 生きているのが分からないってこと?

 それとも、死んでるのか分からないってこと?


 行方が分からないってこと? 何が分からないのか分からない。


 頭がクラクラする。呼吸が早くなり、胸が苦しくなっていく。

 それは、露天風呂に長時間いるから起こった事じゃない。

 それだけはハッキリと分かった。


 俺は立ち上がり、志恩の大きな肩を揺らして叫んだ。

 

「意味が分かんねえ! 分からねえってどういうことだよ!」

「すまねえ柚子葉。だが、アイツは”生きてる”って事だけは言える」


 握っていた手拭いを奪い返した志恩は、再び手拭いで顔を覆った。

 その時。志恩の瞳が、許しを請う人間がする瞳へと変わったのが見えた。

 

 かすみがかった空気が喉を通じて肺に入る。


 唇へと滴る液体が汗であることを願った。

 けれども、水面に映った俺の顔には、線を引くように一本の涙が流れていた。


 葉月兄が生きているのは分かった。

 志恩が言うんだから間違いない。


 奪い取られた手拭いを奪い返し、俺は露天風呂から上がって脱衣所へと進んだ。

 

「俺、先に寝るわ」

「ったく、その手拭いは俺のだぞ!」


 小さく呟いた俺の声に対して、志恩の声は露天風呂に響き渡るほど大きかった。


――


 時刻は深夜一時。

 葉月兄の勉強机に置かれた置時計は、今が深夜であることを表していた。

 

 露天風呂からあがって一時間弱の時間が経過。

 真っ暗な葉月の部屋には、チクタクという音を刻む時計の音と、扇風機の羽が回る音だけが流れている。

「眠れない」


 溜息とともに呟いた俺の言葉は、部屋に置かれた扇風機の風音によってかき消された。


 俺はあれから何度も考えた。

 八尾山に存在する蛸杉には、妖怪の怨念が宿っていること。

 年月を経ることで、妖怪の魂を浄化すること。

 そして、蛸杉が平安時代に繋がる時を超える杉の木だということ。


 それらは志恩から聞いた現実であり、過去から戻ってきた志恩という存在が実在する限り、真実であること。


 今の段階では、志恩の話を信じるしかなかった。

 十年前に姿を消した志恩が戻ってきた以上、志恩の言葉を信用するしかない。そう思い、俺は敷布団から起き上がった。

 

「色々考えてもしょうがない。分からないことがあれば、確かめればいい。理解できないものがあれば、歩み寄ればいい。疑問に思うことがあれば、確証に変わるまで突き進めたらいいんだ」


 敷布団の上に立ち上がり、俺は豪快に葉月の部屋から飛び出した。

 急な階段を駆け下り、廊下を駆け抜け、目的地まで一直線に走り続けた。


 目的地の部屋までもう少しのところで、部屋から飛び出してきた何者かとぶつかった。

 勢いよくぶつかったせいなのか、俺は尻もちをついた。

 

「おい! 夜中なんだから興奮すんなよ!」


 声の方へと視線を上げる。

 そこには、甚平に身を包んでいる志恩の姿があり、俺に手を差し伸べていた。

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