第38話 烽火(のろし)をあげる

 翌朝目覚めると、カーキ色の布張り天井が目に入った。

 ぱらぱらと、天幕を叩く小さな音がする。

 雨が降っているのか。

 ぼんやり考えていると、すぐ間近に人の気配。


「ひゃっ」

 

 あられもない声をあげてしまった。


「おはよう、パウラ」


 淡い緑の瞳が至近距離にある。

 寝起きのかすれた声が、いつにもまして艶っぽい。


「よく眠れた?」


 シャツの胸元がはだけて、褐色の肌がのぞいている。

 パウラはたまらず目を逸らす。


「つれないな。

昨夜、僕あんなに一生懸命くどいたのに」


 昨夜のことは、とびとびにしか覚えていない。

 なにしろ一気に、膨大な量の情報を流されたのだ。

 しかもそれらはかなり衝撃的な内容で、パウラの頭はハングアップしてしまった。


「ごめんなさい。

わたくし、昨夜のことはよく覚えていませんの」


 正直に打ち明けると、シモンはため息をついて首を振る。


「仕方ないね。

じゃあ肝心なとこだけ、もう一度言うよ」


 横たわったままのパウラを、シモンは抱き寄せる。


「愛しているよ、パウラ。

君を悲しませるものは、全部僕が取り除くから」


 いや、そこは覚えていますと、パウラの頬に血が上る。

 そこに至るまでのもろもろの情報が衝撃的過ぎて、記憶の整理がつかないだけで。


「あ……の、やっぱりおぼえてたみたいですわ。

だから……放して」


 腕をつっぱって、褐色の胸を遠ざけようとすると、さらに強い力で抱き寄せられる。


「だめ。

おぼえていないなんて言ったパウラが悪い。

僕、傷ついたよ」


 しょんぼり悲し気な声に不似合いの、美しい笑顔が怖い。

 薄い唇の端が片方だけ上げられて、淡い緑の瞳はまっすぐにパウラの瞳を覗き込む。


「ね、しちゃおうか?」


 え?

 さすがに「何を」とは聞かずともわかる。


「今の水竜には、もう話を通してあるんだよ。

遡った時、すぐに話したから。

喜んで協力するってさ」


 さすがにシモンは仕事が速い。

 段取り8分の仕事2分。

 前世にも感じていたことだが、シモンは切れ者だとあらためて思う。

 きわどい質問をされている最中だというのに、妙に感心してその顔を眺めてしまう。


「だからね、パウラは安心して僕のものになって?」


 ボンっ!

 煙が出そうだ。

 一気に頭に血が上り、熱をもって爆発する。


「あ……、いきなり……」


 意味をなさない言葉しか出てこない。

 狼狽するとは、こういうことかとパウラは実感する。


「もう朝……ですわ。

そういうことは……朝からするものではありませんでしょう?」


 苦し紛れではあったが、淑女としてはしごくもっともで、まともな答えだろう。

 雨のせいで薄暗くはあるけれど、もう朝には違いない。

 前世、今生通して初めての体験が、朝というのには抵抗がある。

 というよりその前提としての、パウラ自身の気持ちの整理がまだついていない。


「あの……シモン。

わたくしまだ、あなたのことを……」


 言いかけた言葉ごと、パウラの唇が塞がれる。

 あたたかく柔らかい感触が、遅れてやってくる。

 ふにゃりと、身体の芯が溶けてゆくようだ。

 力の抜けた身体は、自分のものとは思えない。


 これが噂に聞くキスというものか。

 他人の経験を聞くばかりで、パウラにはまったく縁のないものだったが、確かに悪くない。

 それどころか、かなり良い。

 ブランデー入りの温かい紅茶を飲んでいるみたいな感じ。

 温かく、優しく、ほんのり良い香りがして、酔うようで。


「パウラ、その顔は反則だよ」


 ほんのわずかの間、唇が離されて至近距離で淡い緑の瞳が困ったように笑っている。


「押し倒そうとしてるんだよ?

 わかってる?

 僕、すっごく悪いことしてるみたいな気になるじゃない」


 ふぅと息をひとつついて、シモンは目を閉じた。


「ねぇパウラ。

 今の状況、わかってる?

 君、僕と一晩ひとばん、こんな狭いテントで過ごしたんだよ?

 昨夜我慢してあげただけでも、僕、すっごくほめられていいと思うんだけど」


 再び開かれた淡い緑の瞳は、ほんの少しの苛立ちをのせて、パウラを追い詰めてくる。


「余裕がなくて、僕、今とってもカッコ悪いのはわかってるよ。

 だけど、ごめん、パウラ。

 もう、待ってあげられない」


 再び重ねられた唇は、シモンの言葉どおり余裕のない、まるで暴風雨のように激しく荒々しいもので、その熱量にパウラの意識はたちまちもってゆかれてしまう。

 ようやくぎりぎり保った正気をフル稼働させて、最後にパウラは拒むことをやめた。

 シモンの必死の告白が、その表情が、己の存在を望まれることはこんなにも嬉しいのだと、初めて教えてくれたから。

 黄金竜オーディの力を知ってなお、彼女を追いかけてくれた命がけの逆行を、その彼の感情を、なんと呼べば良いのか、パウラは知らない。

 けれどそれがなんという名であろうとも、パウラには初めて向けられた激しい感情で、それにこんなにも心が震えるのは確かなこと。

 

 それで良い。

 十分だ。


 そう思い至ると、身体から抗う力が抜けた。


「パウラ?」


 わずかに離された唇の間に、不安げなシモンの声が漏れる。


「せめて着替える間を……、いただけませんか?」


 昨夜はそのまま眠ってしまった。

 せめて下着は着替えておきたい。

 「初めて」に昨日の下着で臨むなど、あまりにも悲しい。

 

 ぷ……と、こらえきれぬ様子のシモンが噴き出して、この上もなく嬉しそうに、幸せそうに笑う。

 けれどそれも秒の速度で変化して、続く微笑はまさしくシモンらしい妖しく艶っぽい、恐ろしいもので。

 

「すぐに脱がせるんだから、いらないよね」


 だめだよと囁かれ、唇が三度重ねられ、抱きしめられる。

 そしてパウラの初めては、朝、新しいかわいらしい下着もなしに始まる。

 あふれるような愛情をただただ注がれ続け、溺れて、ついには意識が遠くなる。

 

 恋とか愛とか、知りたいと切望していたそのことを、何千年分まとめてパウラは知った。

 こんなにも幸せで、優しく甘やかな感情を呼び起こすものだったのだと。

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