第11話 パウラ、意識を飛ばされる
ヴァースキー城の敷地は、街1つ分より大きいかもしれない。
やたらに大きな建物に、だだっ広い庭園、対岸が霞む湖に、狩猟にでも使うのかという森となだらかな丘。
リューカスに描いてもらった地図なしでは、簡単に迷子になるのは間違いない。
そのどこにも手入れが行き届いて、清潔で整然としている。
自然に見えるように整えられた森の小路を、パウラは小さな歩幅で駆けている。
基礎体力作り用にと、師匠のナナミから贈られた「すにーかー」という運動靴に、「どーぎ」とかいう例の厚ぼったい木綿のローブ姿で。
祭典後、来賓客たちからのあれやこれやのお誘いを丁重に辞退して、ようやく自由の身になったのは、既に陽も傾きかけた頃だった。
朝こなすはずだったメニューを、なんとかこなしてしまわないと。
ナナミの圧のある黒い瞳を思いながら、まずは走り込みにかかる。
「ハラバイは諦めるとして、ウケミはやっとかないと。
ウチコミも」
城から森まで約2キロ。
いつも走る距離と同じだけれど、この姿で堂々と出て行くのはさすがに目立つ。
フロシキと、ナナミがそう呼ぶ90センチ四方の布に「どーぎ」を包んで、散歩に出かける風にさりげなく部屋を出た。
メイドのメイジーを森の入口で帰すと、手早く着替えてようやく稽古を始めたところである。
日暮れまでには戻らないと、騒ぎになってメイジーが困るだろう。
フルセットは無理でも、半分くらいはしておきたい。
ウチコミに必要な、手頃な太さの木を探す。
まだそれほど大きくはないブナを見つけると、ぎりりと木綿の帯を結びつける。
左手を引き付けて、
「いち!」
素早く身体を返して、右で背負う。
「に!」
いつもは100回だから、せめて50回。
陽がすっかり沈んでしまう前に。
昼間の祭事でのシモンについて、考える必要は理解していたが考えたくなかった。
6+数千年の経験値をもってしても、あの表情の真意がわからなかったからだ。
「君は僕の花嫁なんだから」
こちらは理解できなくもない。
祭事において、シモンは黄金竜オーディの、パウラはその妻オーディアナの役を担った。
役割にかけたイタズラな言葉だと。
多分そうだろう。
だがしかしだ。
あの表情で、あの声で、その言葉は反則だと思う。
「愛しい」を糖衣でくるんで、ミルクチョコレートでコーティングしたようなひたすらに甘く優しい微笑。
それにホイップクリームをのせたココアみたいな、これでもかとだだ甘い声をのせて。
ぼーっとしないでいられるものか。
前世の記憶があったからこそ、うっかり騙されそうになった自分を立て直すことができた。
もしまっさらの6歳のパウラであったなら。
考えるだけでぞっとする。
「シモンですのよ、あのシモン。
しっかりしなさい、パウラ・ヘルムダール!」
喝をいれて、左手を絞った。
素早く身体を返した、その瞬間。
「随分と、楽しそうなことをしてるね」
くっくっと愉快そうに笑う声に、どきりとした。
少しばかり離れた木の枝に、片膝を立てて見下ろす青銀の髪の少年がいる。
楽しそうに笑いをためた、淡い緑の瞳。
(ああ、やっぱり)
なんとなく、あの意味深な態度と言葉だけで終わるとは思っていなかった。
二の矢がきっと、飛んで来るに違いないとは。
それにしてもだ。
一人で考える暇もくれない。
怒涛のラッシュで押し寄せるのは、許してほしい。
「ごきげんよう、シモン様」
とりあえず腰を落として頭を下げた。
黙って見ていた無作法には、あえて触れない。
余計なことを言えば、意地悪口を誘うだけ。
その意地悪に最適解を返す自信は、まるでない。
しゅたりと、いかにも軽く降り立つ気配がする。
数メートル上の枝から降りて、揺らぎもしない。
さすがにシモンは、ただの聖使ではない。
前世のとおりであれば、彼は次代の水竜であったはず。
人の世に関わることのない4竜は、永遠に生きると思われがちだが生き物としての寿命は彼らにもある。
一万年の寿命がつきると、次の竜が立つ。
ほとんどの場合、その時の聖使が次となった。
そして少し先に来る「その時」の聖使は、シモンであったはず。
「かなり警戒されてるみたいだね。
まあ、無理もないか」
聞きとれないほど小さな声でつぶやいて、頭を下げたパウラの顔をのぞき込む。
「……ん!」
音にならない声を上げて、パウラは息を飲む。
ヴァースキー家の、しかも直系の、水竜の血を色濃く継いだ男の顔を、間近で見るものではない。
女より長いまつ毛に、細く通った鼻筋、薄く形の良い唇。
父テオドールを見慣れたパウラでさえ、心臓に悪い。
「ち、近いです。
シモン様」
赤くなる頬を隠すように顔を逸して、後に下がった。
ますます混乱する。
いったいどうした、シモン。
前世、意地悪こそ数え切れないほど言われたが、パウラに興味のある素振りなど、一度も見せなかったのに。
あ、もしかしたら幼女趣味か。
6歳のパウラだから、興味があるとか。
だとしたら、やっぱりアブナイ。
ただの根性悪の黒いヤツの方が、まだマシだ。
怪訝な、イヤなものを見るような視線を向ける。
「君は……。
ひどいね、僕をヘンタイ扱いするの?」
噴き出しながら笑い転げて、シモンはもう一度距離を詰める。
パウラの前で跪いて、右手をとった。
「君は、まあ、今は幼い…。
ということにしといてあげるよ」
淡い緑の瞳が、にやりと薄く笑った。
「だけどね。
次に会う時、僕は本気でいくよ?
忘れないでね、パウラ」
あー、わからない。
今シモンはどういうつもりで。
なんのもくてきで。
ほんきって、なに?
まさか前世の記憶があることをしっている?
超高速でぐるぐる回る思考に目が回り、回り、焼け切れて。
ブラックアウト。
パウラの意識はそこで途絶えた。
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