第91話 あの愚か者が
何を勝手なことをと、猛然と腹が立った。
おまえごとき?
パウラに言わせれば、
しかも「それは私のもの」だと、ヤツは言った。
何からなにまで腹が立つ。
ああ、悪態の1つや2つ、いやそれ以上の数、並べて叫んでやっても良いだろうか。
くわっ。
擬音をつければそんな感じで、パウラは空を睨みつける。
だいたいだ。
姿も見せずに声だけなどと、バカにしている。
そういえば前世の最期もそうだった。声だけで、姿は見せなかった。
どこまでもいけ好かない。こんな男が、名のみのとは言え、夫だったとは腹立たしい。
(せっかく良い雰囲気だったというのに、台無しね)
と胸の中で悪態をついて、はっとする。
あのままことが運んでいたら、生涯初めてのイベントになるはずだった。
今夜を逃せば、機会はない。
明日には、
だからパウラも覚悟していた。
いやしたはずだった。
パウラは自分が真面目過ぎることをよく知っていたが、今回ほどその真面目さ加減を嫌になったことはない。
実践試験地はとても貧しい辺境の地だと聞かされて、彼女は遠征に相応しい服装や携行品を用意した。
華美ではなく、できるだけ質素で実用的で、用意できるのなら古着などあればさらに良い。
と、教科書どおりの模範生らしい準備をしてきたために、新しい下着の一枚もない。
手縫いのレース、ヴェストリーで求めた下着のセットが、
ヘルムダールからこっそり持ち込んだそれは、パウラのオトメゴコロの象徴だった。
身に着ける予定はなかったけれど、それでも持っているだけで安心できた。
今こそ、あれが必要なのに。
(ああ、あれさえあれば少しは余裕を持てたでしょうに)
揺れ動くオトメゴコロを持て余す。
だからといって、
二度とあいつの思いどおりになどなるものか。
新しいレースの下着には目を
瞑りたくはないけど、あいつの言いなりの人生を強制されるよりははるかにマシだ。
「パウラ、どうやら声だけだ」
セスランの声に、はっとして辺りをうかがう。
なるほど。
「今なら跳べる」
転移門を使わない転移魔法は、高位の魔術師にのみ使える高度な魔法である。
4人の聖使は皆、この転移魔法を自在に使える。
「行くぞ」
手を握られて抱きかかえられる。
ふわりと薔薇の香りがして、目の前が真っ白い光に包まれた。
あまりの眩しさにぎゅっと目を閉じる。
目を開くと、見知らぬ景色が広がっていた。
高い山、それも険しい切り立った崖の目立つ山が連なっていくつも。
緑よりも茶の色の目立つ山、それに僅かばかりの平地がぽつぽつと。
「白虎の始祖の山だ」
パウラを大事そうに抱きかかえて、その背を幾度か撫でてくれる。
安心して良いのだと、翡翠の瞳が言っていた。
「セスラン、よう戻ったの」
水晶のように透明で硬質の声には、
けれど穏やかで優しく、温かかった。
白く癖のない髪は長く、すらりと背の高い青年の腰ほどまでを覆っている。
すっきりと整った中性的な美貌は、その透明な声とあいまって、目の前にいる彼が確かに白虎の始祖なのだと信じさせてくれる。
白いまつ毛を重そうに上下させて、サファイヤブルーの瞳が、セスランとパウラを等分に眺め、ゆったりと微笑んだ。
「でかしたと、そう言ってやらねばならぬようだ」
「ご恩情に心から感謝いたします」
既に膝を折り青年の前で頭を垂れているセスランが、短く答える。
「だが……」
一緒に跪いて頭を垂れているパウラに近づいて、下からのぞき込む。
「契約の楔は打たれていないような。
甲斐性のないことだな」
何を言われたのか、わからない。
隣のセスランを見ると、耳まで真っ赤になっている。
「さっさと済ませてしまうことだ。
それでそなたは
知っているのだろうと、青年は笑って続ける。
「ヘルムダールの、それも
次代の竜族の長が、白虎の血を継ぐ者とは、なんとめでたいことか」
二人の目の前の景色が変わる。
緞帳が上げられたように急に開けた視界に、水晶の床と天井が映る。
広間と言って良いその部屋の奥に、大きな天蓋付きの寝台がどんと据えられている。
「あの愚か者は、やり過ぎた。
銀狼も白虎も、こうして封印されてはいても滅ぼされたわけではない。
竜の長がその伴侶ともどもに、愚か者となり果てるなら、我らもこのまま黙って見てはおられぬよ」
黄金竜の唯一である竜后が、愚かであるという彼の言には、心から拍手を送りたい。
本来の竜后の仕事を側室たる聖女オーディアナに丸投げして、好き放題やっている人だ。
そんな身勝手な人を唯一と溺愛して、なによりも大切に最優先している夫も夫。
夫婦して愚か者以外の何ものでもない。
「ご厚情、まことにありがたく……」
セスランの口上を、首を振って始祖は遮る。
「これは我のためでもある。
そなたと姫が次代の竜を束ねれば、我の封印も解けようかと。
その思惑もある」
さっさと本懐をとげよと、笑って姿を消した。
水晶の間に残されたセスランとパウラは、頭を垂れた姿勢のまま固まっている。
少なくともパウラはそうだった。
「本懐をとげよ」と言われて、「はい、わかりました」とできるものか。
やはり始祖の感覚は、人とは違う。
「本懐か……。
言いえて妙だな」
けれどセスランは違うようで。
こぼした言葉には、しっとりと情感が込められている。
「始祖様の思惑がどうであれ、この瞬間を与えてくれた。
何を引き換えにしてもかまわぬ」
おそるおそる顔を上げると、跪いた姿勢はそのまま顔だけをこちらに向けたセスランの、翡翠の瞳に絡めとられる。
息をすることを、パウラは忘れた。
レースの新しい下着のことも頭から吹っ飛んで、ただじっとパウラをみつめる翡翠の瞳から目が離せない。
「本懐を遂げさせてもらう」
その声を、パウラはセスランの腕の中で聞いた。
これまでにない強い力で抱きしめてくる腕は、震えも迷いもない。
ふわりと、パウラの身体を抱き上げる。
僅かな振動で、セスランが移動しているのだとわかった。
大切にそっと下ろされたのは、真っ白いシーツの上で。
見開いたパウラの目の前には、優しさと愛しさと焦りとがないまぜになった翡翠の瞳があった。
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