第89話 拗らせた熱は怖い

 身体が小刻みに震えている。

 既に感覚のないはずの指先がやけに冷たくて、爪先まで震えが止まらない。

 セスランに預けていた右手が、ぎゅうと握りしめられる。

 温かい唇が落とされて、次の瞬間、抱き寄せられた。

 控えめな、けれど同時に華やかな薔薇の香りがパウラを包み、背中に回された腕の力が、どんどん強くなる。


「夢……か」


 耳元に掠れた声。

 夢ではないのかと、小さく続ける。

 ぎゅうと抱きしめる力はますます強くなり、パウラがこふっと咳き込んだ。


「すまぬ」


 慌てて腕の力を緩めるが、離してはくれない。


「まだ信じられぬ。

 これは現実なのか」


 翡翠の瞳が不安げに揺れる。

 確かめるように指を伸ばして、パウラの頬にそっと触れた。

 パウラと、名を呼ぶ声はあるかなきかの音量で。


「どうすれば良い?

 怖くてたまらぬ。

 目が覚めれば、パウラはいないのではないか」


 頬におかれた指の先から、セスランの震えが伝わってくる。

 ほっそりと長い、形の良い指の先は、氷のように冷たかった。


 夢かと疑う心地はパウラも同じ。

 セスランが自分を選んだ。前世からずっと、求めていたのはパウラなのだと。

 夢ではないか。夢なら覚めないでほしい。

 想いが凝って、言葉になった。


「でしたらこのまま、覚めずにおきましょう」


「それは良いな」


 ふっと息を漏らして、ようやくセスランが笑った。

 紅く長いまつ毛が上下して、翡翠の瞳から不安を拭い去る。

 頬にかかっていた指がパウラの顎を捉えて上向かせると、ふわりと柔らかくセスランは微笑んだ。

 そして唇を重ねる。

 そうっと優しく、気遣うような唇が、幾度も。

 蝶々のようにひらひらと軽い、触れるか触れぬかのあえかな口づけが、だんだんに少しづつ二人を現実に近づけてゆく。

 幾度目だろうか。

 唇の離れたわずかの間に、こくんとセスランの喉が鳴った。

 再び重なった唇は、最初から深く侵し入る。

 角度を変えて何度も何度も、息もできないほど深くて激しい。

 それでも嫌だとは、思わなかった。

 いつのまにか腕を伸ばして、セスランの首を抱きしめている。

 いっそ身体すべてが溶け合って、一緒になれれば良いのに。

 もどかしくてじれったくて、けれどそれを表現する術を知らなくて、パウラはセスランを抱きしめる。

 戻らねばならないことを、今だけは忘れていたかった。




「なぜ戻らねばならぬ。

 忌々しい」


 野営地に戻る道々、セスランは限りなく不機嫌だった。

 正試験官が、職場放棄するわけにもゆくまい。

 このあたり、謹厳なセスランはきっちりしている。

 が、念願かなってパウラと想いを通わせた後だ。離れがたいと思うのはもっともなのだろう。

 多分。


「白虎の姫も相手の男も、覚悟が足りぬ。

 連れ戻されるような不覚をとって、ゲルラの騎士が何をしているのか」


 今回の課題対象の二人にまで、とばっちりがゆく。

 そのふてくされた様子が意外でかわいらしくて、パウラは思わず笑ってしまう。


「余裕だな」


 セスランの美しい眉間に、くっきりとしわが刻まれている。


「私が身も世もなくパウラを求める姿が、さほどにおかしいか」


 今度はパウラにまで、とばっちりが来る。


「離れたくないのは、自分だけだとお思いなの?」


 パウラだって、帰りたくはない。

 けれど白虎と竜の争いのタネを、ほうっておくこともできないだろう。

 ヴェストリーへ逃がしてやる計画を、今なら聞いてもらえるかもしれない。

 持ちかけてみようと口を開きかけた時。


「もう一度、言ってはくれぬか」


 ぱぁっと辺り一帯に陽が射しこむような、喜色満面のセスランの表情かおが目の前にあった。

 翡翠の瞳が、パウラの唇を食い入るように見つめている。

 

「離れたくないのは、ご自分だけだとお思いですの。

 そう申し上げました」


 あらためて言い直すのは、とても照れくさい。

 ぷいっとそっぽを向いて乞われた言葉を口にすると、ぎゅうと抱きしめられた。


「ああ、なんと愛おしい。

 パウラは私の心臓をとめてしまうつもりなのか。

 やはり戻るなど、無理な相談だ」


 甘い艶のあるテノールが、めずらしく上ずっている。

 抱きしめられたパウラの耳に、セスランの鼓動が伝わってくる。

 どくどくと、とても速い。

 

 さすがにパウラにもわかる。

 このままなし崩しは、よろしくない。

 解決すべきトラブルを放っておくのは、あまりにも無責任だ。

 恋に浮かれて何もかもを放り出すのは、パウラの主義ではない。おそらくセスランも同じはず。


「なすべきことが、わたくしたちにはありますわ。

 乗りかかった船と申しますでしょ。

 一度やりますと受けたのですから、途中で放り出すのは良くありません」


 セスランの腕を押しやって、翡翠の瞳をしかと見上げる。

 白虎の姫とゲルラの騎士と、なんとかして二人の希望どおり添わせてやりたい。

 その手助けができるのは、パウラとセスランだけなのだ。

 

「君は全く……。

 パウラは私も男なのだと、わかっていないようだ。

 情け知らずの、つれない姫だな」


 燃えるような紅い頭を緩やかに振って、セスランはしぶしぶ腕の拘束を解いてくれた。


「なすべきことが終わったら、その時は。

 褒美を期待しても良いのだろうな」


 深く濃い翡翠の瞳に、灼熱のプロミネンスが揺れていた。

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