第87話 エリーヌのアドバンテージ

 高く険しい山は、万年雪の帽子を被っている。そこから吹く風は季節を問わず冷たくて、作物の生育に影響している。

 小麦やコメのような穀類はまず無理で、環境に影響されない強い雑穀のみがわずかに育ってくれる。

 それだけでは一年分の必要量に届くはずもなく、補うための芋や豆の畑もあちこちにあるが、採れる芋や豆は痩せて小さなものばかりで、すべて足しても到底足りない。

 いつもいつも食糧は不足していて、そこに暮らす人々を悩ませる。

 辺境とはそんなところだった。


 白虎の里から少し離れた地に野営すると、セスランが指示を出した。

 前世の記憶のとおりだ。

 警戒心の強い白虎族に、いきなり近づくのは良くないとセスランは説明してくれた。


「今夜はここで野営する。

 もうここは白虎族の土地だ。

 そのつもりで、気を抜かぬように」


 ピンと張りつめた声が、ここは既に安全ではないのだと教えてくれる。

 おそらく白虎族の偵察隊が、あちこちに潜んでこちらをうかがっているはずだ。


「ごはんの準備、わたししますね!」


 予想どおり、エリーヌが良いところを見せようとする。


「白虎の人にも出してあげられるように、たくさん持ってきたんですよ」


 なるほど。

 エリーヌなりに、少しは学習したらしい。

 白虎族に気遣いを見せるとは。

 そして取り出したのは、オートミールの箱。


「これでお粥、作りますね」


 エリーヌの行動が、前とは違う。

 こんなまずいもの、誰が食べるのかなどと言っていたお粥を作る?

 パウラと同じ驚きが、セスランにもあるらしい。

 翡翠の瞳が、わずかに見開かれている。


「あんまり作ったことないから、練習してきちゃいました。

 きっとおいしく作りますね」


 パウラはナナミから聞いた「乙女ゲーム」という言葉を思い出す。

 この世界はナナミの世界にあった「乙女ゲーム」とやらいう演劇のようなものに、とてもよく似ているのだと。

 そしてエリーヌ・ペローは、そのヒロインだ。

 おそらくエリーヌは、ナナミと同じ世界からやってきた。乙女ゲームの記憶を持ったまま。

 だからセスランが望む行動を、あらかじめ予想できる。そしてそれは臨機応変に何通りかあるらしい。

 前世のエリーヌとは違う行動をとる理由がこれなら、かなり厄介だ。

 けれどパウラにも、前世の記憶がある。

 双方ともに記憶持ちであるのなら、ここから先は頭脳戦になる。

 どちらが出し抜けるか、その勝負だ。

 とりあえず夕食の準備でエリーヌがしくじることはなさそうだから、でしゃばるのはよろしくない。

 ここは退いて、様子をみることにしよう。

 

「わたくしもお手伝いしますわ」


「あ、良いよ。

 パウラみたいなお嬢様には、お料理なんて無理でしょ?」


 エリーヌの笑顔には、わかりやすく険がある。

 こういうところが修行不足なのだが、それはパウラにとってありがたいことだ。

 性格まで良くなられたら、エリーヌのセスラン攻略が前世より簡単になってしまう。

 ぜひこのまま根性悪でいていただかなくては。


「そう。では、お願いいたしますわ」

 

 あっさり退いたパウラに、エリーヌは拍子抜けしたような表情をしている。

 ここで彼女との舌戦にのってやるなど、愚策も良いところだ。エリーヌに異世界の記憶があるのは確かのようだが、あまり上品な性質の前世ではなかったのだろう。選ぶ言葉、しかけてくる挑発は、こちらの女性の集まりでも時々目にする低俗なものがほとんどだ。ああいう手合いには、冷ややかな無反応が一番だとパウラは知っている。

 けれど、1つ困ったことがある。

 この後、パウラにはセスランとの憩いの時間があるはずだったが、それはパウラが茅の実でお粥を作ることが前提である。それをエリーヌにとられたとなれば、その未来がなくなったのでは。

 

「パウラ、辺りを見回りに行く。

 一緒にどうだ?」


 甘やかなテノールがごく間近で響く。

 びくりと肩を震わせて見上げると、声に似合いの極上の微笑があった。


「どうした?」


「は……い。お伴いたします」


 手を差し伸べられる。

 まるで舞踏会へ出かけるようだ。

 寂しい枯草色の風景が、まばゆいシャンデリアの煌めく広間に変わるような完璧なエスコート。

 思わずパウラは微笑んだ。

 なんともセスランらしいと思ったから。

 完璧な礼法に従った所作と会話、やや堅苦しい印象はあるものの、優雅な物腰とそれに極上の美貌。

 燃えるような紅い髪、深い翡翠の色の瞳、すうっと高くとおった鼻梁は弦無し眼鏡がしっかり止まりそうだ。

 大きく、けれど薄く形の良い唇は艶やかで、透明感のある白い肌によく映えている。

 貴公子中の貴公子と、パウラはそう思っている。


「あー-----!

 あつっ!!!

 火傷しちゃいました~~!!」


 お粥を作ると張り切っていたはずのエリーヌが、大きな声をあげて蹲っていた。

 仮病……ではない。嘘のケガはなんというのだろう。

 パウラとセスランが出かけそうな様子に、とっさにケガを演じたのだろうと楽に察せられる。

 正試験官の立場上、セスランは放っておけないだろう。


「アルヴィド、頼む。

 、手当を」


 ところが振り向きもせず、セスランは言った。

 

「仮にも聖女オーディアナ候補だ。

 治癒魔法は習得しているだろう」


 副試験官のアルヴィドが、わかったと頷いてエリーヌの傍に寄る。

 パウラはただ驚いていた。

 どうして、どうしてこんなに冷たい。

 嘘の火傷であったとしても、あまりにも露骨に嫌悪をしめし過ぎではないか。


「必要以上に関わりたくはない」


 天幕から30分ばかり歩いたところで、セスランが苦笑して言った。


「あれは私のことを、なぜだかよく知っている。

 私の出自、心の闇。

 傍に寄れば、知らぬ間に耳に毒を注がれるようだ」


 セスランも気づいていたのか。

 話してもいない自身のことを、知りすぎているエリーヌの不思議な行動について。

 パウラにしたところで、ナナミから教わっていなければ信じられなかったと思う。

 セスランにそれを言うべきか。もし言ったとして、信じてもらえるだろうか。

 

「だから私は、あの夜、己の弱さに負けた。

 パウラ、君を望む資格など自分にはない。

そう絶望した末のことだ」

 

 痛みと哀しみ、それに悔いと。

 セスランの暗く沈んだ声には、ごちゃまぜになった感情があった。

 あの夜とは、まさか前世のあの夜のことか。

 エリーヌとセスランがそうなった、あの運命の夜。


「言い訳をさせてほしい。

 パウラ、私がそう言えば、君は許してくれるだろうか」


 許してほしい。

 パウラの前に跪く。

 見上げた翡翠の瞳が、パウラの答えを乞うように揺れていた。

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