第90話 夢と現実と

「白虎の姫君、お加減はいかがですか」


 白虎の姫は前世の記憶のとおり、はかなげな美少女だった。

 白い髪、サファイヤブルーの瞳、折れそうなほど細い肢体。

 それが食事も水も摂らずに、何日も寝込んだままだという。

 ゲルラの港で捕らえられて以降、恋人の騎士にも会えていない。


「あのね、わたくし、もしあなたが望むのならゲルラの騎士と会わせて差し上げてもと思っているの」


 パウラの言葉に、姫はぴくりと肩を揺らした。


「あ……会わせてくださいますの?」


 ぼんやりと宙を見つめるだけだった瞳が、ぴたりとパウラにあてられる。

 パウラの言葉の真偽を糺すつもりか、瞬きもしない。


「ええ、貴女がお望みになるのなら」


 目をそらさず、はっきりと頷く。

 数秒の間の後、姫はゆるゆると首を振った。


「いいえ、望みません」


 えっと、出そうになる声をパウラは飲み込んだ。

 異種族の、しかも身分違いの男と、駆け落ちまでして一緒に生きたかったのではないのか。

 

「あの……、姫君は食事も水も口にしないと聞いておりますわ。

 あの騎士のためではないのですか」


 会いたくないのなら、なぜそこまでする必要がある。会えないのなら、生きていても仕方ないと思うほど好きだからではないのか。

 予想もしていなかった女の答えに、パウラの貧弱な恋愛回路はループを始める。


「良い。

 それならこの件は解決だ。

 我らがこれ以上、口出しすべきではない」


 シュルっと乾いた衣擦れの音がして、セスランが立ち上がる。

 事務的な感情のない声が、これ以上の問答は無駄だと決めた。


「我らは戻る。

 白虎の国王には、姫の申しようをそのまま伝えるが、それで構わぬな」


 これにはパウラが慌てた。

 ちょっと待ってと、セスランのトーガの袖口をそっと押さえる。


「姫君のご事情を、もう少しうかがってからにしては?

 ここまで参りましたのも、なにかのご縁ですわ。

 ね?」


 パウラのお願いにはセスランも弱い。不承不承ではあるが、もう一度椅子に掛け直してくれた。


「姫君、本当に会わなくてもよろしいのですか?

 わたくし、姫君がお望みになるのなら、ヴェストリー行きのお手伝いもするつもりですのよ」


 できるだけ優しく、パウラは話しかける。

 白虎の一族だからとか、平民だからとか、そんな本人の責任でないことで未来が決まるなんて。

 前世のパウラを見るようで、できるなら助けてあげたいと思ってしまう。


「感謝いたします、竜の姫君。

 でも本当に良いのです。

 わたくしは……、あの方に捨てられたのですから」


 横たわったままの白虎の姫は、弱々しいけれどはっきりした口調で言い切った。

 サファイヤの瞳には、あきらめの苦笑がある。


「一族の者に聞きました。

 港にいるから迎えにきてほしいと、あの方から連絡があったのだと。

 最初はわたくしも信じられませんでした。

 けれどあの方は、あの後上官の薦めるお相手と一緒になったのだそうです。

 兄が直々に、あの方のお式を見に行ってくれましたから、間違いないのです」


 一緒に駆け落ちしようとまでした相手を、そう簡単に捨てられるのだろうか。

 パウラにはまだ信じられない。

 一族が彼女をあきらめさせようと、嘘を言っているのではと疑ってしまう。


「無理があったのだと、あの方は港でおっしゃいました。

 王族のわたくしと平民の自分との間には、越えられない高い壁があるのだと。

 そんなことはないと、わたくしは必死で説得しましたわ。

 けれどあの方は、悲し気に首を振るばかりでした。

 あの時から、こうなることは覚悟しておりました」


 きっと彼女は何もかも捨てるつもりだったはずだ。

 ただ一つと思い決めた恋を失って、生きる甲斐を失くした。だから食べないし、飲まない。

 この世に未練がないのだろう。

 セスランと想いの通じた今なら、パウラにもわかる気がする。

 

「言いたくないことをごめんなさい」


 頭を下げると、姫はまた首を振って笑ってくれた。


「わたくしの責任ですわ。

 あの方を好きになったのは、わたくしですもの」


「ゲルラの騎士も地に落ちたものだ。

 唯一を間違えるとは、竜の風上にもおけぬ」


 突き放した言い様だったが、セスランなりに慰めているらしい。

 けれどそれを言うなら、セスランだって間違えたではないかと言いたいが、そこは黙っていることにする。

 間違えてもやり直せば良い。

 心から望むなら、きっとその機会はやってくる。気づくか気づかぬか、それだけだ。





 降るような星空の下、竜の里を出る。

 ひゅるりと吹き抜ける夜風が、首筋に冷たい。

 ふるっと首をすくめると、セスランが毛織の外套を脱いで着せかけてくれる。


「風邪をひく」


 たったそれだけの短い言葉に、艶やかな甘さを感じて赤くなる。

 これが俗に言う「惚れた弱み」というものか。


「あ……ありがとう、セスラン」


 恥ずかしくて顔を上げられず、うつむいたまま答えると、セスランの笑った気配があった。

 それきり二人は黙り込んで、並んで歩いた。

 時々空を見上げて足を止める。

 ほう……と息を吐けば、白い靄のような塊が冷たい空気に溶けてゆく。


 課題は片付いた。

 明日には黄金竜の泉地へ帰る。

 満天の星を見上げて、パウラは思う。

 

 機会は、今夜限りだ。


 それはセスランも同じ思いだったようで。

 

「褒美を強請っても許されるな。

 もう待たぬ。

 待ってはやれない」


 いつもは甘いテノールが、今夜はひどく掠れている。

 切羽詰まって余裕のない、まるでわずかの間も惜しんでいるような。

 わかったと差し出した手が、空を切る。


 ぱりん……。


 薄氷が割れるような音がして。


「半竜の身が。

 何を血迷った」


 辺りに響く透明感のある美しい声には、嘲りと怒りが半ばしていた。


「それは私のものだよ。

 セスラン、おまえごときの手にする相手ではない」


 それは前世の最期に聞いた、黄金竜オーディの声だった。

 

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