第52話 ヘルムダールの血
「そんなに緊張しなくてもいい。
パウラ、おおよその話はナナミから聞いているからね」
母はゆったりと微笑んでくれた。
「聖女オーディアナ試験に候補が二人。
変だとは私も思っていたからね。
人生をやり直してでもと、思いつめたんだってね。
親として申し訳ない。
不甲斐ない母で、本当にすまなかったね」
伏せた銀色のまつ毛が震えている。
その下にのぞくエメラルドの瞳は、いつになく悲し気で慈しみに満ちている。
母アデラが愛娘パウラにだけ見せる表情で、こんな時なのに嬉しくて心がほんわり温かい。
けれどこれから話す内容を思えば、そんな感傷に浸っている場合ではない。
気を取り直して、再び口を開く。
「いいえ、お母さまは十分すぎるほどにしてくださっていますわ。
わたくしの方こそ、親不孝のお詫びをしなくてはなりません」
「親不孝などと、思わなくていい。
パウラがなりたくないのなら、そんなもの蹴ってしまえば良いんだから」
少しの迷いもなく、母はすっぱりと斬って捨てた。
そんなもの。
聖女オーディアナ、黄金竜オーディの妃の位は、ヘルムダールにとっては重い意味のあるものだろうに。
「ありがとうございます。
でしたらどうぞ私の籍を、ヘルムダールから抜いてください」
それが今のパウラにできる、最大限の孝行だと思ったから。
これには母の隣で黙っていた父が、たまらずといった様子で声をあげた。
「あー、バカなことを。
どうして私たちがパウラと縁を切らないといけないのかな?
そもそも妾の選抜試験などと、どの口が言うんだろう。
仮にも竜の長が」
地鳴りのように低い声は、最大級に怒った父のそれだ。
海のように青い瞳が、今は赤く変わっている。
「ヘルムダールが代々してきたことだからと、これまで私は黙っていたけれど。
こうなってしまったら、私も黙ってはいられない。
北のヴォーロフは、昔から黄金竜を嫌っている。この際、手を組むのも悪くないね」
青銀の髪に褐色の肌、女性よりも繊細な美貌の父が、凄艶に微笑んでいる。
「気の短いことだ」
銀糸の髪をさらりとかき上げて、母アデラは苦笑した。
けれど思いは父と同じようで。
「除籍はしないよ」
当然だと首を振る。
「今の聖女オーディアナはね、たしか私の5代前の公女だったはずだよ。
聖女オーディアナの任期は一定ではないけれど、私の知る限り1000年はザラだ。
それが当代はその半分。
力を使い過ぎたのだろう。
かなりの負担を強いられたのだと、私は思っている」
当主だけが知る事実が、ゆっくりと語られる。
「聖女オーディアナの役割は、もともと竜后が兼任していたものなんだよ。
聖女オーディアナはその補佐をすれば良く、あくまでも主は竜后でね。
それがいつのころからか、聖女オーディアナが一人で負担するようになった。
調べてみたんだけどね、当代の竜后になってかららしい」
スラックスの長い脚を優雅に組み替えて、母は唇に冷たい笑みをためる。
「その理由も、おおよそ察しがついたよ」
隣の父も同様に、冷え冷えと凍るような微笑を浮かべて頷く。
「ああ、ほぼ間違いない。
兄上をしめ上げて、ヴァースキーの禁書庫でも裏をとったからね」
両親の冷気、いや殺気の意味が、パウラにはわからない。どうやら竜后が当然の仕事をしていないらしいことはわかったが。
「あの……。
お母様、お父様?」
わけがわからぬと、詳しい説明を促すように呼びかけてみる。
すると表情を変えないまま、母は吐き捨てた。
「下世話に言えば、失恋だろうね。
黄金竜オーディの横恋慕と言っても良いか」
失恋?
横恋慕?
母の言うとおり下世話過ぎる言葉に、パウラの思考回路はすぐには巡らない。
「昔、まだヘルムダールの公女だった竜后はね、ヴォーロフの公子と将来を誓い合ってたそうだよ。
けれど彼女を
ヘルムダールの公女が、黄金竜の妻、しかも正室に望まれたんだ。
拒めなかったんだろうね。
泣く泣く
竜后となった後も、彼女は夫である黄金竜を許せず、竜后としての仕事も放棄したということか。
引き裂かれた恋人の面影だけを追い続けて、数千年、それ以上の年月を。
歌劇のあらすじのようだ。
もしこれが歌劇の世界なら、酔ってやっても良い。
けれどここは現実で、まして自分が巻き込まれるとなれば冗談ではない。
ごめんこうむりたい。
「それほど嫌なら、なぜ嫌だと言わないのですか。
いやいやでも竜后の地位についたのでしょう?
なのに、なんにもしないなんて」
飼殺された前世を思えば、はらわたの煮えくり返る思いがする。
あの砂をかむようなわびしい年月は、悲劇のヒロインに酔いしれた先祖が、自分の仕事を丸投げしたためかと。
それを許して放置する黄金竜には、さらに腹が立った。
至高の地位には、それにふさわしい責任がセットでついてくる。その責任を果たせぬ妻なら、さっさと離縁するのがお前の責任だろう。
なんの罪もないヘルムダールの女子を、次々と使い潰して、飼殺して。
「くっだらない!
普通の女ならかわいそうにで通るでしょうけれど、そうではないでしょう?
お母様、やはりわたくしを除籍してくださいませ。
わたくし、どうあっても逃げますわ。
飼殺しの人生は、1度でたくさんですもの」
憤然とパウラは立ち上がる。
そんな迷惑夫婦のために2度も犠牲になるなんて、あまりにも自分がかわいそうすぎる。
「さびしいことを言わないでおくれ。
もう少し親を頼りなさい。
パウラはじっとしててくれると、ありがたいね」
白い騎士服の腕を伸ばして、母はパウラを抱き寄せた。
品の良い薔薇の香り。
母の香りにふわりと包まれると、パウラの眦にじわっと涙がにじむ。
ぎぃ……。
扉の開く音。
「その道行き、わたしも同行させてもらうよ」
白絹のゆったりとしたトーガをまとったオリヴェルが、母アデラの前に進む。
すぅ……と音もなく跪いて、オレンジ色の頭を垂れた。
「ヘルムダール公女パウラに、西の聖使オリヴェルが求婚する。
大公には、どうかお許しいただきたい」
ちょっと待って。
いつのまに求婚まで話が進んだのだ。
聞いてない。
しかもこの雰囲気の中、このタイミングで?
きん……。
空気の凍る音がした。
それがどこからくる冷気か氷気か。
パウラには見なくともわかった。
とてもではない、そちらを見ることなどできないでいた。
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