第83話 その先にあったもの

 長い長い時間が過ぎて、セスランの任の果てる日がついに来た。

 エリーヌの希望どおり、セスランはエリーヌと二人でヘルムダール大公の庇護下で暮らすことを決めた。


「ゲルラよりぜったい扱いが良いわよ。

 わたしは元聖女オーディアナ候補だったんだし。

 あなたに蛮族の血が入っていたって、バカにする人なんていないわ。

 安心して良いんだからね」


 今や妻となったエリーヌは、以前にもまして遠慮のない無神経さをまき散らす。

 

「ゲルラにはもうセスランを知ってる人いないんだから。

 そしたら蛮族の血が入ってるってだけで、バカにされるわよ。

 ゲルラってみーんな、エラそうなんだから」


 これで悪気がないのだと言われて、誰が信じるだろうか。

 セスランがいくら注意しても、何が悪いのかわからないエリーヌには「暖簾に腕押し」「ぬかに釘」で、とうにセスランはあきらめている。

 あきらめた先に愛がないのは当然のことで、房事など絶えて久しい。


「しなきゃ、子供はできないんだよ?

 もう聖使はやめたんだし、ふつーの人間に戻ったんだから、子供が欲しいわ」


 しなきゃ……。

 あけすけ過ぎる表現には、いまだに慣れることができないでいる。

 

 セスランも竜の端くれ、そして白虎の端くれでもある。

 竜も白虎も、その愛は執着に近いほど重い。

 唯一に巡り合えなかった者の中には、正妻の他に愛人を囲うものもいるらしいが、それは蔑まれる行為である。

 ほとんどの者は己の伴侶との間に、双方が望んで子供を作る。

 セスランは、つまり望まないのだ。

 妻、エリーヌとの間に、子供を作ることを。

 彼女と閨を共にすることも、できればもう遠慮したい。

 逃げるように身体を重ねて、その先にあったのが虚しい今の毎日だった。

 せめてもの救いは、ただの人に戻った彼の寿命は、有限であるということ。

 いずれ遠くないいつか、彼はこの世のすべてと別れることができる。

 その日だけを楽しみに生きている。

 どうしてまで、子供を作りたいものか。


「パウラをまだ好きなんでしょ?

 未練がましいんだから。

 半分しか竜じゃないあなたのこと、相手にすると思う?

 ばっかじゃない」


 その日はエリーヌの我慢の限界だったらしい。

 やけにしつこく房事を迫り、黙殺し続けるセスランに次々と暴言を吐いた。


「いつもそうやってわたしをバカにして。

 あなたなんか竜でも蛮族でもない、どちらにもなれないくせに。

 もう聖使でもゲルラの公子でもないんだからね。

 ヘルムダールで無事に暮らせるんだって、わたしのおかげなんだから」


 それがエリーヌの悲鳴だと、セスランにもわかっていた。

 エリーヌはこうして、憎まれ口を叩くことでしか愛を乞えない。

 セスランの自尊心を傷つけて、価値を否定して、エリーヌにすがらせようとしている。

 彼女はそういう愛し方しかできないのだと、長い時間をかけてセスランも理解した。

 同情もした。

 幼い日に父に捨てられた彼女は、自分を無意識に無価値だと思っているのだろう。

 だから捨てられまいと必死で、相手を否定する。


「わたしがいないと、あなたはダメなんだから」


 もう……疲れた。


「別れよう」


 静かに切り出したセスランの言葉は、相談ではなく決定だった。

 互いに傷つけ合いながらそれでも傍にいる、その不毛さに心身とも疲れ果てていた。


「な……にを言ってるのよ。

 いまさらなんでそんなこと言うの!?

 約束したじゃない。

 わたしとずっと一緒にいるって、約束したじゃない!」


 エリーヌの狂乱は予想どおりで、セスランはまるで表情を変えることなく立ち上がり、衣装箱を1つ持ち出した。


「ヘルムダール大公には、私からお詫びとお礼を申し上げておく。

 後は君の好きなようにと、お願いしておこう」


 小さな衣装箱が1つきり。

 たったこれだけが、かつて聖使であったセスランの持ち物すべてだった。

 常に身軽であることを己に課してきたのは、贅沢を戒めていたからではなく、今日の日が来ることを知っていたからだと思う。

 目の前で震えながら睨み続けるエリーヌを憐れみはしたが、決意は変わらない。


「私は君の父親にはなれない。

 わかっているはずだ」


 エリーヌの顔が歪む。

 言わずにきた

 彼女が求めているのは、自分を捨てた父親と最初からやり直すこと。彼女を甘やかし、彼女だけをひたすらに愛してくれる男が、父親のつけた傷を癒してくれることだ。

 私ではだめだ。

 私は彼女を愛してはいない。

 それをエリーヌもよくわかっている。


「うそつき!

 うそつき、うそつき、うそつき!」


 泣き叫ぶエリーヌに背を向ける。

 何を言っても、綺麗な別れは望めない。

 罵声を浴びながら黙って去るのが、セスランにできる精一杯の思いやりだった。


 良い思い出など1つもない住まいだった。

 だがそれはエリーヌのせいではない。

 選んでこうしたのは、セスラン自身であった。

 罪はセスランにある。

 ヘルムダール大公にこれまでの礼と、心遣いを無駄にする詫びを言った後は、ゲルラへ戻ろうと決めていた。

 いや正確にはゲルラ公国ではない。

 ゲルラの辺境にある白虎の地、白虎の始祖の祭られた山。

 そこに母の墓所があるから。


 ヘルムダールの港からゲルラ行きの大船に乗る。

 ゲルラの港に着くと、すぐに南の辺境行の小舟に乗り換えた。

 客層ががらりと変わる。

 汚れた麻の布をマント代わりに巻き付けた者、もう少しマシな毛織の布を巻き付けた者、靴をはいていない者。

 共通しているのは、皆なにかしら武器を携帯していることだった。

 おそらくは傭兵だろう。

 彼らは一様に、セスランに胡乱な視線を寄こす。

 

(ここでもか)


 どこに在っても異分子である。

 どんなにあがいても、セスランの居場所はどこにもない。

 白虎の始祖が祭られた山へ行き、母の霊廟を守りながら静かに暮らそう。

 誰とも交わらず、一人静かに。

 もうそんなに長い時間ではないはずだから。


 舳先の向こうに、高い山々が見えた。

 蛮族の辺境と、ゲルラの人々がそう呼ぶ白虎の里がそこにある。

 突然、不意に海が凪ぐ。

 時を誰かが止めたと、セスランは気づいた。

 

 

「よう来たの、竜と白虎の子よ。

 待っておったぞ」


 低く高く、穏やかで優しい、不思議な声が響いた。

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