二〇一六年四月十日 2016/04/10(日)昼間

 ――。


 愛しい人が傘の中で待っている。



 足元から風が吹きあがった。


 澄子は、濡れたジャケットの合わせを握りしめた。


 呼吸が浅くなる。


 それに気づいて、柿坂がさらに腕を伸ばした。


 雨が、愛しい人の半身を濡らしていく。



 まだ動けそうにない。



 ついに、柿坂は柄を離して傘の芯棒を持った。


 澄子の前に傘の柄が向けられた時、背後から強い風が吹きつけた。


 

 愛しい人の鋭い眼差しが、一瞬だけ柔らかくなる。



「アンタの方から来ることに、意味があるんですよ」



 柿坂の言葉に手を引かれるように、澄子は泥で汚れた足を一歩踏み出した。


 ――男が怖いから、この人にも近づけないんじゃない。


 涙と雨粒が一緒になって頬を伝う。


 ――この人が信じられるなら、近づけるはずなんだ。


 冷たい風が髪の毛を吹き荒らす。



 震えはどうだ。


 ――まだ平気。


 呼吸は。


 ――まだ平気。



 ただ、胸の鼓動が暴れるようで痛い。


 ――怖いの?



 澄子は首を横に振り、伸ばそうとした片腕を震えつつも引っ込めた。


 柿坂が鋭い目で澄子を見つめたまま、そっと傘の柄を持ち直した。



 ――どんな空の下でも、凛と立つポプラの木のように。


 澄子は、愛しい人の左横に立った。


 優しい雨音が二人を包み込んでいく――。


「平気ですか」


 柿坂が、首をかしげるように、澄子を見下ろした。


 こんなに、背が高い人だったなんて――。


「あ、あの」


「息苦しいようなら、遠慮なく傘を持って先に行って下さい。無理はやめなさい」


 それは、今まで聞いたことがないような、低く静かな、優しい声だった。


「柿坂、さん……」


 それだけで、澄子の目元がまた濡れ始めた。


 愛しい人は、安堵したように小さくうなずくと、折れ曲がった傘の骨を、長い指先で触れた。


「こんな傘ですみません。さっき、突風でいきなり吹っ飛ばされたんです」


 今のこの状況が、特別でも何でもないように、柿坂はいつも通りだった。左手には傘、右手はポケットに入れて、雨の小道を歩き出す。


 これほどまでに緊張している澄子とは大違いだ。この大きな進歩が、嬉しいはずなのに、なぜか悔しくもあって、澄子は混乱した。


 その時、ふいに澄子の鼻先に、独特な香りが漂った。


 ――。


 この世で一番嫌いなあの匂いだと気づいた瞬間、無意識に足が止まる。


「か、柿坂さん……」


「はい」


「……タバコ、吸われるんですか」


「ええ」


 そこで柿坂も足を止めた。振り向いた顔が徐々に、困惑の色を浮かべていく。


 澄子は、自分でもわかっていた。


 ――わたし、今きっとすごい顔している。


 どうしよう。

 我慢すべきなのかもしれない。


 澄子は襟口をギュッと掴むと、大きく深呼吸をした。


 洗いざらい、言いたい放題、気持ちを伝える――。


「わ、わたし、タバコ吸う人は、い、イヤです」


「……」


 そのわずかな沈黙に、後悔の念が一気に押し寄せた。澄子の目の前は再び涙で見えなくなった。


 ――タバコの匂いくらい、どうってことないはずでしょう?


 その時、柿坂が首をかしげて澄子を見つめた。


「手を」


「は、え?」


「手を出してください」


 澄子は、鼻をすすりながら、わけもわからず震える右手を出した。


 そこに、そっとタバコのケースが置かれた。


 片方の眉を吊り上げ、口をひん曲げながら柿坂が言った。


「……アンタに預けます」


「え?」


 澄子は半分ほど残っているタバコの箱を見つめた。


「で、でも、こんなに」


「たった今から、長生きしたくなっただけですよ」


 そっと、柿坂が澄子から視線を外した。


 ――。


「柿坂さん……」


「吸いたくなるたびに、アンタのおもしれえ膨れっ面を思い出して笑ってやりますから。覚悟して下さいね」


 そう言って再び濡れた小道を歩き始めた。


 澄子はようやく柿坂の気持ちを理解した。涙を拭い、慌ててその背中を追う。


 柿坂が、澄子に向かって小さく笑ってみせた。


「それで良いんです」


「え?」


「遠慮せず、何でも正直に言って下さい。私はそれが一番嬉しいんです」


 ――。


 澄子は、愛しい人の鋭い目を真っ直ぐに見つめた。


「わたしは、もっと柿坂さんと会いたいです」


「会いましょう」


 自然と返ってきた答えに、澄子は胸が熱くなった。


「もっと、色々な話がしたいです。電話もしたいんです」


「勤務中以外なら、何時でも大丈夫ですよ」


「もっと、もっと……柿坂さんのこと知りたいです。それで、ちゃんとお付き合いしているって……」


 そうやって、胸を張って言えるように。


 ところが、突然、柿坂は鋭い視線を澄子に向けた。


「私は、アンタと付き合っているつもりはないんですよ」


「……え」


 身体が強張る。

 一瞬、耳鳴りがした。


「そんな軽い言葉で、片付けられる関係じゃねえと思っています。だから、アンタも雨の中で大泣きするほど苦しんだんでしょう?出会ってから死ぬまで片恋しかできないと言っていましたが、今はそれが当たり前なんですよ。まだ、何も互いのことをわかっちゃいねえんですから」


 ――。


「柿坂さん……」


「付き合うだの、何だの……そうやって定義づけるのは簡単ですが、アンタには向きません。私がここで『付き合っている』とい言ったところで、周りと比べて落ち込むに決まってます」


 その、言葉一つ一つに胸が痛く、そして熱くなる。


 柿坂が鋭い目で澄子を見つめた。


「だから、今回みたいに気になったことは何でも話せる関係を築くことが肝心なんです。下手に付き合うだのと定義づけするから、それを怠る。『付き合っているなら、言わなくても気持ちが伝わる』という何の根拠もない軽い言葉……私は大嫌いです」


 澄子は黙ったままうなずいた。

 柿坂の言っていることは最もで、言い返すつもりは毛頭ないのだが――。


「わたし……友だちに言われたんです。どういう関係なんだって……」


 そこは、ハッキリさせたかった。


「犬や猫と同じは……やっぱり、イヤなんです」


「は?」


 柿坂が呆けたような顔をした。

 澄子は柿坂に向き直り、尚も声を上げた。


「世界平和も、人類愛もスゴイことだと思いますけど、わたしと、柿坂さんは……その……」


「なるほど。言わんとしていることはわかりましたよ」


 呆れつつも、柿坂は笑みを浮かべていた。


「女一人に手こずっている私が、人類愛など到底無理でしょうよ」


「……」


 この胸の高鳴りは、息苦しさとは違う。


 澄子の頭に、ある言葉が浮かんだ。


 ――今なら、聞けるかもしれない。


「もしも、ですけど」


「どうぞ」


「もしも、わたしが柿坂さんに……」



 『愛している』


 そう言ってと、お願いしたら――。


 その時だった。


「――っ!」


 肺を誰かに鷲掴みにされたかのように、胸の奥で鋭い痛みが走った。


 ひゅう、一呼吸した後、息を吐くことも吸うこともできなくなる。



「和泉さん?」



 柿坂がすぐに異変に気づき、澄子から離れた。



 とてつもない息苦しさに、身体が震え出す。

 未だかつて感じたことのない、異変だった。


 アイシテイル。


 震えが止まらない。


 何?

 何?


 ――わたしは、ただ。


 柿坂さんの気持ちが、知りたいだけなのに。


 アイシテイル。

 アイシテイル。


 愛しい人が、行ってしまう。


「イヤ、です、待って……く、ださ」


 ――せっかく、ここまで。


 涙が溢れる。

 澄子は片腕を伸ばした。


 

「柿坂さん……行かないで……」


「心配しなくても、ここにいますから、深呼吸をしなさい」


「……」


 柿坂が少しずつ、また距離を縮めてきた。


「大丈夫ですか」


「……は……い」


 そこで柿坂は深いため息をついた。


「……気持ちを焦らせたらダメだと、前にも言ったでしょうよ」


 それでも澄子を安心させようとしているのか、柿坂は小さく笑っていた。


 涙目で咳き込みながら、澄子は柿坂に謝った。


「すみません、わたし、どうしても……」


「え?」


「柿坂さんの気持ちを伝えて欲しかったんです。でも、それが」


 アイシテイル。


 どういうわけか、その言葉を思い浮かべるたびに、背中が冷たくなる。


 この人の口からなら、大丈夫かもしれない、そう思ったのに。


 アイシテイル。


 また呼吸がわからなくなる。激しく咳き込む。


 ――。


 柿坂が首をかしげるように、澄子を見つめた。


「気持ちを向けられたら怖くなって突き放したくなる……アンタは以前、そう言いましたけど」


「……あ」


「伝えて良いんですね」


 柿坂に確認されて、澄子は身を硬直させた。


「……」


 愛しい人は、少しだけ片方の眉毛を釣り上げた。そして、苦しげな眼差しを澄子に向けた。


「貴女を不安にさせたくない、ただそれだけです」


「……」


「放って置いてくれと言われても、その気持ちは変わりません」


 胸の痛みが徐々に和らいでいくのがわかった。


 滲む視界の先、愛しい人は笑みを浮かべている。


「この私が、そう思えるのは……貴女だけなんですよ」


「……柿坂さん……!」


 どうして、この人はこれほどまでに心に触れる言葉を言ってくれるんだろう。


 何を言われても、安心する――。


 ようやく澄子の呼吸が元通りになった。涙を拭い、もう一度深呼吸をすると、取り乱した自分が急に恥ずかしくなってきた。


「ご、ごめんなさい。わたし、本当どうしようもないですよね」

「……大丈夫ですか?」

「はい……あの、本当に……ごめんなさい……」

 いいえ、柿坂はそう言いながら、小さくうなだれた。

「アンタ……思った以上に……」


「は、はひ?」


 しかし、柿坂は静かに首を横に振ると、澄子に笑ってみせた。


「さて、いよいよ花見をしますか」


「え?」


「そういう予定だったでしょう」


 雨は小降りになったとはいえ、とてもじゃないが花見を満喫するような天候ではない。ずっと柿坂と一緒に歩いてきたが、どうやら最初から桜の丘を目指していたのだと、澄子はようやく気付いた。


「で、でも……まだ雨が」


 澄子が言いよどんでいると、柿坂がわずかに目を細めた。


「晴れた青空の下で花見がしたい、そんなことはメールに書いてありませんでしたよ」


「う」


「冗談です。ただ、この年齢になったら、雨の桜も、風情があって良いものでしょう」


 ほどなくして、ぼやけた白色をまとった木々が目に飛び込んだ。


 雨音だけの世界。水滴を弾きながら桜の花びらがそっと揺れている。


 柿坂が、垂れ下がっていた桜の枝先に触れた。


「まだ咲き切ってないですね」


「き、きっと、急に寒くなったからだと思います」


 いくらか残った桜のつぼみが揺れている。


「来週……晴れたら二胡を持ってきましょうか」


「えっ?」


「今度こそ、アンタの好きな曲を教えてくださいね」


「は、はい!」


 ――嬉しい。


「わたし『流波曲』が好きです。あれを聴くとお昼寝したくなるんです」


 すると、柿坂が目をしばたかせながら、澄子を見つめた。


「流波曲で……昼寝?」


「はい、いつも気持ちよくなって寝落ちしゃうんです。最後まで聴いたことないかも……」


 そこで、真顔だった柿坂が、急に吹き出した。

 

 声を立てて笑うその姿に、澄子は大いに慌てた。


「お、おかしいですか?」


「いや……あの曲のメロディはゆったりしてますからね」


 澄子は、柿坂のその優しい笑みに、なぜか泣きそうになった。


 鼻をすすった澄子を、柿坂は見つめた。


「……本当、アンタは不思議な人ですよ」


 ため息まじりの素っ気ない言い方でも、これほどまでに優しさが溢れている。



 愛しい人と二人、同じ傘の中。


 いつもと違う立ち位置、違うアングル。


 花を見上げる横顔、あご先、首筋――澄子はひたすら柿坂を見つめた。


 ――わたし、幸せです。


 柔らかな雨音の中、そう感じた澄子は、あの異常な息苦しさも裂けるような胸の痛みも、忘れてしまうことにした。



【花滞雨の巻 完】

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