二〇一六年八月二一日 2016/08/21(日)夜②

 少し霞のかかった空に、星が見える。

 祭り会場から聞こえる歓声や音楽、そして近くの茂みから届く虫の鳴き声に、澄子はしばらく耳を傾けた。

 温い風は、少しずつだが確かに秋の到来を告げている。


 ――それにしても……ライバル視されているのかな。


 澄子は、暗がりを見つめながら、先ほどの二人組の女を思い出した。


 彼女たち二人の関係はわからないが、あれは、明らかにこちらを牽制するような眼差しだった。

 いずれにしても、当の柿坂は、あの若い女のことを相手にしていない。問題は年配の女だが――。


 ――意外に、あのくらいの年齢の人の方が手強かったりするのかしら。


 そこで、澄子は肩をすくめた。自分は何様だ。


 ――こんなに気持ちが乱されるなんて、わたしは本当に柿坂さんのこと……。

 

 その自分の想いの強さに、澄子は少し恥ずかしくなった。


 そこへ、小道の方から人が歩いてくる気配があった。


 時間はちょうど八時になったところだ。澄子は髪の毛を気にしながら、ベンチから立ち上がった。


「お疲れ様です、かきさ」


 ところが、電球の切れかかった街灯が照らしていたのは、柿坂より小柄な、かつての同級生だった。驚きつつも笑みを浮かべながら澄子に声をかけてきた。


「あれ……和泉か?何しているの?」


「清野くん」


「これから、緑風プロジェクトの打ち上げやるんだけど、聞いてない?また駅前の飲み屋に集合」


 すると、清野は周囲を気にして、肩をすくめた。


「さては、彼氏と待ち合わせか。邪魔しちゃったかな」


「ご、ごめんなさい」


「いいよ、気にしないで」


 ふいに清野がどこか心配そうな顔をした。


「それはそうと、和泉がプロジェクトに参加するなんて思わなかったよ」


 清野の言葉に、澄子もうなずいた。


「……うん。門田くんにも言われたよ」


 そこで、清野が呆れたように笑った。


「何だかんだ、アイツも気にしていたのか。悪いヤツじゃないんだけど、素直じゃないんだよね」


 澄子は同級生たちの優しさに心が温かくなった。


 それでも、すべてが払拭されたわけではない。


 草むらや雑木林を見て怯えていた過去――。


「わたし、自分でもわからないんだ。遠足の時も、クリスマスの時も、何で草むらが怖かったのかな」


 清野が腕を組んで、唸った。


「やっぱり……若さのせい?思春期ってヤツ」


 清野が気づかうように笑う。それにつられて、澄子も笑った。


「そうかもしれないね。本当、何だったんだろう。ずいぶん昔だから、忘れちゃった。もう歳だね」


「あの時のこと、覚えてなくても、今はもう大丈夫なんだろう?」


「うん」


「というかさ、覚えてないなら、昔に何があったとしても問題ないでしょ」


 清野は澄子を見つめて笑った。


 その目の色に、澄子の胸が少しざわついた。


 ――。


「ねえ、清野くんは、どうして」


「ん?」


「どうして、ここにいるの?」



 温い風が、澄子の後れ毛を揺らす。



 清野が首をかしげた。


「どうして、だって?」


 風が止んだ。



「お前に、二十五年前のことを、思い出してもらうためだよ」



 ドン、漆黒の空に花火が上がる。



 橙色と赤の華の下、男が澄子に近づいてくる。


 その距離――。


「ひ」


「あの時は嘘をついているのかと思ったけど、まさか本当に覚えてないなんてね」


 澄子は息を押し殺しながら、後ずさりをした。清野が楽しそうに笑う。


 ――何を言って――。


 清野が、ゆっくりと、弄ぶように近づいてくる。


 身体が震え出す。 

 呼吸が徐々に浅くなる。


 澄子は、得体のしれない恐怖に、もつれる足で駆け出した。しかし、遊歩道の段差に足を取られ、茂みの中に転がり込んでしまった。


 それを見て、清野の顔に柔和な笑みが浮かぶ。


「あの夏……大川上流の雑木林に、樹液を出す木を知っていると教えてやった時、お前のハシャぎっぷりは傑作だったな。どれだけクワガタ採りが好きなんだよって呆れたぞ」


 転がっていく缶ビールを、足先で捕まえながら清野が続ける。


「それより、そんな顔で笑うのかよ、ズルいだろって……俺、一気に持っていかれた気分だった。あの時、一緒に採りに行こうって何で言えなかったかなあ。お前、一人で行く気満々で、絶対に危ないと思ったんだけどさ」


 切れかかった街灯が、清野の悲しげな顔を照らす。



「……変態に襲われていたお前を、せっかく助けてやったのに」



 頭の芯が、ゆっくりと冷えていくのがわかった。



 ――。


 ――サラ。


 サラサラ。



「あれは……」



 忘れたんじゃない。

 覚えていないんじゃない。



 わからなかったんだ。



 だって。

 だって。


 真っ暗だったから――。



 サラサラ。

 サラサラ。


 聞こえるのは、木々のかすれる音。


「草むらの中で、お前、ガタガタ震えてさ。抵抗もできなくて……。でも、そいつがいきなり悲鳴を上げたんだ」


 清野の暗い目が、澄子を見つめた。


「……『血が出ちゃったね』……って」



 ――。



「細くて赤い筋が見えた時、俺、完全にキレてさ。近くに転がっていた棒でそいつをぶっ叩いて追い払ったんだ。それなのにさ」


 小さなため息が聞こえた。


 温い風が草むらを揺らす。


「お前が何も覚えてないとか証言するから、一番最初に見つけた俺が疑われて、警察とか役所とか、児童相談所とかに追い回されて、俺の家族は精神やられて、みんなバラバラだよ。おかげで、鈴峰町を出る羽目になった」


 サラサラ。


「それでも、和泉だから、俺は許したんだ」


 サラサラ。


「ずっと好きだったから」


 サラサラ。


「この前、会った時に嬉しかったよ。お前、昔はあんなに日焼けしていて地味だったのに、色白ですごく綺麗になって、でも、相変わらず健気で――」


 サラサラ。


「……お前のこと怨むかと思ったけど、逆だったな。良かった。やっぱり、俺――」



 橙色の花火が舞った。





「和泉のこと、アイシテルんだ。昔も今も」


 アイシテイル――。



 橙色の光が、消えていく。


 果てしない闇。


 木々の音。


 冷たい地面。


 背中を圧迫する平石。


 汗まみれの皮膚。


 塞がれる口。


 押し潰される喉。



 ――アイシテイルよ。良いでしょう?



 下腹部の熱。



 ――こんなに、ホラ。



 止まらない朱色。


 華が咲く。



 ――キミも、アイシテくれるよね?



「い、」




 ――どうしたの?



「い、や、」



 ――大丈夫?痛いの?



「いやああぁあーっ!」



 うつろな空に、血に染まったような花火が上がる。




 澄子の中で、何か繋ぎとめていたものが『外れた』。

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