二〇一六年八月二一日 2016/08/21(日)夜③



 何、これ。


 覚えてない?


 バカだわ、わたし。



 覚えているじゃない、身体は。


 あんなに、わたしに教えていたじゃない。



 男が怖くて近寄れないの。


 震えてくるの。


 眩暈がするの。


 

 近寄れないのよ。



 だって、もう、これ以上、汚れたくなかったんだもん。




 ――どうしよう、泣かなきゃ。



 感情がおかしい。こめかみが痛い。呼吸も忘れた。



 それでも、何かが体内をのた打ち回り、今にも暴発しそうだった。



「ゴメン、やっぱり俺もケジメをつけたくてさ。気持ちを伝えられて良かった」



 清野が、笑いながら近寄ってくる。


 その時だった。



「だから、スッ転ぶって言ったでしょうよ」



 黄緑色の花火の下、影が揺れる。


 ため息まじりの、そっけない声色。



 再び暗さを取り戻す遊歩道で、柿坂が腕を組んで立っていた。


 その眉が、ゆっくりとひそめられる。


「それ、もう真っ黒でしょう……せっかく私のために着てきた浴衣……」



 ――。



 ナニヲイッテイルノ。



 その、あまりにそぐわない一言に、澄子の意識が完全に飛んだ。



 目の前に、火花が散る。


「ふざけないでよ!」


 喉が張り裂けるくらい、澄子は絶叫した。


「のん気なこと言わないで!アンタのために着てきたんじゃないわ!」


「な……」


 罵られた柿坂が、明らかに動揺の色を見せた。澄子は、両手で男たちに小石を投げつけながら、さらに声を張り上げる。


「どうして、わたしだけがこんな目に遭わなきゃいけないのよ!痴漢なんて大したことないって吹っ切れようとしたのに!もう、わたし汚れちゃってるじゃない!自分勝手な気持ち悪い男なんて、この世から全員いなくなればいいんだよ!もう、大嫌い!消えてよ!バカキサカ!」


「バ……」


 唖然とする柿坂を前に、清野が声を立てて笑った。


「おいおい、和泉も落ち着けよ。彼氏さんがビックリしているだろう?」


 そのまま、柿坂に向き直った。


「あ、俺は地元の同級生です。彼女、見ての通り酔っ払っていたから、ちょっと付き添っていたんですよ」


 鳥肌が立つような嘘に、澄子は声を上げそうになる。


 それを、柿坂の静かな声に遮られた。


「そりゃ、面倒かけましたね」


「いいえ。えっと、彼氏さんですよね」


「どうでしょう。たった今、大嫌いと言われちまいましたから」



 ――。



 澄子はありったけの憎悪と嫌悪感で柿坂を睨み上げた。


 しかし、それに対して柿坂は――笑みを浮かべていた。


「だいぶ、怒ってますね」


「……」


「泣いているより、よっぽど良いです。それにしても」



 よく頑張りましたね、そう言った。



「和泉、立てる?つかまりなよ」


 清野が澄子に手を差し出した時、柿坂がため息を吐いた。



「女が喜んでるのか、イヤがっているのかもわかんねえのは……中坊の時から変わってねえってことですか」



 ――。



 清野の動きが止まった。柿坂が続ける。


「そこで、怒鳴り散らしている女は、ある覚悟をもって故郷に帰ったんだそうですよ。どんな過去も向き合おうとしているんです。ですから」


 冷え冷えとした暗い目が、清野を捉えた。


「嘘を吐くのだけは、やめちゃくれませんか」


「はい?」


 清野が柔らかな笑みで振り向いた。


「怖い顔して一体何ですか。もしかして、裏稼業の方だったりします?」


「こんなおっかねえ顔したヤクザなんか、今時流行りませんよ」


 表情一つ変えない柿坂に、清野は一瞬動揺したものの、ゆっくりと首をかしげた。


「嘘を吐いているですって?だいたい、和泉は何も覚えてないのに、そんな判断が出来るわけないですよね?」


「心配ないですよ。そんなバカな女じゃありません」


 面倒ですけど、そう柿坂は付け加えながら話を続ける。


「……中学の時に、変質者に襲われたそこの女を、お前さんが助けたらしいですね。それで、まともに証言されなかったために、警察や行政に疑われたと……」


 そこで、澄子は弾かれたように声を上げた。


「ぜ、全部聞いて……」


 しかし、柿坂は澄子を無視して、話を続けた。


「それで、二十五年ぶりに再会して、助けてやったことを恩着せがましく伝えたんでしょうけど、当時のお前さんは、その変質者をどこからのぞいてたんです」


「何?」


「近くにいりゃ気づかれる。遠巻きに見ていたにしちゃ……詳し過ぎやしませんか」


「……」


「だいたい警察も行政も、第一発見者のお前さんの証言がおかしいから疑ったんですよ。中坊のガキが、国を相手に渡り合えるわけねえでしょうが」


 温い風が、吹いてくる。


「逆に言えば、大したことのない事件だったから内々の転校で済んだんです。本当にやらかしていたら施設送り、悪質なら中坊でも逮捕ですよ。その時は、周りの人間が知らねえはずがありません」


 そこで、ようやく柿坂が澄子を横目で見つめた。


「二十五年前……アンタは結局、意気地のねえサカった同級生に後を付けられて、押し倒されただけなんですよ」


 澄子は腹を押さえた。


「でも……わたし、わたし……」


 ようやく、涙が滲み出した。


「血が出たって……」


 そこで、柿坂の片方の眉がわずかに持ち上がった。


「じゃあ、なおさら未遂です。運が良かったんでしょう」



 ――不幸中の幸いよね。


 当時、保健の養護教諭から言われたことが思い出された。



 ――中学生は、まだ周期が安定しないから。



「……」


「血を見ただけで萎えるような男が、女を襲ったりなんかしませんよ」


 疲れたような表情で柿坂がうなだれると、清野が声を上げて笑った。


 それは、かつての爽やかな同級生ではなかった。


 歪んだ口元から、八重歯がのぞく。


「だから、何?俺は昔話をしていただけだよ?」


 柔和な笑みを浮かべ、清野が澄子を眺める。


「お前も本気にするなよ。四十前の女に手を出すほど飢えてないし。ああ、俺は結婚して子供もいますから」


「……」


「でも、その年齢にもなって結婚もしていない、子どももいないのアラフォーか……お前、何のために女に産まれたんだ?この彼氏だっていい年してフラついてるなんて、信用できるの?」


 すると、柿坂がため息を吐いた。


「自分がまともな人間とは思いませんけど、お前さんの有り様がまともだというなら、私は死ぬまで狂人で良いですよ」


 清野は一瞬呆気にとられた顔をしたが、すぐに笑い出した。


「それで、お前は俺をどうするってんだよ?今から警察に突き出すのか?証拠あるのかよ?訴えられるもんなら、訴えてみろ!裁判でも何でもさ!」


「……どうして、国仕えの私が、身内の手を煩わせるようなことしなきゃなんねえんです」


 ゆっくりと、柿坂が一歩足を踏み出した。


「警察だの裁判だの……そんな公正かつ親切な方法でチャラにしてやるような、優しい人間に見えますか、この私が」


 ギリギリまで顔を寄せ、狂気をはらんだ暗い目で、柿坂は清野を見下ろした。


「この暑さで……今日は気がおっ立ってるんですよ」


 細長い指で、清野の髪の毛についていた木の葉を、そっと取り除く。


 そして、それを、ゆっくりと爪先で切り裂いた。


「言いてえことが済んだら……とっとと消えてもらえませんかね」


 ガタガタ震える清野の口から、細い悲鳴が漏れた。


「ひ……」


 そのまま圧倒され、男は地面に座り込む。



 柿坂が横目で澄子をうながした。


「さて、行きますか」

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