二〇一六年八月二一日 2016/08/21(日)夜④
橙色の柳花火が、空から降ってくる。
秘密の裏小道には誰もおらず、花火の音が静まる一瞬、虫の鳴き声が届いてくるだけだった。草むらが開けたあたりから、大川添いの屋台の列がまっすぐ見える。
枯れ池の古びた柵に寄り掛かり、澄子も柿坂も終始無言だった。
温くなった缶ビールをひたすら煽りながら、夜空を見上げる。
チラリと見た時計は、すでに八時半近くになっていた。
もしかしたら最後の――故郷の花火が終わってしまう。
それもこれも、全部――。
――わたしが悪いんだ。
同級生から受けた仕打ちに対して、どこか冷静な自分に混乱した。単に放心状態なのだろうか。
――違う。
汚された自分に、どこか諦めがあった。
それでも、大泣きせずにどうにか自分の足で立っていられるのは、ここにいる愛しい人のおかげなのだと、澄子はわかっていた。
一緒に歩いてくれるだけで、前が向ける――。
――それなのに。
柿坂に申し訳ないと思いながら、それでも、澄子は胸に刺さった言葉の棘が抜けずにいる。
「……結婚も出産もしていない……汚れたアラフォー女が一人」
不思議と、涙は出てこない。
「本当、わたしは何のために女に生まれたんでしょうね」
「さあ、知りません」
――。
ショックなのは、きっと違う答えを期待していたから。
それが何かわからないまま、澄子はうつむいた。
小さなため息が聞こえた。
「……何のために生まれたか、そんなのは産んだ人間に聞くしかねえでしょうよ。けど、アンタにほんの少しでも、その人間を愛おしく思う気持ちがあるなら、聞かないことです」
「……はい」
「ただ」
柿坂がビールを飲み干す。
「何のために生きていくのかは、今ここでアンタが決めなさい」
「……え?」
「もう四十なんですよ。人生の……半分が終わるんですから」
「はん、ぶん」
「そう考えたら、今さら生まれた理由を考えている場合じゃねえでしょうが」
その口調に少し苛立ちが含まれている気がして、澄子は何も言えなくなってしまった。
黙ったまま温いビールに口を付ける。
花火が静まる一瞬、コオロギが優しく鳴くと、柿坂が口を開いた。
「……過去に起きたことも、なかったことにはできないんです」
細かな水色の輪が空を彩る。
「忘れさせてやる……そう言いたいところですけど、私は、出来ないことを約束するのは嫌いです」
――。
ひそかに期待していた言葉が、次々と打ち消されていく。
澄子がそっとため息を吐くと、柿坂がうなずいた。
「でも、思い出しちまった時に、何とかしてやるのは、私の役目だと思ってますよ」
「……」
「アンタがどう感じているかは知りませんけど、私には『浴衣が汚れている』くらいにしか見えません」
「……」
「洗っても、落ちないんですかね……アンタが言う『汚れ』というのは。色々と洗い方を試すなら協力しますよ」
いつだって、正論で、優しくて――。
黄色や赤の細かな花火が次々と打ち上げられる中、澄子は震えながら言葉を紡いだ。
「……柿坂、さん」
「はい」
「さっきは、ごめんなさい……」
「……」
「あんなに、酷いことを……怒鳴ったりして……」
本気に受け取られていたらどうしよう。いや、そんなはずない――。
そんな勝手なことばかりが頭をめぐる。
それでも、伝えてしまった事実は消えない。謝って、済むことじゃない。
「気にしちゃいません」
素っ気ない言い方も、今回ばかりは本当に心が揺れる。
「でも」
「全部、わかっているつもりです」
それから、また押し潰されそうな沈黙が流れる。
居てもたってもいられなくなり、澄子は柿坂の鋭い横顔を見つめた。
「わたし、本当におかしいですよね。いつも、自分の気持ちすらコントロールできなくて」
花見の日も大雨の中で大泣きした。今日にいたっては、柿坂は無関係だというのに、狂ったように罵倒してしまったのだ。
うつむいたら、涙が落ちそうになる。澄子はひたすら柿坂を見つめた
「か、柿坂さんも言いたいこと言ってください。わたしのこと、おかしいぞって……ちゃんと、言ってください。怒ってください」
愛しい人は何も言わない。
柳の花火がゆっくりと夜空に散っていく。
「わたし、受け止める覚悟は出来ていますから。今まで、さんざんあなたに酷い態度を……」
「いい加減にしなさいよ」
鋭い声が飛んだ。
「どれだけ我慢していると思ってるんですか。アンタもね、身の程を知りなさい」
一際大きな朱色の華が咲く。
「今日のアンタは……どうしようもなく、可愛すぎるんですよ」
「……」
「そんなアンタに、大嫌いとか言われて、ショックで寝込んじまいそうです」
そこで初めて、柿坂が笑った。少しだけ意地悪そうな表情に、澄子の目から涙が溢れた。
「ご、ごめんなさい……っ」
「……ここは、泣くとこじゃねえと思ったんですが」
「わたし、大嫌いなんて……嘘ですから」
澄子は、浴衣の袂で涙を拭った。
「わたし、本当に、柿坂さんが……本当に……」
その時、クライマックスの花火が一斉に打ち上がった。漆黒の空が極彩色に染まっていく。
大川沿いには、ナイアガラの花火が降り注ぎ、鈴峰の町に歓声が響き渡った。
急に澄子は恥ずかしくなり、持っていたカメラで花火の滝を写真に撮った。
「こ、これを見て欲しかったんです。ナイアガラは、ここからが一番長く綺麗に見えるんですよ」
「……すごいですね。予想以上です」
「来年も見られたら良いんですけど、は、花火って、結構予算が掛かるんですよね」
「これだけ人気があれば、来年も大丈夫でしょう」
「そ、そうですよね。こんなにたくさんの人が来てくれるんですから」
「本当、綺麗ですね」
「喜んでもらえて嬉しいです。良かったら、来年も――」
――。
愛しい人は、慈しむように澄子を見つめていた。
最後の花火が、ゆっくりと夜闇に消えると、かすかな虫の鳴き声が、あたりを包み込んだ。
夏草の匂いが立ち込める。
この空間に、愛しい人と二人だけ。
澄子は、身体がじんわりと熱くなるのを感じた。
「少し、話を良いですか」
柿坂が、澄子を見つめたまま、そっと口を開いた。
「アンタに……聞いてみたいことがあります」
「は、はい。何ですか」
緩やかな風が二人の髪を揺らす。
「さっきの男と再会して……過去の話を聞いて……何か、アンタの中で変わったことはありますか?」
「え?」
「まだ……男は、怖いですか?」
――。
澄子は、清野の歪んだ顔を思い出した。そして、親切にしてくれたギターの青年の赤い顔、同級生たちの笑顔も。
それらが、次々と澄子に手を伸ばす――。
「……怖い、です」
何も、変わっている気がしない。
すがるように、目の前の愛しい人を見つめた。
誰よりも、鋭くて、冷たい目をしているのに。
「でも、柿坂さんは怖くありません」
その目の奥にある、優しさを知っている。
「わたし、きっと、柿坂さんなら」
コオロギが小さく音を立てた時、柿坂が目を伏せた。
「……どうして……私なんですか」
「え?」
柿坂は目を伏せたまま、どこか苦しげな顔をした。
「こんな……私の何が良いんです」
唐突な問いかけに、澄子は上手く反応できなかった。きちんと伝えようにも言葉が見つからない。しかし、答えるまでに時間をかけたら、怪しまれてしまう。
「これは意地悪な質問でしたね」
柿坂が少し困ったような笑みを浮かべたのが、胸に突き刺さる。
澄子は慌てた。
「あ、あの、そんなこと……」
「では……この先、私と……どうありたいと思っていますか?」
「……」
反射的に澄子は、古びた柵に置かれた柿坂の左手に、思わず目が行ってしまった。
細くて、綺麗で、でも男らしい。
――その手に触れることができるなら。
澄子は、生まれて初めて抱いた想いに、身体中が痛いくらいに熱くなった。
「わたし……」
大きく息を吸い込んだ時、柿坂が首をかしげるように澄子を見つめた。
「最初に会った頃に、アンタが言っていたこと……覚えていますか」
柿坂がゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「私が公園で二胡を弾いて、それをアンタが聴いて、時々話をする……そのままの関係が良いと、言っていましたね」
――。
確かに、言った覚えはある。
だけど。
「でも、今はこうして……一緒に」
「もちろん、この今の関係に不満があるわけじゃありません」
澄子はホッと胸を撫で下ろした。
柿坂が小さく笑う。
「むしろ、このままの関係が……一番幸せだと思うんですよ」
呼吸をするように、柿坂が言った。
その、あまりの自然さに、澄子は言葉の意味がわからなくなるほどだった。
それをようやく理解した時。
柿坂が左手をポケットにしまった。
――。
「柿坂さん」
「さて。次の休みは、どこに出かけましょうか」
「柿坂さん!」
すでに目の前が涙で滲んでいる。
「やっぱり、わたしが……大嫌いなんて、言ったからですか?」
柿坂が首を横に振る。
「それは、絶対に違いますよ」
「わたし、わたし……」
言うべきか迷ったが、もう耐え切れそうにない。
澄子は大きく息を吸った。
「鈴峰の町に戻って来たのは、過去と向き合って、トラウマを克服して、あなたとの関係をもっと深めたかったからです」
「……」
「今すぐなんて無理なのはわかっています。でも、わたし頑張りますから。だから、柿坂さん……」
言葉が続かず、澄子は、震えながらうつむいた。
――どうしたら、伝わるの?
うつむいたまま、口を開く。
「柿坂さんの気持ちが知りたいです」
「……」
「すごく……不安です」
「……」
「柿坂さん、わたし、不安です」
細い雑草が、ひそやかに揺れる中、どれくらいの時間が経っただろうか。
柿坂が、ゆっくりとうなずいた。
「和泉さん」
「はい」
「私にも、戸惑うことはあるんですよ」
「……」
「実際、貴女は私の前で泣いてばかりいます。この夏に、再会した同級生の前ではどうだったんですか。きっと、楽しく笑ったんでしょう?その時、貴女は何かを頑張ったんですか」
「……」
「私は充分幸せなんです。本当に」
「柿坂さん」
「今のままで……これ以上頑張らなくても良いですから、もっと……貴女に笑って欲しいんですよ」
この言葉、この優しさに嘘はない。
だけど――。
「わたしは、イヤです」
「……」
澄子は涙を拭った。
――泣かない。
頬を震わせながら、愛しい人に笑みを向けた。
「こ、今度こそ、インフルエンザにかかった貴方を、看病したいんです」
「……」
「それが、関係を深めるための理由じゃ……いけませんか」
風が足元を吹き抜ける。
雑草が波打つように揺れた。
柿坂はしばらく黙っていたが、大きく息を吐くと、自分を言い聞かせるように何度かうなずいた。
そして、呆れたような笑みを澄子に向けた。
「まったく……アンタにはかないませんよ」
「ち、茶化さないでください。わたし、真剣です」
「もちろん、私も真剣ですよ」
鋭い目で柿坂が澄子を見つめた。
その眼差しは、いつも以上に苦しげに揺れている。
それが――そっと伏せられた。
「いつか……私の故郷にも来てくれますか」
「え?」
「アンタとなら……」
そこまで言うと、柿坂は急に咳払いをして、何でもありません、そう言った。
【煉華火の巻 完】
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