二〇一六年一月三十一日 2016/01/31(日)夕方

 雲に覆われた薄闇の空の下、澄子は震えながらポプラ並木にやって来た。


 この一週間ずいぶん迷ったが、相手に誤解されたままなのはイヤだった。


 まさか自分がこれほど積極的だったとは驚きだ。それだけ、何かに焦っているということだろう。男性に興味を持てたこの一時を、無駄にしたくないだけかもしれない。


 ――嫌われているのは、間違いないんだけど。


 まるで死地に向かう兵士のような面持ちで、寒風の中を歩いていくと、冷え冷えとした二胡の音がうっすら聴こえてきた。


 手にしたコンビニ袋がガサガサと音を立てないように、澄子はゆっくりとベンチに向かう。


 しかし、途端に二胡の音は止まってしまった。


 ――。


 黒いコートの男が、まるで周囲の空気を凍り付かせるような鋭い目で澄子を見ている。

 その視線に震えそうになりながらも、澄子は声を振り絞った。


「こ、こんばんは」


 相手がいぶかしむように会釈をしたところで、すかさず澄子はコンビニの袋からペットボトルを取り出した。


「さ、ささ差入れです」


「は?」


「あの、えっと、身体、冷えちゃいますから」


 柿坂はじっとペットボトルを見つめた。そして、小さく白い息を吐いた。


「先週、私が言ったこと、伝わらなかったんですかね」


「え?」


「いや。いただきます」


「あ、はい。ここに置きますね」


 柿坂がわざわざ二胡の弓を左手に持ち替えて右手を差し出したにも関わらず、澄子はベンチの端にそっとペットボトルを置くとすぐにその場を離れた。


 ――。


 誰が見ても不可解な行動なのはわかっている。


 耳が痛くなるような沈黙に押し潰されそうになったが、柿坂が微動だにしないのを見て、かえって澄子は覚悟が決まった。


「は、ハイテンションの変な女、そう思っていませんか」


 間髪入れず、柿坂の口だけが動く。


「遠慮なく言わせてもらえば、かなり」


「……ご、ご迷惑ですよね」


「自覚があるなら、よせば良いと思いますよ」


 柿坂の目は、怒りというよりも呆れた色を浮かべていた。

 澄子の中でも、最初にこの男と出会った時の恐怖が薄れつつある。

 いや、たぶん慣れてきたのだろう。


 澄子は、柿坂に向かってゆっくりと、そして真っ直ぐ腕を突き出した。


「どうにか……この距離までは平気なんです」


 柿坂は相変わらず怪訝な顔のままだ。

 構わず澄子は続けた。


「自分の意志で、片腕分まで近づけた男性は、あなたが初めてなんです。か、片腕っていうのは、えっと、柿坂さんが、こ、こうやって二胡の弓を引いて……腕を伸ばす時の距離です……」


「……」


 澄子のぎこちないジェスチャーを柿坂が無言で見つめる。


 ――ダメよ、ちゃんと話さなきゃ。

 

 この寒さと緊張で身体の震えが止まらない。しかし、澄子は勇気を振り絞った。


「ごめんなさい。わたしも自分が普通じゃないのはわかってます。わたし……えっと、その……実は昔のトラウマのせいで、同世代の男の人が今でも怖いんです。だけど、これでも……こうして無理に声を張り上げてでも、生活に支障がないように会話するまでは何とか頑張ってこれました。でも、身体に触れられるのは、まだ怖いんです」


 両手で分厚いストールを押し掴み、大きく息を吸う。


「だから、あの時……二次会の時は、本当に柿坂さんに助けられたって思っています。そんなつもりなかったかもしれないですけど、わたしは、その、すごく嬉しくて、お礼が言いたくて……でも、かえってそれがあなたに負担かけていたことに気づかなくって」


 すると、柿坂がペットボトルに手を伸ばしながら言った。


「ああ……だからだったんですね」


「え?」


「これを差し出したアンタの手、見てわかるくらい震えていたんですよ」


「……」


「二次会の時も、先週も……私が怖かったんですね。そういうことでしたか」


 いただきます、柿坂はキャップを開けて一口飲むと、澄子を見つめた。


「でも……それで、私にどうしろと言うんです?」


 あれだけ怖いと感じた柿坂の目が、明らかに困惑している。


 澄子は背筋を正した。


「このままで良いんです」


「……はい?」


「時々、お会いして、柿坂さんのお話と二胡の演奏を聴きたいだけです。ダメですか?」


 柿坂は片方の目だけ細めると、押し殺したような声で言った。


「……アンタね。たった今、男嫌いだって言ったばかりでしょうよ」


 不機嫌そうな声色に澄子は慌てた。


「た、たぶん男嫌いとは違うんです。来年四十歳で、もう諦めましたけど、結婚とかしたかったですし……。でも、女として見られて……好意を向けられた瞬間、どうしようもなく怖くて、突き放したくなるんです」


「……」


 ――こんなこと、話してどうするの。だって、これじゃ、まるで。


 澄子は一瞬躊躇したが、溢れ出る想いは止まらなかった。


「でも、男の人とお付き合いして、ましてや結婚して身体を重ねないなんて、あ、有り得ないでしょう?だから、わたしには無理なんです。本気で好きになったら、もうその恋は終わりなんです。いつも、わたしから引き下がって、それで」


 急に涙が込み上げ、澄子はこらえるようにストールに顔を埋めた。


 ――本当に、わたしってば何を言っているの。


 会って間もない相手に、結婚だの身体だの――。


「それで、一人で生きる覚悟でも決めたということなんですか」


 柿坂は、二胡の弓を右手に持ち替え、緩い音を出した。


 なぜか、その音に救われた。

 澄子はこぼれ落ちそうな涙をこらえると、声を張り上げた。


「は、はい。とっくに覚悟は決めています。保険も見直したし、墓地だって探したし、遺言書も書いてあるんです」


「それは、また随分と本格的な覚悟をしましたね」


 柿坂は驚いたような顔で、少しだけ頬を緩ませた。


 ――笑った。


 全身の力が抜け落ちるような錯覚。

そして、じんわりとした火照りが包み込む。


 弾むような細かい音色。


 軽やかに動く左手の指に、澄子は見とれた。

 その指先を追いながら、思わず口が開く。



「柿坂さんは、ごけ、ご結婚されているのですか」


「イヤ。独りですけれど」


 また、いつもの鋭い顔つきに戻る。澄子は慌てて頭を下げた。


「すみません、失礼なこと聞きました」


「……いいえ。ただ、から、突然そんなことを聞かれるとは思いませんでした」


 そして、もう一度、困ったように笑った。


 そのキツネの寝顔みたいな笑みは、澄子の胸に刻まれた。


 ――あ、もう、これは確定だ。


 澄子は、ギリギリまで柿坂に近づいて、頭を下げた。


「わたし、和泉澄子といいます。また、ここに来ても良いですか」


「構いませんけど……風邪ひきますよ」


「それは、柿坂さんだって同じでしょう?」


 緩やかな音を出しながら、柿坂は少しだけ上を向いた。


「私は、あの枯れた木立ちを見ながら、こいつを弾くのが落ち着くんです」


 その鋭い目が、一瞬だけ何かを慈しむようなものになる。



 澄子は、落ち葉の中をたたずむポプラの木々が羨ましくなってしまった。

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