二〇一六年十月三十日 2016/10/30(日)昼間
ハロウィン・コンサートの当日、澄子は寝起きから憂欝だった。
本来なら、楽しみで仕方がないコンサート、今回だけは行こうか行くまいか、本気で悩んだ。
――この一週間の間に、謝っておけば良かった。
当然、柿坂からの連絡はなく、澄子も返事が来なかった場合を思うと、怖くてメールも送れなかった。電話なら、なおさらだった。
それでも、約束は約束だ。
澄子は、意を決して支度をすると、大きく深呼吸をして、部屋を出た。
コンサート会場は、バレンタインの時と同じショッピングモールの広場だった。あの時は、もっと遠巻きにしか見られなかったことを考えれば、二人の関係は確実に近づいている。澄子は、そうやって自分を励ましながら、開演を待った。
徐々に観客が増え、フロアの隅まで立ち見客が出てきた頃、コボックのメンバーの一人が、音響のチェックなのか、ステージに現れた。
その時、一番前の澄子に気づくと、驚いたように目を見開いた。そのまま、小さな会釈をしてきたので、澄子も慌てて頭を下げた。
直後、次々と吸血鬼に扮したメンバーが出揃い、軽い音合わせが始まった。
――。
いつもの光景、その中に、柿坂の姿がなかった。
舞台袖に目を向けたが、そこには、誰もいない。澄子の携帯にも、柿坂からの連絡はない。
あたりを見渡しているうちに、ドラムロールが始まった。拍手が沸き起こる中、地鳴りのようなベース音とギターが鳴り響く。
今か今かと柿坂の登場を待っているうちに、コンサートはそのまま最後の曲まで終えてしまった。
澄子は、終演後もしばらく動けずにいた。
――どうして。
いつも、何があっても、安心させてくれる人なのに。
――。
その時、音響のコードを片付けに出てきた若いギターの青年が、澄子に気づいた。吸血鬼の格好のまま、顔を赤らめながら慌てて頭を下げてくる。
澄子は青年に少しだけ近づくと、思い切って声をかけた。
「あ、あの……こんにちは」
相手も困惑したような表情で、挨拶を返してきた。
「い、和泉さん……こんにちは……えっと、何でしょう」
「柿坂さんは……」
青年が首をかしげた。
「いや、今日は休みですけど……」
「え!」
澄子の驚いた声に、青年も肩をビクつかせた。さらに顔を赤くしながら、澄子を見つめる。
「……もしかして、柿さんから連絡がなかったんですか?」
「……」
青年の口元が『マジか』と動いた。そして、困惑気味に笑みを浮かべる。
「柿さんがいないのに見に来てくれるなんて、良い人だなってメンバーで感動していたんですけど……そうか……知らなかったんですか……」
「柿坂さんは、どうして今日は……具合が悪いとか……?」
澄子の問いかけに、ギターの青年は、首を振った。
「いや、何でも急に実家に帰る用事が出来たそうなんですよ。予定が前倒しになったとか何とか。こんなこと初めてだったので驚きました。昨日、せっかくドラキュラの衣装合わせをしたんですけどね。メッチャ、似合ってたのに……」
青年の語尾が徐々に小さくなる。押し黙ったままの澄子に、もう一度頭を下げた。
「す、すみません。ベラベラと余計なことを」
「こちらこそ、押しかけてしまってごめんなさい。ありがとうございました」
声を詰まらせながらも、澄子はギターの青年に礼を言った。
相手も、泣きそうなくらいに眉を寄せた。
「あの、こんなこと言っても気休めかもしれませんけど、柿さんは……この季節はいつもナーバスなんです。気にしない方が良いですよ」
「え?」
「もちろん、あからさまに不機嫌になるとかじゃないんですけど……いつも以上に喋らないというか……近寄りがたいというか」
その時、ギターの青年が澄子の背後に何かを見つけた。そのまま、やや訝しむような表情で頭を下げる。
澄子が振り返ると、そこには見覚えのある女が立っていた。
緩やかな長い髪に、意志の強そうな目――。
柿坂に、二胡を習いたいと付きまとっている例の女だ。
「あ、えっと……柿さんなら、今日は休みなんですよ」
ギターの青年が、再び困った笑みを浮かべて女に声をかけた。
澄子は、愛しい人がこの場にいないことに、思わず安堵してしまった。
妙な気まずさの中、澄子は、ギターの青年に頭を下げると、女の横を通り過ぎた。
「ちょっと、待ってもらえます?」
そこへ突然、空気を裂くような鋭い声が飛んだ。
女が、顔を強張らせながら、澄子を振り向いた。
「今日は、あなたに話したいことがあるんです」
女に連れてこられたのは、ショッピングモール屋上の駐車場だった。
冷え切った空気の中、無言のまま先を歩く女は、近くで見ると澄子より一回り以上は若いことがわかった。顔立ちもハッキリとして、いわゆる美人タイプだ。羽織ったストールのせいで、スタイルの良さはよくわからないが、行動の一つ一つに自信が溢れている。
花見の日には、満面の笑みで会釈をされたが、あれも挑発のつもりだったのだろう。
――今は、すごく無愛想だけど。
一番奥に停められていた薄いグレーの車の前まで来ると、女が澄子のためにドアを開けた。
「どこへ……連れて行くつもりですか」
さすがに澄子は警戒した。初対面の、しかも決して関係が良いとは思えない相手の車に安易に乗りこむほど馬鹿ではない。
すると、女は澄子に車の鍵を手渡し、自分は助手席に乗り込んだ。シートにはコンビニの袋に入ったペットボトルのドリンクが二つ転がっている。
「……」
「話がしたいだけです。一緒に、お洒落なカフェに行くとでも思いました?あと、敬語やめてください。私の方が若いですから」
――。
澄子は、鍵を握りしめると、回り込んで運転席に乗り込んだ。
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