二〇一六年十月三十日 2016/10/30(日)夕方

柔らかな香りが漂う。それだけで、澄子は緊張した。


 息を潜めたような車の中、弱々しい薄日が差し込む。


「……どうして、この人なの……」


 ふてくされたように女がつぶやく。しかし、それもつかの間、今度は吹き出すように笑い出した。


「でも、ひどいですね。誠司さん、何も話してないんだもの」


 一瞬、身体が強張った。


 ――柿坂さんの……名前。


 澄子は口の中が苦くなるのを感じた。女が笑いながら澄子を見つめてくる。


「心配しないでくださいね?私は、もう彼のことは諦めましたから」


「……」


「今日は、あなたにも大事なことを伝えにきたんです」


 女の、人を小馬鹿にした口調が気に入らなかった。澄子も助手席の相手を真っ向から見つめ返した。


「わたしは、和泉澄子といいます。柿坂さんとは知り合って一年も経っていませんけど、真剣に向き合おうと思っています」


「はい?」


「自己紹介してください。素性もわからない人と、あの人のことで話をするつもりはありません」


「……敬語はやめろって言ってんのにさ」


 明らかに女の顔に不快の色が浮かんだ。それでも、澄子は一歩も引く気はなかった。


「あなたが、柿坂さんと関わりがある人なのは知っています。でも、わたしには関係ない。わたしが気になることは、あの人に直接聞きます」


 澄子の言葉に、女は少し唖然とした表情を見せた。


「……変な女」


「何とでも言って。わたし、自分がまともなんて、思ったことないの」


 帰ります、そう言うと、澄子は車のドアに手をかけた。


「待ちなさいよ。直接、あの男に聞くって何を?」


 吐き捨てるような、しかし嘲笑うような言い方だった。


「気になっているんじゃないですかあ?彼があなたと距離を置く理由を」


「そんなこと、あなたには関係――」



「やめた方がいいですよ。あんなゲス男」



 ――。



 うまく、聞き取れなかった。


 振り返ると、女は泣きそうな顔で笑っていた。


 澄子は震えそうになるのをこらえ、声を押し殺した。


「……変なこと言わないで」

 

 対して女は、勝ち誇ったように口の端を持ち上げた。


「少しは話を聞く気になりました?ああ、自己紹介しますね」


 女は後部座席に手を伸ばし、ビニール袋に入っていた紅茶のペットボトルを澄子に手渡した。


「私の名前は、佐藤香織です。誠司さんは私のことを知らないみたいですけど、私はよく知っているんですよ。まず、誠司さんと私の祖父母が知り合いで、実家も近所なんです。私は両親が離婚したせいで、滅多に田舎には行かないから、誠司さんとは今まで顔を合わせたことがなかっただけです」


「……」


「誠司さんの実家は、わりと大きな一軒家だったんですけど、誠司さんもご家族も誰も住まなくなったからって、だいぶ昔から私のおじいちゃんが借りているんです。少しだけ改装して『小さなホテル塩山』というペンション経営しています。ああ、塩山というのは、私の祖父母の名字です」


 証拠とばかりに、香織は携帯端末で画像を見せてきた。そこには、山々に囲まれた洋館のような建物がある。


 澄子は、自分より先に香織が柿坂の故郷を知っていることに、わずかな敗北感を抱いた。


 そんなことは知るはずもなく、香織が話を続ける。


「さっきも言いましたけど、私は両親が離婚して、母方に引き取られたから、塩山の祖父母には時々しか顔を見せに行かないんですけど……二年くらい前かなあ。久しぶりに一人で会いに行った時、初めて誠司さんを見かけたんです」


 香織が、丁寧に塗ったマニキュアを眺めながら言った。


「家を貸し借りしている関係ですから、修繕やら何やらで、時々は誠司さんも祖父母に会いに行ったんでしょうね。私も、普通に挨拶しようと思ったんですけど」


 そこで、挑発するかのように、香織は横目で澄子を見た。


「背も高くて、ちょっと影がある感じがカッコ良くて……うかつに近寄れない雰囲気がたまらなかったんです。私、もう一目惚れですよ。というか、あなたもそうでしょう?」


 しかし、澄子は無言のまま一切の反応を拒否した。


 香織はつまらなそうにため息を吐くと、再び口を開いた。


「どうにかして、あの誠司さんを振り向かせてやろうと、私は決めたんです。だけど、おじいちゃんたちに知られると面倒だから、名前も伏せて、ずっと様子見していました。二胡をやりたいって言えば、心を開くかと思ったけど、全然ダメでしたねぇ。ああ、お茶どうぞ?」


 澄子が首を横に振ると、香織は気にする風もなく、自分のペットボトルを口にした。


「そうしたら、最近になって、私のおばあちゃんが転んで怪我しちゃったんですよ。それに体調も良くないから、今年いっぱいで、ペンションを閉めることにしたんです。来年には、二人で施設に入ろうって決めていたみたいですけど、急にそれが早まったらしくて、今日、そのための引っ越しなんだそうです」


「今日……」


「誠司さんは、その手伝いに行ったんですよ。貸していた家が戻ってくるわけだし、色々と手続きとかあるんでしょうね」


「それでも、急な話だと思うけど」


「老人なりに、心配かけたくないって、黙っていただけですってば」


「じゃあ、誰が引っ越しの話を柿坂さんに連絡したの?……あなた?」


「まさか」


 そこで、香織は身震いするように両肩を抱えた。しかし、その顔には笑みがある。


「誠司さんの、お母さんだと思いますよ」


「……え?」


 香織は、茶を一口飲むと、ゆっくりと息を吐いた。


「あれは、夏休みだったから……八月か。たまたま祖父母のペンションに出かけた時、ちょうど、女の人がお客さんで来ていたんですよ。宿泊客じゃなくて、単に知り合いみたいだったけど、うちの祖父母は、懐かしそうに話をしていました。その時、その女の人が誠司さんのお母さんだと紹介されたんです」


 ――。


 澄子の中に、違和感が沸き起こった。


 しかし、口を挟む間もなく、香織は話を続ける。


「随分若いと思ったけど、単に若く見えるだけかもしれません。しかも、病気がちで、長い間入院しているようなことも聞きました。私、そのお母さん経由で誠司さんに近づこうなんて思ってしまって。だから、鈴峰町の花火大会に連れて行ってあげたんです」


 

 ――。


 澄子は花火大会のコンサートで、香織の隣にいた人物を思い出した。


 少し生気を失った、五十代くらいの女。


「お母さん、とても喜んでくれました。花火も綺麗だったし。でもね」


 徐々に、香織の笑い方が不自然になってきたのは気のせいか。


 その暗い目で、澄子を見つめる。


「帰り際に、あの母親は私にこう言ったんですよ」


 すう、息を吸い込む音がした。


「……『あの子、しばらく見ない間に、だいぶ二胡は下手になったわね。指使いが雑だわ』」



 次の瞬間、香織の顔から笑みが消えた。


「『きっと、セックスも……前戯から最後まで雑になってるわね』」



 ――。


 目の前の女が、泣きそうな顔のまま声を上げて笑った。



「私をからかっているのかと思いました。でも、母親の顔にまるで悪意がないんです。むしろ、本当に心配そうな顔をしていたんですよ。そこが、本当に気味悪かった。おかげで、私は一気に気持ちが冷めちゃったんです」



 香織が、澄子の顔を覗き込む。



「だって……母親とセックスする男なんて、有り得ないでしょう?」


 耳元で、何かが脈打つ感覚があった。


 澄子は無意識に首を横に振っていた。


「嘘。全部……嘘よ」


「嘘じゃないですよ。お望み通り、本人から聞き出したらどうです?話してくれるはずないですけど」


「柿坂さんのご両親は、亡くなっているんです。高校時代の同級生もそれを知っている。その人は、柿坂さんのお母さんじゃない」


 ――絶対、違う。


「それじゃあ、何ですか?私の祖父母たちが嘘をついたとでも?」


「それでも、違うのは違います!絶対に……!」


 女二人の声が、冷たい車内に散らばる。


 香織が、ため息を吐いた。


「確かに、血が繋がった母親とは紹介されませんでした。でも、どちらにしても問題があるでしょう?」


「……」


 澄子は、先週の公園での柿坂の言葉を思い出した。


 『説明するには、なかなか難しい相手』


 首のあたりを、汗が流れる。


 それでも、澄子は呼吸を落ち着かせると、香織を真っ直ぐに見つめた。


「その母親らしき人は、どうしてあなたに……柿坂さんとの……そのことを話す必要があったんですか」


「そんなの簡単ですよ。大好きな息子を取られたくないからでしょう?」


 澄子は直感した。


 ――それで、わたしのことも。


 花火コンサートでの、値踏みをするような眼差し。


 ――柿坂さんに近づく人間を、観察していたんだ。


 あの花火の夜、もしかしたら、柿坂は女と接触したのかもしれない。


 ――だから、急にわたしとの関係も不安になったの?



 あの、苦しそうな瞳。


 怒りと悲しみに満ちたような眼差し。




 『今の、このままの関係が一番幸せだと思いませんか』



 愛しい人の声が、耳に蘇る。


 それと同時に、澄子は少しずつ冷静さを取り戻した。


 澄子はジャケットの合わせをグッと握りしめると、香織に向き直った。


「話してくれて、ありがとうございます」


「どういたしまして。役に立てたなら、良かったです」


 女のどこか勝ち誇ったような顔を、澄子は見つめた。


「あとは、柿坂さんに聞いてみます。その女の人、名前をご存知なら教えてください」


 香織はポカンと口をあけた。


「何、言ってるんですか?」


「その、母親らしき人の、名前を教えてください」


「まさか、諦めるつもりないの?本気?」


「諦めた人には……そもそも関係ないでしょう?」


 呆気にとられながら、香織は指で宙に文字を書こうとした。そこで、ふいに指を止める。


「あれ?そうか……名字が違うから、ちゃんとした母親じゃないのかしら」


「柿坂、じゃないんですか」


「本人から、林……芽衣と紹介されたんですけどね」


 澄子の、役所勤めの知識がここへきて役に立った。


 香織に小さくうなずいてみせる。


「もしかしたら、中国か台湾の人かもしれない」


「え?」


「国際結婚であれば、手続きをしないと夫婦別姓のままだから。それに、柿坂さんが二胡を始めたのは……きっとその人の影響なんだと思う」


 ――あのプロ並みに上手い柿坂さんの二胡を、下手になったと、言っていたのだから。


 澄子は自分の手帳に『林芽衣』と記した。


「ねえ、あなた正気なんですか?」


 香織が声を立てて笑った。


「話してくれるはずないでしょう?というか、そんなに良いですか?気持ち悪い性癖の男なんて」


 その侮辱的な言葉に、澄子は腹が立った。


 それは、自分が愛しい人を信じている証拠でもあった。


「柿坂さんは、きっと、その女性との関係を整理したいんです」


「何それ?ずいぶん前向きというか、おめでたい展開ですね」


 小馬鹿にしたような笑みも、わずかに戸惑いが浮いている。澄子は、香織を真っ向から見つめ返した。


「だから、わたしも全部確認したいんです。わたしと柿坂さんは、どんなことでも伝え合う関係を目指しているんです」


「は?」


「あなたは、そうやって柿坂さんを諦めたらいい。どういう理由でわたしにそんな話をしたのかわからないけど……それすらも、わたしには関係ないことなのよ」


「……」


 澄子は、柿坂の鋭い目を思い出した。

 その奥にある、愛しい人の苦しみ――。


「柿坂さんは、きっと……整理した上で全部話をしようとしたんです。何もかも隠し通して素知らぬフリだってできるのに、わたしに伝えようと思うから、あんなに苦しくて辛そうで」


 もちろん、香織の話が本当であれば、澄子の心が波立つのは間違いない。


 自分の気持ちに自信がなくなることもあるだろう。



 ――でも。



 愛しい人は、ただ唯一、澄子のトラウマを知りながら、そばを離れなかった男だ。


 その人が苦しんでいるのに、何の理由も事情も知らないで、自分は逃げるわけにいかない。


「あの人は、絶対に嘘はつかない人です。ちゃんと整理をしたら、夜はわたしの誕生日をお祝いしてくれるんです……」



 澄子は、柿坂の想いに、うっすらと涙を滲ませた。


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