二〇一六年十二月三日 2016/12/3(土)15:42
タクシーの前で塩山が待っていた。その心配そうな顔に、澄子は申し訳ない気持ちになりながらも、涙をこらえることができなかった。ハンカチで顔を覆い、何度も頭を下げる。
「ごめんなさい……っ」
「いや、いい。平気か?」
「……すみ、ません」
「気にするな。駅まで送る」
後部座席に乗り込むと、澄子は堰を切ったように泣いた。
塩山も無言でエンジンをかける。そのまま車は、緩やかな坂道をゆっくりと下っていった。
悲しいのか、悔しいのか、よくわからない感情が込み上げる。
これは、何のための涙だ。
自分への憐みか。
柿坂への憐みか。
浅くなる呼吸が、不安を煽っていく。
――どうしたらいい?
西日の鋭い光が、車中の澄子を照らす。
――今まで、迷った時はどうしてきたの?
――『私のことで何か気になるなら、遠慮せず全部、私に聞きなさい。きちんと答えを出しますから』。
「柿坂さん……」
自然と、愛しい人の名がこぼれ落ちる。
「柿、坂……さんっ」
その鋭い眼差し。
二胡の音色。
そっけない喋り方。
――大好きです。
照れ隠しに持ち上がる片方の眉毛。
眠ったキツネのような優しい笑顔。
細長くて男らしい指先。
――大好きです。
そして、たくさんの――言葉。
――『そうやってアンタはプログラミングされちまってるんだから、仕方ねえでしょうよ』。
――『そんな軽い言葉で、片付けられる関係じゃねえと思っています』。
――『何のために生きていくのかは、今ここでアンタが決めなさい』。
――『気持ちを向ければ向けるほど、それ以上の覚悟が必要なんです』。
「か、きさか……さん」
――『私と幸せになりませんか』。
「今まで、全部……わたしと……」
一緒に乗り越えようとしてくれたんですね。
「会いたい……」
あなたの、声で、言葉で、わたしを前に向かせて――。
枯れ葉が舞い散る坂道を、タクシーは勢いよく飛ばす。
「スミちゃん」
塩山がバックミラー越しに笑みを向けてきた。
「ありがとよ!」
そして、駅がある方向とは逆に、大きくハンドルを切った。
「会ってやってくれ」
――。
「……誠司が、朝からずっと待っているんだ」
小高い丘の上に、ペンションの駐車場の案内があった。閉鎖の知らせを書いた紙が貼りつけられている。
そして、さらに高台にある薄茶色の建物が、木々の間から見えた。
坂の途中で、塩山がタクシーを止めて外に出た。
「あそこに見える茶色いのが、ペンションだった建物だ。手前には、離れがあって……まあ、物置にしていたみてえだけど」
澄子は色づいた木の葉が舞い落ちる中、しばらく立ち尽くした。
――。
「あ」
風がやって来る方を見つめる。
「どうした?」
塩山が怪訝な顔をした。
「……聞こえる……」
木々のざわめきの中、澄子は耳を澄ませた。
落葉の中をすり抜けるように、音色が届く。
――『二泉映月』。
あの、想いを伝え合った冬の日――ポプラ公園で澄子を待ちながら、柿坂がひたすら弾いていた曲だ。
澄子は、細かな音に導かれるように、歩き出した。
「おう、スミちゃん」
塩山が後ろから声をかける。
「馬鹿によろしく言っておいてくれ。オレは帰るぞと」
「塩山さん」
「こんな田舎だけどよ、また遊びに来てくれや。二人でな」
走り去るタクシーが見えなくなるまで、澄子は涙を滲ませながら頭を下げ続けた。
枯れた木々が途方に暮れたように立ち並ぶ中、澄子は音色を求めて歩き続けた。
冷たいつむじ風に落ち葉が振り回される。握りしめ過ぎて、皺くちゃになったストールがそっと揺れた。
駐車場の裏手を回り込むと、思いのほか近くに離れの建物はあった。物置だと聞かされたが、それにしては立派な佇まいだ。灰色のドアと、小窓が一つ。
ヒィン。
その小さな窓から、かろうじて届いた高音のメロディ。
澄子は、浅くなる呼吸を落ち着かせ、そっと中をのぞいてみると、向こうの窓から差し込む西日を受けて、何かが揺れているのが見えた。
大きな梁から吊るされた――。
――ハンモック。
「柿坂さん!」
駆け出しながら勢いよく開けたドアに、落ち葉が舞う。
木々と枯草のざわめきに包まれた時、途端に、二胡の音が途絶えた。
冷えた空気をまとうように――。
愛しい人が凍りついた表情でハンモックに座っていた。
しばらくして、柿坂は再びゆっくりと二胡の弓を引き始めた。
低い音を鳴らしながら、澄子を見つめる。
そこには、間違いなく疑惑の色があった。
澄子は、その眼差しに切なくなりながらも、小さくうなずいてみせた。
「大丈夫です……あなたの過去は全部……皆さんから教えていただきました」
「……」
「ご両親が亡くなった経緯も、施設で暮らしていたことも、喧嘩していた学生時代も、そして」
澄子は、真っ直ぐに柿坂を見つめた。
「芽衣さんと身体を重ねてきたことも」
「……」
「もちろん、ショックでした。でも、柿坂さんが芽衣さんと関係を続けた理由もわかりましたから……生きていくために必要なことだったんだと、そう考えることにしました。だから、この話は、もう……いいんです」
澄子は、そこで大きく深呼吸をすると、両手を固く組んだ。
「過去はなかったことにはできない、花火大会の日に柿坂さんが言ってくれた言葉です」
「……」
「わたしにも、それらを忘れさせる力はないけれど、あなたが思い出した時には、わたしが何とかしたいって思うんです」
単調な二胡の音。柿坂の呼吸に合わせて、ただただ繰り返される。
澄子は柿坂の左手を見つめた。
「そして最後は……やっぱり柿坂さんの言葉で聞かせて欲しいです」
「……」
「あなたしか知らない過去も……絶対あると思いますから。そうじゃなきゃ、全部知ったことになりません」
二胡の音が消え入るように止んだ。
「……そうですね」
柿坂はため息とともに、低く静かな声で言った。
「貴女にイヤな思いをさせてでも……私はここに来て欲しかったんです」
「……」
「どんな時も互いが信頼することを求め、自分は、その裏で常に疑ってしまう。私は、そういう風に出来上がった……酷い人間です」
すみません、柿坂はそう詫びると、再び二胡の弓を動かした。ゆるやかで哀愁のあるメロディは、最後に会った時、公園で弾いていた曲だ。
愛しい人は床の一点を見つめた。
「……母との思い出は、ほとんど覚えていませんが、ただ『こんなに愛しているのに』と言いながら、首を締め上げられたことは忘れません。あれ以来、私はその偽愛の言葉が嫌いです」
二胡の音色が、少しだけくぐもる。
それ以上、柿坂は母親のことは何も言わなかった。
澄子が小さくうなずくと、柿坂は安堵したように、息を吐いた。
「二十五年前……アンタが傷ついて苦しんでいた時、私にも、しんどいことがありました」
そして、弱々しい笑みを浮かべた。
「この場所で……私の父親が死んでいました」
――。
「あの日、父親は、部活動から帰宅した私を、離れに……この場所に呼びました。そして、後ろから角材で殴りつけてきたのです。抵抗したものの、意識が飛んで……起きた時には、この梁から父親がぶら下がっていました」
宙を見つめる柿坂の目はいつもと変わらず鋭いままだが、何の光も宿していない。その眼差しに、澄子は息を飲んだ。
かすかに、ハンモックが揺れる。
ギィギィ――延々と繰り返される軋み。
柿坂は、そのままじっと動かない。
まるで、今もそこに――。
澄子は、身を震わせながら、ようやく口を開く。
「か、柿さ」
「その日は、奇しくも母の命日と同じです。家族みんなで……あえて、その日を選んだのでしょうね。あの人が、私に手をかけた理由が芽衣との一件であれば、なおさら……私は死んでおくべきでした」
柿坂は瞬きもせず、視線をゆっくりと真上に向けた。
「二十五年前、死んだ父親を、この梁から引きずり下ろした時の冷たさが、忘れられません」
柿坂はそこで、再び弓を動かした。
そして、狼のような鋭い眼差しで澄子を見つめる。
「……今日は……アンタが生まれた日で、私の両親が死んだ日で……私が、二度も殺されかけ、二度とも死ねなかった日です」
――。
「家をペンションとして改装する時、この離れは壊すつもりでした。ですが、同時に忘れてはいけないという気持ちになったんです。戒めのつもりで……あえて残しました。命日に墓参りするのも、私が、父親が死んだときと同じ年齢になるまでは、続けようと決めたんです。それも……今年で最後となったのですが」
「……」
澄子は、ただ、ひたすらに押し黙った。
柿坂が気にするような素振りを見せたが、そのまま口を開く。
「あれ以来、大事な人間の体温が失われていくことを考えてしまって……人と上手く接することが出来なくなり、若い時は荒れた時期もありました。こんな事態を招いた、あの女の身体を貪って憂さ晴らしをするようなこともありました。自暴自棄……だったんでしょうね」
押し潰されそうな沈黙の中、風に吹かれた木々の音が聞こえる。
そこで、二胡の曲調が変わった。
「……父親が残した負債は私のためですから、自分ですべて片付けるつもりでした。それに、一時でも養ってくれた芽衣を心から怨むことも出来ず、そうかと言って心から信頼することも出来ず、妙な関係が続いていたのですが」
流波曲――。
苦しげに、柿坂が澄子を見つめた。
「……貴女と出会って、トラウマを乗り越えようと前を向く姿に、私も勇気づけられてきました。貴女が笑うたびに嬉しくて、安らぎを感じていたのです。それが、この気持ちに気づいた時……今度は怖くなったんです。必死に近づこうと頑張る貴女を、私は遠ざけました。もう、失うのはゴメンだと思ったんです。それでも……せめて私が死ぬ時に手を……」
柿坂はそこで言葉を切ると、首を小さく横に振った。
「とんだ卑怯者で、本当に貴女には、申し訳なく思っています。このハンモックは……せめてもの罪滅ぼしです。貴女の望みを一つでも叶えてやりたかったんですが、全然、足りないかもしれませんね」
その自嘲的な笑みに、澄子は胸が潰された。
――そんな顔しないで。
澄子は大きく息を吐くと、目を閉じた。
――気持ち。
「柿坂さん」
――よかった。笑えた。
「わたし、あなたとは結婚しません」
「……」
二胡の音が緩やかに流れる。
「子どもだって欲しくないです。だから、身体を重ねる必要もないんです。それに、わたしは一度だって、柿坂さんとそういうことをしたいなんて、思ったことないですから」
柿坂が小さく笑う。
澄子も、大きくうなずき返した。
「最初の頃、わたしも言いましたよね?一人で生きていく覚悟を決めたって。ホラ、保険だって見直したし、遺書も書いたし、一人用のお墓まで探してあるんですから。何より、柿坂さんも、一人で生きようとするわたしを尊敬していると……言ってくれました」
「……そうでしたね」
細かなトリル音が、寂しい部屋に浸透していく。
澄子は片腕を突き出した。
「か、柿坂さんが、わたしと近づくのが不安なら、またこの距離でも良いんですよ。けど、お昼寝くらいなら、大丈夫ですよね?遠慮しないで言ってください。何でも言い合える関係ですよ。お互い様です」
「……」
「わたし、この距離でも柿坂さんの二胡が聴けて、その綺麗な手を見つめられるなら、もう満足ですから」
「手?」
澄子は、顔を熱くさせながら、小さくうなずいた。
「……わたし、ずっと前から柿坂さんの左手が気になっていて……弦を押さえたり、調弦したりするたびに、見惚れていたんです。あと、お箸を持つ時の右手も」
愛しい人が、二胡の竿と弓を手放して両手を見つめた。その動作に胸が締め付けられる。
「き、気づいてなかったですか?あの……これからも、見つめるくらいは良いですよね」
「それで、アンタは幸せなんですか」
「も、もちろんですよっ」
柿坂が目を細めた。
「……それなら、どうして泣いているんです」
その鋭い眼差しが、困ったように笑った。
頬を熱いものが伝った。
――。
「本当だ……わたし、どうして泣いているんでしょう」
ちゃんと、最初は笑えたのに。
「本当にそれだけで幸せなんですよ。本当に……それだけで……嘘じゃないんです」
もう、何も見えなくなる。
「それだけでも良いから、わたしは、誰よりも、あなたが信頼できて、安らげる存在になりたい……のに」
澄子は、両手で必死に涙を拭った。
「この場所で、あなたが死んでいたかもしれないって思ったら……」
愛しい人の姿を、目に焼き付ける。
「柿坂さんも言いましたよね?わたしたち、もう人生の半分が終わっちゃうんですよ」
――いつかは、必ずお別れする時が来る。
「だから……今が大切なんです。わたし、わたし……」
――あなたの左手ばかり見ていたのは、きっと、羨ましかったから。
「本当は……」
――あなたの一番近くにいる、あの楽器が、ずっと羨ましかった。
――その距離。
一歩、澄子は小さく足を踏み出した。
「わたしも、柿坂さんと一緒にいると……安心、するんです」
次第に、呼吸が浅くなる。
枯れ枝が音を鳴らすように、耳の奥が鳴りだす。
「こんな気持ち、あなた……以外に……考えられないんです」
澄子を前にした柿坂が、驚いたように鋭い目を見開いた。
そんな愛しい人を真っ直ぐ見つめ返す。
「わたしは、もう、逃げません」
ゆっくりと、床に膝をついた。
回り出す視界、懸命に頭を振る。
ずっと。
ずっと。
ずっと――。
無理やりに息を吸い込み、澄子は震える手を差し伸べた。
「わたし、本当に幸せです……あなたと出会えて……本当に」
――ホラ、見てください。
「だから……柿坂さんも……」
――ちゃんと、笑えているでしょう?
「わたしと、幸せに、なりませんか」
冷えた指先が、愛しい左手に触れた。
次の瞬間、肺が押しつぶされ、針が刺さったような痺れに襲われた。
目が回り、何も聞こえなくなる。
それなのに――。
涙がボロボロ落ちる。
大きな力に身体の自由を奪われる。
息も絶え絶えに、澄子は笑って――小さく抵抗してみせた。
「……苦しいよ……柿、坂さん……」
ここに確かに、生きている証が、温もりが存在している。
その温もりが――澄子を優しく横たえた。
「……そばに……いてくれ」
ハンモックの波に揺られながら、澄子は聞こえてくる愛しい人の鼓動に、ただただ耳を澄ませた。
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