二〇一六年十二月三日 2016/12/3(土)19:25
対向車のライトに照らされ、その眩しさに澄子は目を覚ました。
いつの間に、眠ってしまったのだろう。
恐る恐る運転席を見ると、柿坂もこちらに気づいた。
「起きましたか」
「す、すみません」
「いいえ……今朝、早かったでしょうからね」
インターチェンジから高速道路に入ったところまでは記憶がある。
今はすでに一般道に降りて、見覚えのある街並みが流れていく。
――。
まともに、柿坂の顔が見られない。
何を話せば良いのかもわからない。
――だって。
今日、初めて、愛しい人と――抱きしめ合った。
思い出すだけで、息苦しくなる。
ただ、この息苦しさは今まで味わったものとは違った。
きっと、とても大事な感覚――。
――これから、どうなるんだろう。
普通のカップルのように、手を繋いで、抱き合って――。
「ひゃう」
「どうしました」
驚いた柿坂が一瞬だけこちらを見た。
澄子は慌てて首を横に振った。
「何でもありません……ごめんなさい」
信号待ちで、自然と二人は顔を合わせた。
柿坂の顔が、徐々に、苦しげなものに変わる。
「……すみません」
「え?」
「……息苦しかったでしょう」
――。
澄子の身体に、締めつけられるあの感覚が、わずかに戻って来た。
もちろん、息も苦しかったけれど、それ以上に、あのしびれるような感覚は――。
――イヤじゃなかった。
「いいえ……わたし、嬉しかったです」
「……」
「上手く言えませんけど、その、柿坂さんの胸の音は……安心します。生きているって、わかるから……」
ふいに泣きそうになる。
「……わたし、やっと……柿坂さんと関係が深められるような気がします……」
そしてもう一度、強く優しく抱きしめ合って――。
――やだ、わたし。何を考えてるの?
身体中が熱くなる。
――もしかして、このまま。
今日、この記念すべき日に。
初めての――。
柿坂が、じっと澄子を見つめてくる。
愛しい人も、大切にとっておいてくれた、その瞬間を――。
「……和泉さん」
そっと柿坂が左手を伸ばしてきた。
――その時。
「いやッ!」
「え」
――あれ?
ほぼ同時に、背後からクラクションが鳴らされ、柿坂は慌てて車を発進した。
二人の間に充分すぎる沈黙が流れる。
しばらくして、柿坂がため息を吐いた。
「アンタの髪に、枯れ葉がついていたんですよ」
「へ」
ハラリと黄色い小さな葉が落ちた。
「……あ」
「それにしたって……どっちなんですか、アンタは」
柿坂が口をひん曲げる。
「関係を深めたいと言ったり、嫌がったり、本当に面倒な女ですよ」
「ごめんなさい……」
申し訳なさ過ぎて、それ以上の言葉が出ない。
さっきは、あんなに息苦しくても大丈夫だったのに。
いや、今も大丈夫なはずなのに。
――まさか、もう条件反射になっているとか。
落胆する澄子の隣で、柿坂が片方の眉を持ち上げた。
「まあ……何度も言いますが、私は、このままで充分なほど幸せですよ」
――幸せ。
澄子は、病床の芽衣の言葉を思い出した。
「わたしも幸せですけど……芽衣さんが、幸せは思い込みと勘違いでしかないって、言っていました。わたし、それを考えてから……少し怖くて」
すぐに、愛しい人がため息を吐いた。
「思い込みだろうと、勘違いだろうと、幸せに感じたなら、それは幸せなんですよ」
「……柿坂さん」
「今まで、さんざん……あらゆる『幸せ』を疑って生きてきた私が言うんです」
「……」
「こんなに、心が安らげる人と……一緒に……」
そこで、柿坂が不自然な咳払いをした。
「……さて。お誕生会といきますか」
「えっ」
「アンタが一つ老け込んだ記念に、ご馳走しますよ」
いつも通りの口調、一瞬だけ柔らかくなる目元に、澄子は顔を熱くした。
車がゆっくりと路地に入ると、温かな光が灯る小さなレストランが見えてきた。
――もしかして、予約してくれていたの?
澄子は急に申し訳ない気持ちになる。
「あ、あの……何だか高そうなお店をすみません。柿坂さんだって、今日はお疲れなのに……。それに、車だと柿坂さんはお酒飲めないですよね……」
「……アンタ、勘違いしてませんか」
車はレストランを素通りした。
「この私が、飲まねえはずがありません」
しばらく進んだ先、空き地のような駐車場でエンジン音が止まった。
車を降りると、曇りがかった暗い空の下で静寂が二人を包み込んだ。
「申し訳ないですけど、ここからは歩きでお願いします。いや……そもそも予約もしていませんでした。どうなるかわからなかったですから、今日はこれ……バンドの共用車で来たんです」
柿坂の困惑したような顔に、澄子は慌てて頭を下げた。
「す、すみません!あの、えっと、こっちこそ勝手なことを言いました……。何でしたら、わたし……別の日でも……」
すると、柿坂は自分にも言い聞かせるかのように、ゆっくりと口を開いた。
「……今日だからこそ意味があるんですよ」
その言葉の重み、澄子は胸に刻んだ。
涙が溢れそうになるのを、どうにかこらえ、愛しい人に笑みを向けた。
「つ、次は柿坂さんのお誕生日ですから。お祝いしますね」
そこで、先を歩いていた柿坂が足を止めた。
澄子は、柿坂の傷のある生い立ちを思い出し、再び頭を下げようとしたところで、愛しい人は小さく笑みを浮かべた。
「そうですね。アンタとなら……悪くないかもしれません」
「柿坂さん……」
「一緒に過ごしてもらえますか?」
胸に熱いものが溢れる。
澄子は身を震わせ、大きくうなずいた。
「も、もちろんです!そ、それで……いつなんですか?」
「私の誕生日は……」
すると、そこで柿坂が突然笑い出した。
何事かと澄子が口を開くより先に、
「本当、アンタにはかないません」
呆れたような眼差しが向けられる。
澄子は、いよいよ戸惑った。
「え、あの、どういう意味ですか……」
「ワンツースリーの日ですよ、私も」
愛しい人は、片方の眉を持ち上げて笑った。
「私の誕生日、一月二十三日です」
――。
「……柿坂さん」
「なかなか……良い具合じゃないですか。二人とも一歩一歩な感じが」
柿坂は小さく白い息を吐くと、ポケットから左手を出した。
「一歩一歩……アンタとの道のりは、この上なく幸せですから」
差し出されたのは、細くて、長くて、骨ばって男らしい――。
――小指。
「え?」
思わず声を上げると、柿坂の鋭い目が、柔らかく笑った。
「……どうか、ずっと……二人で」
――。
すべてが込められた強く温かな言葉。
澄子は涙を溢れさせながら、笑顔を浮かべた。
どんな痛みも、不安も、悲しみも。
何もかも愛おしむように――。
愛しい指先が、震える小指をそっと絡めとった。
【喪結玉の巻 完】
第二部へ続く
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