【かきこひわづらひ⑤】2016/12/10(土)午後

 昨夜の天気予報どおり、外は白いものがチラついている。


 薄暗いロビーのソファに腰をかけ、林芽衣は窓の外を眺めながら電話の相手が出るのを待った。


 数回のコール音の後、ようやく相手の声が届く。


「はい」


「私よ」


 二十年前から変わらないやり取り。

 それも、これが最後だと芽衣は思った。


 最後だから、色々と確認しておかなければいけない。


「誠司くん、澄子ちゃんと仲直り出来た?」


「……ええ」


「そう。良かったわ」


 そして、二十年前から変わらない沈黙。

 この空気、苦痛だと思ったのは――今日が初めてだった。


 芽衣は矢継ぎ早に言葉を紡いだ。


「私、あの子をたくさん泣かせてしまったわ。ごめんなさいね」


「平気ですよ」


「誠司くん」


 芽衣は一呼吸置いて、ゆっくりと口を開いた。


「許してもらおうとは思わないけど……あなたにも……ごめんね」


「……」


 雪が本降りになってきた。


 耳元でため息が聞こえる。



「お世話になりました」



 ――。


 芽衣は目をしばたかせると、自然と笑い声がこぼれた。


「何、それ。どういう風の吹き回し?」


 相手は答えない。


 芽衣は白い世界を眺めた。


「結婚してあげなさいよ。もう澄子ちゃんだって四十歳になるんだから」


 相変わらずの沈黙、芽衣はそれを自分から破った。


「ふふ、私が言うなって?それもそうだわ」


 風の中を雪が踊る。

 無理やりに、何かに翻弄されるように。


「……具合はどうなんです」


 かすれた声がする。


 芽衣は白くかすむ山の稜線を見つめた。


「平気よ。心配いらないわ」


「……」


「誠司くんには話してなかったけど、こっちはこっちで面倒を見てくれる家族がいるんだからね」


 え、という短い反応に芽衣は思わず笑ってしまった。


「私も、自分なんかが家庭を築けるなんて思っていなかったわ。あなたもそうでしょう?」


「……ええ、でも」


 安心しました、そう聞こえた。


 ほんの少し、胸が痛く熱くなる。


「人間って歳を重ねると、やっぱり変わるのね」


 芽衣は小さく咳き込むと、電話の向こうで押し黙る相手に、最後の言葉を贈った。


「あなたが好きなように、幸せになってちょうだい。じゃあね」


 相手の返事を待たずに、芽衣は電話を切った。


 ついでに、主電源も。


 耳鳴りがしそうなほど静かなフロアで、芽衣は一人笑った。


「本当、しょうがない子」


 肩から落ちかけたストールを巻き直して、芽衣はフラフラと立ち上がった。


「私に家族とか……そんなわけ、ないじゃないの」


 病室に戻り、ベッドに横になる。


 ――でも、これできちんと前を向いて生きられそうね。


 全て確認できた。

 もう、思い残すことはない。



 その時、ノックの音がした。



 看護師かと思ったが、そこに現れたのは、ジャンパーを着込んだ白髪交じりの男だった。


 ――。


「よう、芽衣ちゃん」


 上手く息が出来ない。


「……忘れたか?まあ、二十年以上も経てばお互いに変わるわな」


「塩山さん……」


 男――塩山輝之は手土産の袋を横たわる芽衣の腹の上に置いた。


「誠司に聞いたんだけどよ、芽衣ちゃんもオレの娘に会ってるんだってな?オレのこと……何も言ってなかったか?」


「……」


「いや、オレのことはどうでもいいや。母ちゃん……オレの元女房の話は聞いてないか?」


 芽衣は、ただ首を横に振った。上手く対応できず、睨むように塩山を見つめる。


 男はため息を吐いた。


「古くからの知り合いから聞かされたんだが、香織の母親も、ずっと病気らしくてな」


「……」


「まあ……先に出て行ったのはあっちだけどよ、男はダメだなぁ。捨てられて嫌われているのがわかっているのに、断ち切れない。ここに来る前に、久しぶりに連絡したんだよ。何か必要なものはないかってな。そうしたら、金が欲しいときたもんだ。冗談でも傷ついたなぁ。でも、金で元気になるなら、オレの年金も預金も全部くれてやろうと思った。香織を嫁に出すまでは、アイツを死なせるわけにいかねえから。こんな考え、今じゃ古いって言われるのかなぁ」


 塩山は困ったように笑うと、手土産の包みを広げた。小さな栗かのこが一つ、芽衣に差し出される。


 それを受け取らずに見つめたまま、芽衣は口を開いた。


「どうして……ここへ?」


 声が震える。


 塩山が栗かのこを食べながら言った。


「誠司に言われただけだ」


「誠司くん?」


「お前に……会って欲しいってな」


 ――。


「どうして、誠司くんがそんな……」


「知らねえよ。押し付けたかったんだろうよ。お前のことを」


 塩山が口をひん曲げた。


「確かに……芽衣ちゃんは家庭訪問のたびにフルメイクで出迎えてくれたな」


「……」


「早く言え、そういうことは。オレ、完全に怨まれていると思っただろうが」


 窓枠に雪が積もり始める。

 白い風が世界を染め上げる。


「もう若い奴らを巻き込むな。老い先が短い者同士で、片付けていこうや」


 塩山はもう一つ、栗かのこを口に入れた。

 芽衣は、それを眺めて笑った。


「もう、何もかも遅いわ」


「遅いか」


「そうよ」


 塩山が目を細めた。


「けど、怖いだろう」


「怖いわ」


 雪みたいに、溶けて消えてなくなれば良いのに――。


「でも、天罰だと思っているの」


「……自覚してんのか」


 塩山は呆れたように笑ったが、すぐに真顔になった。


「思ったより……悪そうだな」


 長い静寂、時計の秒針すら聞こえてきそうだった。


 窓枠の雪が落ちる音で、芽衣は笑みをこぼした。


「ふふ、天罰だなんて勝手よね。これでも、神さまは温情をかけてくれたのにね」


 当然だ。

 本当はもっと悲惨な結末であるべきなのだから。


 塩山は栗かのこを一つ手に取ると、芽衣の額にそれを優しくぶつけた。


「お前が罰を受ける時は、オレが誠司の代わりに最期まで看取るよ」


「やめてよ。無理に決まっているでしょう」


 最後の強がりだった。


「素直じゃねえなあ。この詐欺師」


 塩山が芽衣の顔をのぞき込むように笑いかけた。

 そして今度は、子供をたしなめるように指先で額を突いた。



「籍を入れるぞ。正々堂々とオレが喪主になってやる」


「……」


「さんざん人を騙してきたんだ。最後くらい、騙されたと思って乗っかれよ」


 和紙の小さな結び目が、ほどかれていく。

 栗かのこが無理やりに口に押し込められた。


「……心配すんな」

 


 愛しい人のその言葉に、芽衣は大声を上げて泣き崩れた。


【かきこひわづらひ⑤ 了】

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