二〇一六年十一月三日 2016/11/3(木)夕方
石畳の道を一歩進むごとに、そのまま地面に沈んでしまいそうな錯覚に陥る。
この並木道で辛く悲しい思いをしたことは過去にもあった。
しかし、これほど重たい足取りで歩いていくのは初めてだ。
それでも、愛しい人は何も変わらず、いつものベンチで二胡を弾いてくれるだろうか。
――そうあって欲しい。
香織から聞かされた、柿坂と母親らしき女との話。
あの車中では、香織を前にして気を張っていたせいなのか、やたらと冷静に受け止める自分がいた。しかし、日を追うごとに、それは大きな不安となって澄子の中を支配した。
昔の恋人くらいなら、覚悟はしていた。
柿坂が、澄子以外の女性と交際をして、深い関係になったことがある程度なら――。
――本当は、それだってイヤだ。
自分の幼稚なワガママなのは百も承知だ。考えたくもない。
こんな未熟な自分に、待ち構えているであろう真実。
到底、受け止めきれることのできない現実。
それでも、自分が壊れてしまっても。
――もう、逃げたくない。
雨中の桜の下で大泣きした日、愛しい人は傘もささずに追ってきてくれた。
――今度は、わたしが。
流れてくる音色は、今まで聴いたことがない曲だった。
伸びやかだが、どこか寂しげで訴えかけてくるような調子に、澄子は胸が締め付けられた。
柿坂は、いつもと違ってベンチの右側に座っていた。偶然かもしれないが、左側に座ることに、妙な違和感があった。それだけで、澄子は不安になる。
「こ、こんばんは」
仮に無視されようと、挨拶は伝えることにした。なるべく、いつも通りに徹したい。
柿坂も、いつも通りに弓を揺らしながら、澄子を目に留めると、口元に小さく笑みを作った。それだけで、澄子の両目からは涙が溢れた。
「か、柿坂さん、ごめんなさい……!」
「何で、アンタが謝るんですか」
柿坂が困ったような顔をする。
「何も言わずに、コンサートをすっぽかしたのは私です。それと……ずっと不安にさせたかと思います。冷静になれず言い過ぎました。こちらこそ、本当にすみませんでした」
澄子は、ようやく柿坂が自分を呼び出した理由を理解した。
先日の喧嘩別れのことと、コンサートの謝罪に決まっている。
柿坂は、自分の過去が疑われていることなど知らないのだから。
澄子は柿坂の表情をうかがったが、相変わらず伏し目がちに弓を振っている。
二胡の曲が『流波曲』に変わった。
お気に入りの曲――柿坂が、澄子を想ってくれているのがわかった。
――向き合うって決めたんだ。
澄子はハンドタオルで目元を拭うと、二回、深呼吸をした。
「コンサートの後、ギター担当の方から柿坂さんがお休みだった理由を聞いたんです。急に、実家に帰る用事ができたって……」
「そうなんですよ」
柿坂が、顔をわずかに澄子の方へ向けた。
「そのおかげで……十二月三日は、一日空けられました」
「えっ」
「ずっと、アンタと一緒に過ごせますよ」
柔らかな笑みだった。そこに宿る優しさに偽りはない。
それが、かえって澄子を困惑させた。
「で、でも……その日はご両親の命日で、お墓参りするはずでしたよね?」
「アンタなら、そう言うと思いました」
柿坂が困ったように首をかしげる。
「先日、帰った時に済ませました。心配いりません」
――。
澄子は、胸の奥に鈍い痛みを感じた。
努めて深い呼吸を繰り返すと、澄子はハンドタオルを握りしめた。
「柿坂さん、わたし……コンサートの後で、ある女の人と会ったんです」
「女の人、ですか」
「佐藤香織さんという方です。柿坂さんのご実家を……ペンションとして経営している老夫婦のお孫さんだそうです。いつも、柿坂さんに二胡を教えて欲しいと近づいていた……あの女の人です」
「それは、また」
柿坂は、少しだけ頭が痛そうな顔をした。
「……私も、その人のことを、借主の塩山夫妻から何となく聞かされたんですよ。まさかとは思いましたけど」
「え?」
「世間は狭いですね」
西日がポプラ並木を照らす。
遠くの方から、ボール遊びをしている子どもたちの歓声が届く。
弓を振りながら、柿坂が横目で澄子を見た。
「それでは、アンタは私が実家に帰った理由を知っているんですね。引っ越しの手伝いをしていたことを」
「……は、はい」
時々、柿坂の左手が小刻みに動くと、軽やかな二胡の装飾音が響いた。
澄子はじっと、お気に入りの音色に耳を傾けた。
弓の動きと、柿坂の呼吸が合わさる。
「本当、急で参りましたけど……用事が前倒しになったおかげで、アンタの誕生日は何とかなりますから」
「柿坂さん」
浅くなる呼吸を、大きく吸い込んだ。
「聞きたいことがあるんですけど」
「どうぞ」
澄子は、胸に押しとどめていた、女の名前をゆっくりと紡いだ。
「林……芽衣さんという方をご存知ですか」
沈黙になるのが怖い。
澄子は必死に口を動かした。
「香織さんから聞いたんです。花火大会の日、二人で一緒にコンサートも見たんだそうです」
柿坂は相変わらず緩やかなメロディーを奏でながら小さくうなずいた。
「知っていますよ」
短い答えに、澄子の胸は早鐘のように鳴った。
「そ、その人は……柿坂さんのお母さんですか?」
「え?私の母は、他界していると……話しませんでしたっけね」
――。
柿坂は地面の一点を見つめたまま、弓を振っている。
澄子は、震えそうな身体を、ぐっとこらえた。
「柿坂さん」
「はい」
呼吸が浅くなる――。
眩暈がしてくる――。
「ごめんなさい。わたし、もう……気になってしまって……」
まとわりつくような、二胡の音色――。
「さっきから、『流波曲』……ずっと同じメロディです……」
――。
ゆっくりと消え入るように、二胡の音が止んだ。
秋風がそっと、二人の髪を揺らす。
「……あの女のことを……どうやって」
柿坂の口調は何も変わらない。
ただ、ただ暗い目をしていた。
「香織さんから聞いたんです。わたしも花火大会のコンサートで……その、林芽衣さんという人と顔を合わせています。挨拶まではしていませんが……」
そこで、初めて柿坂が驚いた表情を見せた。
「あの女に……何かされたんですか?」
「いいえ、向こうから、わたしを見てきただけですけど……」
澄子は、もう一度、あの時の女の風貌を思い出した。
五十歳前後で、目はうつろ、顔は青白くて、生気がなかった。香織の話によれば、長い間入院していたとも――。
「柿坂さんが、ご両親の命日に会う予定だった人は……その人ですか?」
「……ええ」
静かに、柿坂が返事をした。
「先日……会ってきました。もう、二度と会うことはありません」
「ど、どうしてですか?」
「用がないからですよ」
――。
まだ、真相を聞く勇気が出そうにない。それでも黙っているのはもっと不安だった。
澄子は、柿坂の二胡を見つめた。
「あの、柿坂さんは……もしかして、その女の人に二胡を」
「……構えと弓の振り方、調弦だけですが」
「そう……なんですか?」
「彼女は別に二胡の指導者じゃありません。父親は著名な奏者だったようですが……その影響でやっていた程度です。私は、ほとんど独学なんですよ。プロになるつもりもなかったですから」
澄子は、呼吸を整え、ゆっくりと言葉を発した。
「それ以上、どういう関係の人か……知りたいと思うのは、やはり立ち入り過ぎですか」
柿坂が首を横に振った。
「少なくとも、あの女は母親ではありません」
「生みのお母さんじゃない……ということもあります」
澄子の言葉に、柿坂が口を歪めて笑った。
「ずいぶんと、疑ってかかりますね」
「……中国や台湾の人なら、名字が違うこともあり得ますから」
「あれは一応は日本人ですよ。父親は台湾人ですけどね。ただ……確かに、母親らしいこともしてきたかもしれません」
「……」
澄子は、膝の上で両手を固く握った。
「香織さんは、林芽衣さんと会ってから、柿坂さんを……その、諦めたそうです」
「……」
「あなたの過去を……その女の人から直接聞かされて……」
澄子は口元を押さえた。乱れる呼吸に、思わず咳き込む。
強い風が吹く。
西日を受け、背後で真っ直ぐに立つポプラの木々が、頭上から枝を鳴らした。
澄子は、涙目になりながらも、懸命に言葉を紡いだ。
「でも、わたしは……ちゃんと、柿坂さんと、話がしたかったから……わたしのトラウマを理解してくれた貴方に、今度はわたしが向き合いたいんです」
「……」
「わたしたちは、何でも気持ちを伝えられる、関係を目指しているんですよね?」
「……」
「本当は、今日だって、怖くて、不安で……でも、わたしは」
「和泉さん」
柿坂が真っ直ぐに澄子を見つめた。
その瞳は、暗く悲しげではあったが、口元には小さく笑みがあった。
「このまま……何もかも片付けられそうだったんですけどね」
「え?」
「間接的でも、聞いてしまったのでしょう?私と芽衣(ヤーイー)のことを」
「……」
「それなのに……」
柿坂は首を横に振った。
「貴女には、本当かないません。本当に……」
冷たい風が、愛しい人の前髪を揺らした。
「何でも伝え合える関係……もともと、それを望んだのは私の方でした。貴女には、謝らなければいけません。貴女に言われたとおり『ズルい』隠し事をしてきました」
「……」
柿坂は小さく頭を垂れると、ゆっくりと呼吸をするように言葉を発した。
「十二月三日……私の故郷を訪ねてください」
「え?」
「そこで、すべてを知ってください」
柿坂は二胡を片付けながら、目を伏せた。
「ただ……貴女一人で、お願いします。迎えを寄越しますから、私と縁がある人間と会って、直接話を聞いてください。ガキの頃から面倒見てくれた人たちですから、心配はいりません」
「どうして」
澄子は、ジャケットの襟口をギュッと掴んだ。
「どうして、柿坂さんから話をしてくれないんですか?どうして」
「……本当のことを知って欲しいからです」
柿坂は目を細めたまま、地面を見つめた。
「私がどういう人間で、どういう人生を送ってきたのか……あらゆる面から知って欲しいんですよ。自分から話せば、きっと無意識に、言いたくないことは避けてしまうでしょうから」
「……」
澄子はどうにかして言葉をかけようとしたが、上手く紡げない。柿坂はそんな澄子をいたわるような目で、見つめ返してきた。
「もしも……貴女が、私の過去を知った時に、途中で帰りたくなったら、遠慮せず帰ってくれて構いません。私への連絡も、しなくていいです」
「ま、待ってください」
澄子は首を横に振った。
「いくら柿坂さんのお知り合いでも、見ず知らずの女に話をしてくれるとは思えません。それに、誰だって告げ口みたいな真似、イヤに決まってるじゃないですか」
「きちんと話してくれるよう、頭を下げるつもりです。貴女の人柄と私との関係も……全部、伝えておきます」
「……」
「理解できないと思いますが、私が故郷の人間に、頼みごとをすること自体が初めてなんです」
ポプラの木々が音を立てる。
「目に見える人間……すべてを疑って生きてきました」
柿坂はそっと目を伏せた。
「そんな中、貴女と出会って、自分の中で少し変わり始めたんです」
「……」
「どんなに辛くても必死に前を向く……そんな貴女と一緒に見る故郷の景色は、違うかもしれない……そう思えた時、過去を見つめ直す気持ちになりました。まあ、こんな男と、関係を深めようとする女が現れたら、誰もが全力で止めるかもしれませんけど。それこそ、洗いざらい話してくれますよ」
自嘲気味な笑い方に、澄子の目には涙が溢れ出した。
「私はね、和泉さん」
首をかしげるように、柿坂が泣いている澄子を見つめた。
「貴女のことが、たまらなく大切に思えた時、貴女を失う覚悟もしました」
「柿坂さん……」
「気持ちを向ければ向けるほど、それ以上の覚悟が必要なんです。少なくとも、私は」
二胡のケースを背負うと、柿坂は腕時計を見た。
「三日の土曜日……最寄りの駅と時間は、あとでメールします」
愛しい人の小さな笑みが、徐々に消えていく。
何か言いたげで、それでも気持ちを押し殺すように、柿坂が口元を歪めた。
ゆっくりと左腕が伸びてくる。
細くて長くて、骨ばって男らしい、指先――。
澄子が胸を熱くしながら、自分の手を差し出そうとした時、
「一番、心地良くて、安心できて……幸せな距離でした」
柿坂は、そのまま腕を下ろすと、澄子に背を向けた。
【衰黄落の巻 完】
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