【かきこひわづらひ①】2016/02/22(月)午前
土地家屋調査士の白井麻人は、月曜日の朝から法務局に来ていた。
書類の申請手続きと、審査期間の短縮を依頼するためだが、目の前にいる男の鋭い眼光に睨まれ、さっきから胃液が逆流するような心地だった。
――よりによって、何で今日の担当が柿坂さんなんだ。
柿坂は、白井たち同業の中でも、厳し過ぎる公務員として有名だった。一部からは『公務の狂犬』とも呼ばれている。とにかく、提出書類に不備があると、どんな事情があっても、情け容赦なく次々とダメ出しをする職員だ。
――しかも。
今日は、マスクをしているせいか、いつもより目元が強調される。実は笑ってくれているかもしれない、という淡い期待を抱きながら白井は柿坂に今日の用向きを説明した。
「あの、申し訳ないんですが、今週中に審査手続きを終わらせていただきたいんです。この後に、対象地の売買が控えているみたいで……」
その時、柿坂はゴホゴホと咳き込みながら、つぶやいた。
「二千八百二十五番くらいです」
「は、え?」
「二千八百二十五番くらいの受付順です。受け付けた順番に審査します」
――。
要は、他の人たちの申請審査を追い抜かすといった、特別扱いはしないと言っているようだ。予想はしていたが、今日はいつになく機嫌が悪い。体調不良も原因だろう。
ここは、出直した方が良いかもしれない。
「そう、ですよね。すみません、無理を言って……」
柿坂はそれには答えず、ひたすら咳をしていた。苦手な相手とはいえ流石に心配になってきた。
「大丈夫ですか」
白井の問いかけに、柿坂が鋭い目をほんの少し見開いた(驚いているようだ)。なぜか、それに白井自身が動揺した。
「いや、あの、法務局の方たちも大変ですよね。この季節、忙しくなるし」
「そういったことなら、気にせずに。見解は覆りませんよ」
柿坂は目を細めて言った。どうやら、白井が柿坂の機嫌をとって、要望を聞いてもらうつもりだと勘違いされたらしい。それには、白井も少し不本意だった。
「僕……、私は、ただ柿坂さんが心配なだけです」
「は」
その時、柿坂の目がわずかに揺れた。
「何なんですか、アンタたちは」
「アンタ……たち?」
「……いや」
すると、柿坂はそのまま黙りこみ、机の一点を見つめた。そして、深いため息を吐くと、また咳き込んだ。
白井は、困惑しながらも柿坂に声をかけた。
「あの、不要な気遣いだったらすみません。でも、目の前で咳き込まれたら、誰でも心配になるのは普通だと思っていますから」
その言葉に、柿坂が白井を見つめ返した(怖かった)。
「……それは、どんな相手に対しても、ですか」
「は……?」
どういうわけか、柿坂がさらに具合が悪そうな顔つきになった。何か余計なことを言ってしまったのだろうか。白井は早くこの場から立ち去りたい一心だったが、目の前の男が書類を手に取ったままだ。早く返してくれとも言えない。
柿坂が押し殺したような声で言った。
「相手が心配だからって、具合が悪いと言っているのに電話をかけてくるのは、普通なんですかね」
「へ?で、電話……?」
――確かに、法務局に向かう前に一本電話は入れたけれど。
電話対応した受付係が柿坂に妙な取り次ぎ方をしたのかもしれない。
――それにしても。
見れば見るほど柿坂の具合は悪そうで、明らかに顔が赤い。どうやら熱もあるらしい。ただ、眼光だけは衰えていない。一体何の問答なのかまったく意味不明だ。それなのに、白井は地獄で裁判にかけられているかのような心地になって来た。
「ふ、普通かどうかはわかりませんけど、それだけ大切なことなら、なりふり構わず行動を起こす人はいると思います」
白井自身、無理だとわかっていながらも審査短縮をのために月曜の朝からこうやって頼みに来ているのだ。
「……大切」
そこで、さらに柿坂が咳き込んだ。いよいよ心配になってくる。
「……大切、か」
――。
気のせいだろうか。
柿坂の目が、少しだけ柔らかい表情を浮かべている。
「本当、困った人ですね」
そして、小さく笑った。
――わ、笑った?
白井は戦慄した。
これは、これで恐怖だ。
「あ、いや。えっと、出直します。次からは御庁を困らせないように気をつけます……」
白井は慌てて頭を下げた。すると、柿坂は咳き込みながら、書類を丁寧に綴じ込み、一番上の用紙に付箋をつけた。
『担当 柿坂』
そう書いてある。
「今週水曜日、午前に完了させます」
「えっ!」
白井は思わず、声を上げた。
「あ、ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ」
「は……?」
すでに柿坂の目には、いつもの鋭い眼光が戻っている。
しかし――。
「あの、今週中で間に合うんですけど、二日で処理してもらえるんですか」
それには答えず、柿坂は片方の眉を吊り上げると、首をかしげながら立ち去ってしまった。
【かきこひわづらひ① 了】
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