二〇一六年二月二十八日 2016/02/28(日)夕方
――わたしだって、何も努力してこなかったわけじゃないわ。
今までも、懸命にトラウマを克服しようとして合コンなどにも参加したことがあった。
出会った男性は誰もが優しくて、どんな話も楽しくて、そのたびに、
――『ああ、自分はもう大丈夫だ』。
そう思ってきた。
だから、本気で好きになりかけた相手には自分の抱える悩みを打ち明けた。
相手を試したかったのかもしれない。受け入れた上で助けて欲しかったのかもしれない。
それを聞いた途端に、顔色を変えて離れて行った男がほとんどだったが、中には、何とかしたいと言ってくれる相手もいて、晴れて付き合いを始めたことがあった。しかし、一向に指一本触れさせない女と『それ』を伴わずにどうやって関係を維持するか、互いにわからなくなったような気がする。
――柿坂さんは、どっちなんだろう。
ポプラ並木の向こう、細く二胡の音色が聞こえてくる。
澄子は、鉛のような色をした空の下、木枯らしに舞う落ち葉を踏みつけながら、いつものベンチにやってきた。
気づいているのか、いないのか、柿坂はひたすら二胡を弾いていた。
長い指が優しく弦を滑る。時々、聞こえる呼吸のリズム。
もう、ここに来ても会えないと思っていた澄子は、自然と涙が溢れた。
一曲終わったところで、手袋のまま拍手をした。泣きはらした顔を見られまいと、ストールに顔をうずめる。
「寒くないですか」
そう声をかけられた。わずかに顔を上げると、柿坂は二胡をケースにしまっていた。
「平気です。柿坂さんこそ、お身体は大丈夫なんですか」
「おかげさまで」
そして、柿坂は小さく白い息を吐いた。
「先週はすみません。少し言い過ぎましたね」
澄子は、その柔らかな声に胸が熱く、そして苦しくなった。
本当に、心からのお詫びだと感じたからだ。
――悪いのは、わたしなのに。
今日の柿坂は、いつもと違う。
もしかしたら、紗枝の提案が上手くいかもしれない。
澄子は、いつものように少しを声を張り上げた。
「き、気にしていませんよ!わたしの方が悪いんですから、謝らないで下さい」
なぜだろう。
目を見て話せない。
――柿坂さんは良い人なのに。もう、怖くないはずなのに。
「あ、ああ、あの、今度の日曜とか……お時間ありますか」
「はい?」
「もし、よろしければ、なんですけど……えっと」
「……」
「え、映画を……」
澄子は大きく息を吸い込んだ。
その時だった。
「アンタ、何か吹き込まれましたね?」
見れば、柿坂が睨みつけるように澄子を見ていた。
出会った時と同じ、狼のような目。
「……」
完全に見透かされている。
澄子はその鋭い眼差しに、呼吸すら奪われた。
すると、急に柿坂は力が抜け落ちたようにうなだれた。そして深いため息を吐く。
「やっぱり、そうでしたか。……これだから女ってのは」
「……ど、どうして」
上手く返せないでいると、柿坂は片目を細めて澄子を見つめた。
「とんでもなく、具合が悪そうだったんですよ。目は泳いで声は震えて――今まで見たことがないくらい」
「……」
「だいたい映画なんて、今のアンタには無理に決まってるでしょうよ。それとも、二、三席くらい間を空けて座るつもりだったんですかね」
「だって……だって、わたし……克服したくて」
――そうしないと、あなたも離れていっちゃうんでしょう?
「友だちにも言われたんです。このままだと、きっと、あなたが気分を悪くするって」
「……まったく。いいですか?」
柿坂は、頭が痛そうな顔で澄子を見た。
「要は、アンタが我慢すりゃ良いって言われたんでしょうけど、今までずっとそうした結果が今のアンタでしょうよ。だいたい、私との関係で悩んでいることを、無関係の人間に相談する意味がわかりません。その時点でアンタは問題から逃げてるんですよ」
「……柿坂さん」
「私のことで何か気になるなら、遠慮せず全部、私に聞きなさい。きちんと答えを出しますから」
最後は呆れたように、ため息を吐くと、わずかに微笑んだ。
――。
もう、とてもかなわない。
わたしみたいな女には、もったいなさ過ぎる。
澄子は、再び無理に声を張り上げた。
「い、いえ。ごめんなさい。もう、やめにしますから」
「……」
「考えてみれば、ここに通ってくるのも練習の邪魔でしたよね。それに、男性恐怖症を克服したいとか、わたし、自分のことしか考えてなかったです。あなたを利用するような真似して、ごめんなさい」
本当にそうだ。
自分の事ばかり相手に押し付けてきたんだ。
澄子は鼻をすすった。
「でも、柿坂さんの二胡の音は本当に綺麗で、大好きですから。これからも頑張ってください」
澄子は、柿坂に頭を下げると、並木道に向かって歩き出した。
「……和泉さん」
自然と足が止まる。
――今、名前。
「私はね、このご時世に一人で生きていくと決めた貴女を、ひそかに尊敬していました」
振り向くと、柿坂がベンチから澄子を見つめていた。
「ただ、その生き方を邪魔したくないと思えば思うほど……今みたいに、なぜか貴女は私に近づいてくるんですよ。本当に困った人です」
その目に困惑の色が浮かんでいる。
澄子はうつむいて自嘲気味に笑うしかなかった。
「本当だ。矛盾してますね、わたし」
うつむいたまま、今度は涙声になった。
――一人。
「どうしていいか、わからないんです。この先の人生、本当は不安に決まっているのに、気づかないフリして、強がっているだけです」
――独り。
「周りはどんどん結婚して、子どもにも恵まれて、普通の幸せを手に入れている中で、わたしだけ立ち止まったままです。けど、それを認めるのが悔しいんです。こんな気持ち、誰とでも触れ合えて、愛し合える普通の人にはわかりっこない」
「わかりっこない――と確信しておきながら、その普通で幸せな友人に悩みを打ち明けるとか、アンタも大概ですね」
澄子は悔しさのあまり、柿坂を睨み上げた。しかし、目の前の男の口元には、ほんの小さな笑みがあった。
――。
「柿坂さんは、どうして平気なんですか?」
「は?」
「わたし、男の人が怖いです。片腕分までしかあなたにも近寄れません。こんな女、軽蔑しないんですか?」
「まさか。そうやってアンタはプログラミングされちまってるんだから、仕方ねえでしょうよ」
「プ……プログラミング……?」
思いもよらない言葉に、澄子は声が裏返った。柿坂は片眉を上げて首をかしげる。
「ま、周囲もアンタもそういう風に考えられないから、問題なんでしょうけど」
「……」
柿坂が夕闇に浮かぶ枯木立を見つめた。
「さて、本題に入りましょうか」
「え?」
「心配しなくても、映画の件はもう気にしちゃいませんよ」
澄子は自分でもハッキリわかるくらい、顔を紅潮させて下を向く。
柿坂は二胡のケースを背負いながら立ち上がると、ゆっくりと澄子に近づいた。
そして――そのまま突然、片腕を突き出した。
息が止まる。
「……イヤッ」
反射的に、澄子は身を避けた。柿坂は、うなずきながら静かに口を開いた。
「腕の長さが違うんですよ」
「え?」
「そちらの片腕分だとね、私は、アンタに届いてしまうんです」
確かに、今の柿坂との距離は遠い。
こんなに離れて――。
「……」
「気づいていなかったでしょう。だから、ズカズカ近づいてくる。そして、勝手に落ち込んで、また逃げる。わけがわかりません」
恥ずかしくて顔を上げられない。
――子どもか、わたしは。
柿坂の声が、少しだけゆっくりと、柔らかく響いた。
「でもね、それが――不思議とイヤじゃないんです」
「え?」
雪ですね、柿坂が空を見上げた。
チラチラと白いものが、風に舞いながら降ってくる。
澄子は、愛しい人の、こけた頬を見つめた。
「……柿坂さんは、あの、わたしをどう思って……」
すると、例の鋭い視線が向けられた。
「面倒な女だと思っていますよ」
――やっぱり。
「そう、ですよね」
「コンサートの日、何も言わずにふてくされて帰ったりとか、インフルエンザだって言ってんのに電話かけてきたりとか、ガキみてえに、バレンタインだからって会いたがったりとか」
「うあ、聞こえてたんですか……アレ……」
柿坂は何かを思い出すように目を伏せた。
「本当に面倒でたまらなくて……たまらないほど気になります。もう、ここ最近ずっと」
鋭くて、悲しげで、苦しそうな瞳が澄子を見つめた。
「コンプレックスを抱えていながら、一所懸命に前を向こうと貴女が公園にやってくる。とても怖かったはずです。よりによって、こんなおっかねえ男に会おうなんて」
風が止んだ。
「私と、幸せになりませんか?」
雪が、音もなく二人のコートに落ちてゆく。
「柿坂さん」
「これでも……伝える言葉を考えてきたつもりですよ」
「う、嘘でしょう?」
「こんな恥ずかしい嘘をつくために、寒空で待つバカがいますか」
病み上がりなんですよ、柿坂は眉をしかめつつ小さく笑った。
澄子は、震える唇から、必死に言葉を紡いだ。
「だって、わたしのことなんか……全然……そんな」
すると、愛しい人は唖然とした顔で、思いっきり口をひん曲げた。
「女として見られて、好意を向けられたら怖くなって突き放したくなる、アンタが最初にそう言ったんでしょうよ」
――あ。
「……まったく。面倒な女ですよ、本当に」
本降りになってきた雪と、溢れる涙で、澄子の前から柿坂が消えてしまう。必死に拭って、澄子は震えながら両手を差し出した。
「わたし、絶対に頑張ります。みんなと同じように……柿坂さんと普通の恋愛ができるように、頑張りますから!」
しかし、柿坂は首を横に振った。
「具合が悪そうな顔をされるくらいなら、遠慮します」
「でも!このままじゃ……きっと……わたしたち……」
すぐに終わってしまう――なんて、怖くて言えるわけがない。
すると、柿坂は落ちてくる雪を手の平で受け止めて、つぶやいた。
「私が死んじまう時に、頑張って手を繋いでくれてりゃ、それで充分です」
「……」
「絶対、焦ったらいけませんよ」
柿坂は白く染まり始めた暗い並木道を歩き出した。その一歩後ろを、慌てて澄子も付いていく。ネオンと街灯に照らされ、雪にさらされたポプラの枯木立が浮かび上がった。
それが、何だかひどく寒そうに思えた。
「……どうして、あのベンチが良いんですか」
「言いませんでしたっけね」
「何か、木立ちを見ると落ち着くって聞きましたけど、よくわからなくて」
柿坂が歩みを止めて、木々の暗い影を見つめた。
「枯れようと寒かろうと、どんな空の下でも、凛として立つ姿がカッコいいと思っているだけですよ」
ああ、この人は本当に――。
「ど、同感です!」
「はい?」
「わたしも、柿坂さんと、ああやって並んで生きてみたいです。そして、こう……いつか枝先が絡まるくらいにまでには……なりた……い、ひぅ」
やはり息苦しくなってきた。
「……相当なバカですよ、アンタ。言ったそばから」
「スミマセン……」
澄子は鼻をすすりながらうなだれた。
酷い空回り。身体が気持ちについていかない。
これから、どうしたら――。
柿坂が小さく吹き出したような気がした。
「さて、一杯どうですか」
「え?」
「……乾杯くらいから、頑張ってみましょうか」
そこにあったのは、木立ちを見つめた時の慈しむような瞳。
音楽仲間に向ける、楽しそうな笑み。
この先、どんなに凍える時が来ても、この人となら――。
澄子は、涙を拭って、勢いよく右腕を突き出した。
「はい、お願いします!」
柿坂は、少し驚いた顔をすると、どこか安心したようにうなずいた。
「アンタのその笑顔がね、ずっと見てみたかったんですよ」
そして愛しい人は、澄子に柔らかな手招きをした。
【枯木立の巻 完】
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