二〇一六年七月二十四日 2016/07/24(日)昼間
「スミから、デート場所の相談をされる日が来るなんてねぇ……」
親友の紗枝は、感慨深げにうなずくと、マンゴーフラッペにスプーンを入れた。その綺麗な黄色を見つめながら、和泉澄子は顔を熱くさせた。
「で、デートとか、そんな言い方」
「何でよ。デートでしょうよ」
「普通に『出かける』じゃダメなの?何か恥ずかしいんだけど……この年齢で」
「え、そこを気にするの?」
紗枝は呆れたように笑った。
「まあ、良いわ。じゃあ『お出かけ』場所を一緒に考えよう」
「はい……お願いします」
梅雨明けしたのかどうかもハッキリしない日曜日、澄子は友人の紗枝と新しく開店したカフェに来ていた。例によって、恋愛指南を受けることになったのだが、今回はかなり前向きだ。
さすがに、この湿気と暑さの中では、柿坂も公園で二胡を弾くことはなく、最近は会ってもランチをする程度だ。
もちろん、それだけでも充分に満足なのだが、少しはバリエーションを持たせたい。
二人で出かけるデートスポット。
――何で、こんなに恥ずかしいんだろう。
恋愛に関連する言葉は、むずがゆい。憧れていたはずなのに、いざ使うことが許されたら、戸惑ってしまう。
例えるなら、化粧カウンターで高級ブランドのコスメを試してみる自信がない、そんな気分か。
――きっと、自分には似合わないから。
いや、違う。
――試している自分が、きっと滑稽だから。
ふと、鋭い目をした男の顔が浮かぶ。
――柿坂さんだったら、何て言ってくれるのかな。
『似合う色だと思いますよ』
身勝手な妄想に顔を熱くさせながら、澄子は、宇治金時の白玉をスプーンですくい取った。
今度は、その白い光沢に、ふと胸が温かくなる。
柿坂と一緒に、アジサイが見頃の鎌倉へ出かけた日のことだ。立ち寄った和風カフェで好きな食べ物の話になった。
――あの時に食べたのは、白玉あんみつだっけ。
柿坂は甘いものが苦手かと思っていたが、和菓子は好きらしい。それと、チョコレートも――。
――バレンタインの時のこと、まだ覚えているかな。
胸の奥がチクリとした。
――来年はちゃんと渡そう。あとは、チョコに合うお酒も。
柿坂は飲んでも派手に酔ったりはしないが、よく笑う。それが澄子も嬉しかった。
――お酒を一緒に選ぶのも悪くないな。
「……さっきから、何をニヤニヤしているのよ。白玉が干からびるよ」
友人が意地悪い顔をしながら、スプーンをのばして宇治金時の抹茶アイスを奪い取った。澄子は慌てて白玉を口に入れると、恥ずかしくなってうつむいた。
――こんなに色々と思い出したり、想像したりするのも……初めて。
「それにしても、最初はスミがどうなるかと心配したけど、柿坂さんと上手くいって良かったね」
友人の言葉に、澄子は小さくうなずいた。
「紗枝が背中を押してくれたから」
「あらあら、どうしたの?嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「本当に感謝しているの。ありがとう」
澄子が頭を下げると、紗枝が声を上げて笑った。
「やめてよ。まだ、これからでしょう?」
「え?」
「手くらい繋げた?そこから先は、スミにはレベル高そうだわね」
――。
澄子は少しだけ胸の奥に痛みを感じた。
「手……」
「あれ?まだたの?」
「……やっぱり必要よね、そういう……」
そこで澄子は言葉を切った。
これを確認する相手は紗枝じゃない。
――柿坂さん、どう思っているのかな。
澄子はスプーンを持つ右手を見つめた。
――そして、わたしは……どうするのかな。
わずかに呼吸が浅くなる。
これは、恐怖なのか、それとも――。
澄子は首を振って、気を取り直した。
「わたし、今はこのままで充分に幸せだから大丈夫よ。柿坂さんとはちゃんと会えているし、電話だってするし……」
間髪入れずに、紗枝がスプーンを突き付けながら言葉を返してきた。
「彼がどう思っているかわからないじゃない。やっぱり、スキンシップは大事だと思うけどな。手を繋いで仲良く歩いてるカップルとか、良いなって思うでしょ?」
澄子の頭に浮かんだのは、春先に駅のコンコースで路上ライブをしていた少年と少女――祐樹と優花だ。仲良く手を繋いでいたのが印象深いが、喧嘩をしたと聞いてから、一切見かけなくなってしまった。
――つまり、手を繋げても、安心できないってことじゃないのかな。
そこでふいに、二胡を構える柿坂の姿を思い出した。
緩やかに動く右腕、そして優しく弦をすべる――。
――柿坂さんの、左手。
突然、燃えるように胸が熱くなる。
今まで感じたことのない熱に、澄子は戸惑った。
一人で悶える澄子をよそに、紗枝が黙々とマンゴーを食べながら言った。
「まあ、手を繋ぐのって、案外ハードル高いらしいけどね。勲くんが言ってた」
「だ、旦那さんが?」
「うん。手に触れただけで、相手に嫌がられるようなら、今後の進展は見込めなくなるから、慎重にならざるを得ないんだってさ」
「な、なるほど」
「手を繋ぐってことは、友達から恋人関係に進化した証だから、そこから先は、ムードと勢いでどうにかなるらしいよ」
最初が肝心、そういうことなのだろうか。その先の、ムードと勢いというのがよくわからないけれど。
――。
柿坂が澄子に対して慎重なのは、男性に対する恐怖心を煽らないためだ。そのおかげもあって、澄子は柿坂にだけは近寄れるようになった。他の男性は未だに怖い。柿坂にしても、触れられるのは自信がない。
それに――。
あの花見の日、ただ、気持ちを確認したかっただけなのに、柿坂の前で起こした発作は尋常ではなかった。
こんな自分が、愛しい人と触れ合えるはずがない。
――アイシテイル。
「や……」
「スミ?」
親友が心配そうに顔をのぞきこむ。澄子は慌てて取り繕うと、氷をすくって口に入れた。
抹茶の苦みが口に広がっていく中、柿坂を想った。
こんな自分を、突き放すこともない、本当に優しい人。
――この先が、わたしたちにも、あるとしたら。
その時に得られる幸せというのは、今と同じなのか、それ以上なのか。
逆に、失われていく幸せもあるのではないのか。
――やめよう。
また考え込みそうになるのを、澄子はどうにかこらえた。
紗枝がフラッペを食べながら、デザートメニューを手に取った。
「懐かしいなぁ。私もスミみたいに悩んだ時期があったよ」
そして、何かを懐かしむような目をした。それでも、結婚を手にした友人はどこか余裕があった。そこが、澄子にはやはり羨ましく感じるのだ。
それにしても、紗枝の夫、勲の話は興味深い。少し微笑ましく思えた。
「旦那さん、紗枝と手を繋ぐのに相当勇気を出したんだね」
「いやいや、私は自分からガンガンと攻め込んだのよ。旦那の手、強引に引っ張ったりして色々連れ回したんだから」
「え……でも慎重にならざるを得ないって、旦那さんが言ったんでしょう?」
紗枝のスプーンが止まった。
「あれ、そういやそうよね。じゃあ……誰のことなの?」
「……い、一般論じゃないのかしら……」
澄子は、慌ててはぐらかすと、ひたすら宇治金時を食べ続けた。
「そういや、もうすぐ夏休みね。はあ、待ち遠しい」
紗枝はそう言いながら、店員に向かって片手を上げた。二人のグラスに水が注がれる。
「紗枝は、旦那さんとどこか旅行でも行くの?」
すると、友人は嬉しそうな顔をして言った。
「何やかやと忙しくて、結局このタイミングだけど、ついに新婚旅行ですっ」
「あ、まだ行ってなかったんだっけ。それで、どこに行くの?」
「カナダ!ナイアガラのクルーズが夢だったんだ。でも、いくらハネムーンとはいえ、年齢も年齢だしさ、ハシャいで行くのもアレだし、皆が休みの時にコッソリ行くの。お土産買ってくるね」
「わ、楽しみ!ありがとう」
澄子が礼を言うと、紗枝が顔を寄せてきた。
「ところで、澄子さんのご予定は?」
「もちろん、あるよ」
澄子は手帳を取り出すと、スケジュール表を紗枝に見せた。
「わたし、この夏はふるさとに貢献しようかなって」
「ふるさとに貢献?」
「そう。子どもの時に住んでいた鈴峰町が、来年から市町村合併されるんだけど、毎年やっている花火大会だけは存続させようと、地元住民で盛り上がっているみたいなのよ。それでね、わたしの同級生たちも自然保護のボランティア団体を立ち上げて、今年のお祭りはブース参加するんだって」
「へえ、楽しそうじゃない。それで、スミもボランティアに参加するってこと?」
「うん。わたし、小さい頃から原っぱとか河原とかで遊ぶのが好きだったし、地元は今も緑がいっぱいで大切に守っていきたいというか……ちょっと、そういうのも良いかなって」
「ふうん」
紗枝がナプキンで口元を拭う。
その顔に少し曇りがあったので、澄子は気になった。
「……紗枝?」
「いやね。まあ、スミが平気なら良いんだけど、ちょっと気になるかな」
「いいよ。言って」
友人は少しだけ澄子に顔を寄せた。
「思い出したりしない?辛くないの?確か……中学の時でしょ?」
「……」
「無理することないと思うわよ」
――。
紗枝が心配しているのは、澄子が被害にあった例の痴漢事件のことだ。
「もちろん……迷ったよ」
それでも澄子は故郷に帰ることを決断した。
いい加減、過去と向き合って、自分の中で決着させなくてはならないという気持ちが日増しに強くなった。
――もう、充分過ぎるほど大人になったし。
それに、これは柿坂との今後のためにも、いつか必要だと思ったからだ。
いつか、あの綺麗な左手と。
――そうじゃなくて。
澄子は首を横に振った。
――せめて、柿坂さんが怪我や病気をした時の介抱くらいは、出来るようになりたいから。
澄子は、そう自分に言い聞かせつつ、友人にも想いを伝えた。
紗枝が、大きくうなずく。
「偉い」
「あ、ありがとう」
「考えてみたら、スミってばその時のこと、あまり記憶にないんだよね?」
「うん……中学一年……か二年の夏だったのは確かだけど」
思い出そうとすると息苦しくなる。口元を押さえる澄子に、紗枝が首を傾げた。
「でもさ、覚えていないなら、それほど重大じゃないってことなのかもよ?」
「……ど、どういうこと?」
友人は、少しだけ真顔になった。
「スミがまだ思春期の頃だったんだよね?当時は衝撃だったとしても、今から考えれば、大したことないレベルの痴漢野郎だったんじゃないのかしらね。こう、軽くお尻を撫でられたとか、追いかけられたとか……」
「……」
「もっと酷いことされていたら、絶対に覚えているってば。というか、周りが大騒ぎだと思うよ。私も小学生の頃に、露出狂に出くわした時は、誰にも言えず悩んだことあるけど、今じゃ、話のネタとして使わせてもらっているし」
「そ、そうなの……?」
動揺する澄子に、紗枝は軽く咳払いをした。
「案外、スミだってとっくに克服しているのに、男が怖いって思い込んでいるだけとかね。有り得るでしょ」
「思い込み……」
「そうよ!実際、柿坂さんとは平気なんでしょ?そもそも、あんなに怖い人が怖くないんでしょう?」
紗枝がどこか困ったように笑ったが、澄子はふてくされた。
――柿坂さんは怖くないよ。
確かに目元が鋭く、人を寄せ付けないオーラはあるが、常に澄子を気遣って適度な距離を保ってくれる。今まで出会った他の男とは明らかに違う。
「でも……やっぱり柿坂さん以外の男の人はまだ怖いというか……不安かな」
「自意識過剰なだけだったりしてね」
紗枝が意地悪そうな目で笑った。澄子が反論しようとした時、友人はすぐさま両手を広げた。
「でもさ、そのボランティアに参加して……肝心の柿坂さんとはどうするの?この夏の予定はないの?」
――。
実は、友人の質問に対する答えは用意してある。
澄子は背筋を正した。
「柿坂さんにも、参加してもらえないか聞いてみるつもりなんだ」
「へ?自然保護ボランティアに?」
「ううん、違う。お祭りのステージでコンサートやってもらえないかなって」
そこで、紗枝が大きくうなずいた。
「なるほどね。確かに、あの人たちって、アマチュアなのにお金取れるくらい上手だもんね」
「本当……どうしてプロにならなかったんだろう」
柿坂が加わっている音楽バンド『コボック』の詳細を、澄子は最近知った。色々な楽器を駆使して、ジャンル問わず何でも弾きこなす集まりなのだが――。
――全員、公務員なんだよね。
自虐的に『公僕』から『コボック』と命名したらしい。当然、商業活動は禁止されている身分なので、完全に趣味、ボランティアとして色々なところで好き勝手に演奏している。
――上の許可を取っているのかどうかはわからないけれど。
「柿坂さんも参加してくれれば、わたしたち一緒にお祭りを楽しめるでしょう?ラストは二人で、その」
「花火が見たいと」
「そう!」
「考えたわねぇ」
友人に褒められて、澄子は素直に嬉しくなった。本当はこの考えが正しいのか不安だったからだ。
早く、忌まわしい過去を断ち切って新しい自分になりたい。
――そして、柿坂さんと。
コンサートも、祭り屋台も、そして花火も――。
――なんて、贅沢かな。
それでも、澄子は胸の高ぶりを抑えられそうになかった。
きっと、忘れられない夏になる。
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