二〇一六年十二月三日 2016/12/3(土)11:50
農家直売の野菜売り場で、年配の観光客たちが談笑している。その隣の民芸品の売り場では、職人が実演販売をしており、同じく人だかりができていた。
澄子は塩山の後を追いながら、無限に広がる道の駅の光景に目を奪われた。
――柿坂さんが言っていたとおり、本格的な観光地なんだ。
確かに、電車の中で見た渓谷と紅葉は見事なものだった。温泉も湧いているというのだから、登山客には人気があるのだろう。
塩山に連れてこられたレストランも、地元名産の蕎麦や豆腐が食べられるとあって、やはり観光客が多く、あちらこちらから笑い声が聞こえてくる。
――。
その隅で、小柄な老人と、車椅子の老婆の姿が目に入った。
「オレの両親だ」
塩山が片手を上げると、老人が立ちあがって澄子に向かって頭を下げてきた。慌てて、澄子もそれに倣う。
「は、初めまして。和泉澄子と申します……」
「こんにちは……」
塩山夫妻は、柔らかく微笑んだ。穏やかな雰囲気で安心したものの、この後の会話をどうすれば良いのか、澄子は戸惑った。
塩山が、大きく伸びをしながら椅子に座り、店員を呼ぶ。
「ま、飯でも食いながら話すとするか。スミちゃんも座んな」
そして、澄子の椅子を少しだけ自分から離した。
――。
「事情は伺ってマス」
小声でそう言われ、澄子は申し訳なく思いつつ、そっと腰をかけた。
しばらくして、四人分の天ぷら蕎麦が運ばれてくると、塩山が箸を割りながら両親を見つめた。
「……誠司から聞いてるだろう?何でも良いから、話してやってくれや」
「話してやれって……そんな、お前」
老女が背中を丸めた。
「何から話せば……」
すると、隣で蕎麦をすすっていた老人が澄子にもう一度頭を下げた。
「どうも、私は塩山昭一です。こちらは、絹子です。私ら、柿坂さんとこの家をですね……」
「おう、親父。その辺の経緯は、スミちゃんも知っているぜ。次いこうか」
はいはい、昭一が笑った。
「それじゃあ、誠司の話をしたらいいのかな」
それに対して、車椅子の絹子が不安そうに夫を見た。
「でも……本当に良いの?」
その気持ちはよくわかる。澄子自身、柿坂がいないところで当人の過去を聞くのはやはり気が引けたのだ。
「良いんだよ。あの子がそう言ったんだ」
昭一は、笑いながら茶をすすった。
「……何でも一人で乗り越えてきた子が、私らを頼って頭を下げたんだから」
「……」
しばらく考え込んだ絹子が、強い眼差しで澄子を見つめた。
「澄子さん」
「は、はい」
「あなたは、誠司くんのこと……どう思っているの?」
――。
澄子は膝の上で強く拳を握った。
「……とても、大切な人です」
閉じたまぶたの裏に、愛しい姿を浮かべる。
途端に懺悔と覚悟が澄子の心を動かした。
「わたし……中学生の時に同級生に襲われたのがキッカケで、今でも男の人が怖いんです。近寄られるだけで、息苦しくなります」
――柿坂さんが過去をさらけ出すなら、私も想いに応えなくちゃ。
「それでも、柿坂さんは、そんなわたしを受け入れてくれました。まだ二人の関係に自信があるわけじゃないですけど……本当に大切で、関係を深めたいって、初めて思えた男の人なんです。病気をした時に、看病ができるくらいには、近づきたくて」
話しているうちに、涙腺がおかしくなってきたが、澄子はどうにかこらえた。
「そうしたら、柿坂さんは、自分の過去を知って欲しいとわたしに言いました。そのために、故郷を訪ねて欲しいと……。きっと、その上でもう一度、わたしの気持ちを確認したいんだと思います」
下を向いていると、涙が落ちそうになる。澄子は勢いよく天井を見上げ、そして、強引に笑みを作ると、絹子を見つめ返した。
「か、柿坂さんは、目つきが鋭くて、初めて会った時は怖かったんですけど、わたしの事情をいつも配慮してくれて……時々、厳しいことを言っても、最後はいつも温かい言葉をくれます。気休めじゃなく、本当に前を向かせてくれる、強くて優しい言葉です」
胸が少しずつ熱くなってくる。
澄子は夢中になって柿坂のことを話し続けた。
「それと、恥ずかしい時は、片方の眉毛が少し持ち上がるんですよ。あまり、自分のことを話す人じゃないですけど、いつか、あの人の希望を叶えられるように、わたしも頑張っているんです」
「希望?」
塩山が両親を気にしつつ、聞き返した。
澄子は、西日が差すポプラ公園で聞いた、愛しい人の願いを思い出す。
「わたしと一緒に、散歩とお昼寝がしたいって、言ってくれました。今はなかなか難しいですけど……柿坂さんが弾く『流波曲』で、わたしも――」
その時、絹子がワッとハンカチに顔を伏せ、肩を震わせた。
「誠司くん……」
妻の肩を優しくさすり、昭一が澄子に微笑んだ。
「ありがとう、澄子さん」
「え?」
「あなたのお蔭です。先日、引っ越しの手伝いにきた時、あの子の目が優しくなった理由がわかった。あなたと出会えたからだったんですね」
すると、絹子が軽く鼻をすすりながら、澄子に頭を下げた。口元が、ありがとう、そう動いた。
「……私は、児童養護施設で働いていました」
「……」
澄子は、ハンカチを強く握りしめた。
絹子が大きく息を吸う。
「あの子……誠司くんが確か四歳くらいの時です。このくらいの季節だったわ。母親が無理心中を図ったんです」
――。
「幸い、あの子は命を取り留めましたが、母親はそのまま……。聞いた話によれば、ノイローゼ気味で、精神科にも通院していたそうです。その当時、父親は仕事の関係で家に寄りつかず、誠司くんは私が勤めていた施設にやってきたんです」
絹子は首を弱々しく横に振った。
「あの母親は、以前から虐待の疑いもあったようで、誠司くんは同年の子と比べてもガリガリで……」
小さな老女が澄子を見つめた。
「誠司くん、変な話し方をするでしょう?」
「……」
澄子が答えるより先に、絹子がため息を吐いた。
「母親のしつけらしいのよ。丁寧な言葉で話さないと、叩いたり、食事を抜いたりして……。もう何度言っても結局は直らなかったわ。その話し方が、自分を守ると信じていたのね」
――。
澄子は、ただひたすらに身を固くした。
塩山が食べ終えた箸を置いて、頬杖をつきながら澄子を気にする素振りを見せたが、母親に話の続きを促した。
絹子も湯呑を手にしながら、再び口を開く。
「でも、新しい生活の場で、スクスク育ってくれると思ったんです」
その顔に、困ったような笑みが浮かべられた。
「でも、あの子は本当に難しかったわ……土曜日、お昼寝の時間があるんですけどね。絶対に寝ようとしないんです。一人で絵本や図鑑を見ていました。私が寝かせようとすると、おっかない顔で睨みつけて、こう言うのよ」
その目から涙が落ちる。
「……昼寝をしたら、お母さんに、首を絞められる夢を見るって。苦しくて怖いから、昼寝はしないんだ…って……」
澄子は思わず口元を覆った。
絹子も小さくうなずいて、当時の孤独な少年と会話をするように、言葉を紡ぐ。
「でも、良かったわねぇ……一緒にお昼寝したい人が、やっと現れてくれて……」
――。
「柿坂……さん……」
たまらず、澄子は言葉を詰まらせた。
あの言葉。
――『流波曲を聴きながら昼寝をするアンタが、羨ましくなりました』。
――そんな、意味が込められていたなんて。
それだけではない。
――『何のために生まれたかなんて、産んだ人間に聞くしかねえでしょうよ』。
――。
湯呑を手にした昭一が、言葉を継いだ。
「あの子は、小学校卒業くらいまでは、施設から通っていたんだけどね。中学生になった頃、父親が職を変えて戻ってきたんだ。それで父子の暮らしが再び始まったんですよ」
「お父さんとは、問題なかったんですか」
「私も心配したんだが、やはり男同士だからかね。あの父親も、ずっと息子を放っておいたのを気に病んでいたのか、一生懸命でした。施設を頼って相談しに来たりとかね。誠司も、父さんの気持ちを汲んでいましたよ。優しい子だった。ああ、どうぞ召し上がってください」
昭一が、澄子に蕎麦を食べるよう促した。澄子も気を遣わせ過ぎないよう、箸をつけた。
「でも……あれも驚いたなあ。誠司が中学三年の時かな」
「そう。あの時も……ちょうど、今くらいの時期だったわね」
絹子が暗い目をする。
「もう……二十年以上経つのね」
「……警察もひどかった」
昭一が、そこで初めて泣きそうな目をした。
「……あの日、誠司の父親が自宅で倒れているのを、部活から帰ってきたあの子が見つけたんです。でも、警察は息子の誠司を疑って……」
「……」
「結局、誠司の疑いは晴れて、父親は自殺とされたんですけど、そこから、あの子が曲がってしまってね。学校に行かなくなってしまったんです。高校受験も控えていたのに……」
柿坂の、鋭い眼差しが脳裏に浮かぶ。
「そ、それで、また施設で暮らし始めたんですか?」
すると、絹子が少しだけ笑みを浮かべた。
「ううん。その時、お父さんには新しい奥さんがいたのよ」
――。
「やっぱり思春期の難しい時期だったから、一緒に暮らすまでには時間かかったみたいだけど、誠司くんの食事の世話をしたり、勉強も見たりしたらしいのよ。二胡も彼女が買い与えてくれたみたいでね。あの子は、本当の母親の愛をそこで初めて知ったと思うの。お父さんが亡くなった後のことまで、全部やってくれてねぇ。家の相続とか入試の手続きとかもね」
澄子は、徐々に背中が冷たくなるのを感じた。
あの、生気が抜けた女の顔――。
昭一が誇らしげな顔をした。
「まあ、誠司は元から頭の良い子だったから、高校受験も問題なかったよ。ただ、その後なんだが……」
絹子も深いため息を吐いた。
「新しいお母さんともすぐに打ち解けられる年頃じゃないし……家出したりだとか、学校に行かないで街中で喧嘩したりだとか、いろいろ大変だったわ」
すると、塩山が茶を飲み干して、澄子を横目で見た。
「そこで、このオレの出番よ。鉄拳制裁が炸裂したってことだ。心をだいぶ入れ替えた誠司くんは、大学受験を経て、そのまま国家公務員。で、今に至ると」
「……」
「さて。老人たちの話は理解できたか?まだモウロクしてねえから、大丈夫だったろう?」
「あ、あの!」
澄子は絹子を見つめた。
「その……えっと……柿坂さんの……」
新しい母親と思しき女――。
しかし、詳しく聞こうにも勇気が出ない。返ってくる答えに耐えられる自信もない。
すると、絹子は思わぬ方向から答えを返してくれた。
「ああ、家のことね?柿坂の家も、誠司くんが単独で相続していて、あの子は売り払うつもりだったらしいけど、素敵な建物だからもったいなくて。私たち夫婦も定年だったし、柿坂の家を守るとか言ったらアレだけど、ペンションとして借りながら、芽衣さんの帰りも待っていたのよ」
――。
「……芽衣、さん」
「さっき話した、新しい方のお母さん。誠司くんが高校一年の時の冬休みだったかしら……芽衣さんは体調を崩したとかで、長期入院することになって……もう長い間、ずっと会っていなかったけど、この前、引っ越しの時にようやく会えたのよ。だいぶ痩せて具合が悪そうで……わざわざ挨拶に来てくれて嬉しかったわ」
途中から、絹子の顔が見られなくなった。老夫婦は、澄子が感極まっていると思ったのか、一緒に涙を流している。
――この二人が知るはずない。
柿坂と林芽衣の間で、本当は何があったのか――。
「おっと、時間だ」
塩山が席を立った。
「スミちゃん、食い終わったか?そろそろ行くぜ」
「は、はい」
「親父もおふくろも今日はサンキュな。親父、運転ヘマするんじゃねえぞ。ブレーキは左、いいな?」
「あいよ。澄子さん、今日はどうもありがとう。また来てください」
老夫婦は、どこかすがすがしい表情で澄子に別れを告げた。
澄子は震える想いで、頭を下げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます