二〇一六年十二月三日 2016/12/3(土)10:20


 燃えるような紅葉が、一瞬で暗闇に覆われた。


 何度目かわからない、長いトンネルの中。


 和泉澄子は、激しく揺れる電車の中で、再び手帳のカレンダーに目を落とした。


 十二月三日――三十九回目の誕生日。


 そっと、指でカレンダーの枠を逆戻りでなぞる。


 十一月三日――。


 この文化の日を最後に、澄子は柿坂と会うことも、話すこともしなかった。春先、一カ月近く同じように会えなかった時を思い出し、大したことはないと言い聞かせるのは何度目だろう。


 言い聞かせている時点で、その現状に自分は満足していない証拠だ。



 それなのに、柿坂に会いたいとは思えなかった。


 ――違う。


 会ってはいけないと思った。


 それは、柿坂が苦しむ理由の一つが、澄子自身にあるのだとわかってしまったからだ。


 『貴女のことが、たまらなく大切に思えた時、貴女を失う覚悟もしました』


 一歩ずつ、柿坂に近づけたことが嬉しかった。

 その傍らで、愛しい人は幸せを感じながらも、澄子を失うことを考えていたのだ。


 いつもの澄子なら、友人の紗枝に相談したかもしれない。

 きっと友人は、二人とも考え過ぎだと言って笑っただろう。


 ――考え過ぎるのは、いけないことなの?


 そして、それを確認する相手は、やはり柿坂であるべきなのだ。


 澄子は携帯を取り出し、愛しい人の写真を見つめた。


 左手で糸巻きを回し、調弦する姿。


 自然と目の前が滲み出す。

 列車が徐々に減速していくにつれ、澄子の胸のざわつきも大きくなった。

 それでも、澄子は鼻をすすりながら意を決して座席を立ち上がった。


 改札を出ると、小さなロータリーと、みやげ物店、珍しい看板のコンビニが目に入った。ログハウスのような待合い室だけがやたらと新しく、それ以外はだいぶ使い古された印象があった。澄子が住んでいた鈴峰町は、大きな川が町の中心を流れていたが、ここはただ山に囲まれている。その近さに圧倒された。


 ――ここが柿坂さんの故郷。


 薄日の下、澄子はゆっくりと冷たい空気を吸い込み、真新しい待合室に足を向けた。


 そこで、ちょうど自動ドアが開き、中から白髪混じりの男が出てきた。


 紺地のジャケットを着ているところを見ると、タクシーかバスの運転手と思われたが、無精髭を生やし、どこか胡散臭い印象がある。


「こんちは」


 突然、その男に話し掛けられて澄子は硬直した。


 地方特有の誰とでも気軽に話しかける習慣だろうか。


「和泉さんでしょ」


 ――。


「……え?」


「誠司から聞いてマス。はい、乗って」


 男が指をさす先に、タクシーが一台止まっている。



 ――。


「あの、もしかして……お迎えの人……ですか」


「うん。そう」


 澄子は躊躇した。いくら何でも怪しい。携帯を取り出し、柿坂に確認しようとすると、男は見向きもせずに言った。


「ああ、タクシー代なら前金でもらってるよ。心配しないで」


 男はタクシーの『貸切』の表示を指差した。


 それでも、澄子は男を無視して携帯を操作した。


「本当、話しに聞いた通りだな」


 運転席に乗り込みながら、男が意地悪そうに笑った。


「警戒心が強くて、おどおどして、男慣れしていなくて、幸が薄そうで」


「……」


「放っておけない」


 後部座席のドアが開く。


「アイツ、あんな凶悪な面して、やりやがるなぁ。いいねぇ」


 ――。


 澄子は、後ろのドアからのぞき込むように声をかけた。


「あの」


「おう」


「柿坂さんの……お知り合いなんですか?」


「じゃなきゃ、こんなシケた仕事しねえよ。ホラ、乗りなってば」


「……どういうご関係……」


 その時、車内にある運転者証に目が留まった。


 ――塩山輝之。


「……しお、やま?」


 聞き覚えのある名前だ。確か――。


「誠司が言うには、スミちゃんはオレの娘に会ってるんだってな?」


「は、はい?」


 いきなり名前――しかも馴れ馴れしく呼ばれた。


 その時、ドアが勢いよく閉まる。


「わ!」


「おいおい、何だよ。まだ乗ってなかったのかよ」


「……」


 澄子は観念して後部座席に乗り込んだ。


 男はそれを確認すると、楽しそうに笑いながら、車をゆっくりと発車させた。


 澄子は冷たいシートに身体を沈ませながら、再び男に声をかけた。


「あの、説明してもらえますか……」


「おう。オレは塩山。今日は柿坂誠司の頼みで、スミちゃんを観光案内しに来たんだ」


「かん、こう?」


「嘘だよ。まあ、そう警戒すんなって。オレの両親が柿坂家を借りてペンション経営しているのは、知っているのかな?」


「や、やっぱりそうなんですか。じゃあ、さっきの娘というのは……」


「香織チャンだよ。まあ、小学生の頃から会ってねえけどさ。元気してた?美人さんになったかな」


「……えっと」


 澄子は必死に頭の中で家族関係図を描いた。


 この男は、ペンション経営をしている塩山の老夫妻の息子であり、あの佐藤香織の実父。



 ――。


「……すみません、まだ……よくわからないです」


 すると、バックミラーの塩山の眉が困ったようにしかめられた。


「そうか?まあ、いいや。遠慮なく何でも聞いてくれや」


「あなたと柿坂さんの関係がわかりません」


「オレは、アイツの高校時代の元担任だよ」


「え!」


「グレて学生生活を転げ落ちそうになったアイツをぶん殴って強引に前を向かせたら、懲戒免職で学校をクビになって人生を転げ落ちた元担任デス」


「そうなんですか……?」


「ちょい詳しく話せば、駅前でアイツが他校の生徒と喧嘩して、相手からぶん殴られたのを見かけたオレが、誰よりもキレて、誠司も含めて全員をボコボコにしてやったんだ」


「……え」


「そうしたら、そのうちの一人が教育委員会の重鎮のセガレ。オレ、現行犯逮捕。一発免職。生徒たちお咎めなし」


「……」


 澄子は、紗枝の夫から聞いていた柿坂の過去を思い出した。確か、色々と問題を抱えていたと聞いた。


 ――本当のことだったのね。



 塩山はため息を吐いた。


「多感だった誠司くんは、それの責任を感じて、オレやオレの両親を今でも気にかけて会いに来るんだよ。アイツの両親がするべきところを、死んじまってるから仕方ねえやな。ただ、ありゃあ情じゃなくて義理だな」


 対向車線の同業タクシーに片手を上げつつ、話を続ける。


「そんなアイツが、先週いきなり連絡入れてきたんだ。ちょっと頼まれてくれって。ま、塩山の人間はアイツの保護者みてぇなところあったし、将来の嫁さん候補がやって来るとあっちゃあ、歓迎せねばなりますまい」


 塩山はバックミラー越しに笑ってみせたが、急に真顔になった。


「和泉さんよお、冷やかしじゃねえよな?」


「え?」


「アイツが、自分の過去について洗いざらい教えてやって欲しいなんて……有り得ねえんだよ。何をたらし込んだ?」


 ――。


「そ、そんな……わたしは」


「もしも『アタシ、誠司さんのことたくさん知りたいの』なんて、軽い気持ちでアイツに近づくなら、やめてくれねえかな」


「……」


 車は駅前通りを抜けると、緩やかなカーブに添って山間に向かっていく。


「学校のセンセイってのは、生徒の家庭環境を把握する必要がありましてね」


 塩山は信号待ちで、もう一度バックミラーから澄子を見つめた。


「今まで見た生徒の中で、柿坂誠司くんの歩んだ人生は、シャレにならん。とはいえ、オレが知っていることも限界がある……アイツにはそう言ってやったんだがね。それなら、オレの両親や、あの女にも会わせてやってくれと、こう来たもんだ」


「あの、女って……まさか」


 名前を出す勇気が出てこない。


 押し黙る澄子に、塩山が片目を細める。


「確かに、アレコレ説明するより、本人たちに会うのが一番早いっちゃ早いけどな」


「……」


「……それだけ、誠司はスミちゃんに対して本気だったということか」


 ――。


 本気だった、という完結表現に澄子の胸がざわついたが、すぐにそれを振り払った。


 ――今は、柿坂さんの過去と向き合うだけ。


 信号が青に変わり、タクシーが静かに動き出す。


「あの……」


「おう」


「柿坂さんは、自分と関係を深めようとする女が現れたら、誰もが全力で止めるかもしれないって言っていました」


「ひっでぇな」


 塩山が声を立てて笑った。しかし、その直後には寂しそうな声でつぶやいた。


「まぁ、仕方ねえか……あんな生い立ちじゃな。でも、今回のコレで、何か変わる気がしてきたぜ」


 タクシーは、ゆっくりと道の駅の駐車場に入っていく。


「けど……もし、途中下車したくなったら、遠慮なく言ってくれ」

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