二〇一六年八月二一日 2016/08/21(日)夕方②
ギターの青年に連れてこられたのは、大川沿いに整備されて出来た広場だった。祭り屋台の他に、見物客の飲食スペースがある。
――あれ?
その中で、柿坂がテーブル席に座っているのを見つけた。
ほぼ同時、鋭い目線がこちらに向くと、その片方の眉が跳ね上がった。
「……っ!」
すかさず、ギターの青年がテーブルにビールを二つ、さらには焼き鳥を並べると、急に身を翻した。
「そ、それじゃあ、自分にはまだ運搬作業がありますので!」
柿坂が困惑しつつも青年を睨みつける。
「待ちなさいよ、どういうことです。運搬作業って、まさかその缶ビールじゃねえでしょうね」
ギターの青年は顔を赤くしながら敬礼のポーズをした。
「め、メンバーの総意です!すみませんっ」
「すみませんを言いながら、お前さん、顔が笑ってますけど」
「そんなことないです!ごゆっくり!」
青年は澄子にも会釈をすると、どこか晴れ晴れとした表情で広場を離れて行った。
柿坂は頭が痛そうな顔をしたが、横目で澄子を見ると、
「……とりあえず、座りましょうか」
相変わらずそっけない口調で言った。澄子も言われた通りにイスを引く。
大川から風が吹いてくる。日よけのパラソルのおかげで少し涼しく感じた。しかし、二人の間の気まずさが吹き払われることはなく、しばらく沈黙が続いた。
スピーカーから流れる音楽が変わったところで、ようやく柿坂が口を開く。
「さっき、別の場所でリハーサルを終えて、本番まで祭りを満喫するという話になったんですよ」
「え?」
「アンタにも連絡は入れたんですが、あのギター男が先に手を打っていたようで」
澄子は慌てて携帯のメールを確認した。確かに未読のメッセージを一通受信している。柿坂が澄子の居場所を尋ねる内容だった。
「す、すみません。気づかなかったです……というか、さっきの方がリハーサルを見に来ないかって誘ってくださったんですけど……」
途中から、柿坂が疲れた顔つきになった。どうやら、最初から仕組まれていたようだ。
それでも――。
「わたし、柿坂さんと早く会いたかったから嬉しいです。あとで、あのギターの人にもお礼を言わなきゃ。ビールと焼き鳥までいただいちゃって……」
そこで柿坂の眉が吊り上った。
「うかつに近寄るんじゃねえですよ。まあ、アンタは平気かと思いますけど」
「平気ですよ。わたしみたいなオバサン……」
思わず笑ってしまう。
すると、柿坂が首を振った。
「いや、年齢がどうこうじゃなく……」
小声で何やら言うと、柿坂は苦しそうな目で澄子を見つめた。
「実際、今日のアンタは」
「はい?」
「……いつもより」
澄子の胸の内を見透かすような眼差しに、息が苦しくなる。
――やっぱり、わたしってば心配事が顔に出ちゃうのね。
「ごめんなさい……そうなんです。ちょっと、気がかりなことがあって……」
「え」
「あの、柿坂さんに話すべき内容かわからないんですけど、聞いてもらえますか?」
柿坂は何度か瞬きをすると、咳払いをしながら缶ビールを開けた。
「……聞きましょう」
「はい」
澄子は大きく深呼吸をした。
「わたし……今回、鈴峰町に戻ってきたのは、もちろんボランティア活動も理由なんですけど……本当はきちんと過去と向き合いたかったからなんです。いつまでも、暗い気持ちを引きずりたくなくて」
「……」
柿坂は表情を変えることなく、耳を傾けている。
澄子は、この里帰りの目的が、柿坂との関係を深めるためでもあることを、今は言わないでおくことにした。
コンサート前に、変なプレッシャーをかけたくない。
「あの時の痴漢事件、わたしは中学二年生でした。季節はちょうど夏で……それ以外は本当に何も覚えていませんし、ニュースになったとか新聞に載ったとかもなかったんです。学校でも、周りから何か言われることもなかったんですけど……」
澄子は缶ビールに軽く口をつけた。アルコールの力を借りないと、思い切って柿坂に話せないような気がしたのだ。
「それで……この夏に何人か同級生と会って……さっきもクラスメートだった人に言われたんです。草むらや雑木林を異常に怖がった人間が、よく自然保護ボランティアに参加したよなって……。それを言われて、当時のこと思い出して……。もしかしたら、こうやってキッカケを与えられたら、色々と思い出すんじゃないかって。そうしたら、怖くて」
柿坂は何も言わない。ただ鋭い目で川の水面を見つめている。その眼差しに、澄子は不安になった。たまらず声をかける。
「あの……」
澄子の声色で察したのか、柿坂は小さく頷き返すと、鋭い目で見つめてきた。
「今回のボランティア活動で、野原を駆けずり回っている時は、平気だったんでしょう?」
「あ、はい。軽く熱中症にはかかりましたけど……ただ、あの時も、思い起こせば悪寒みたいなものがあって……」
そう伝えると、柿坂は少しだけ目を伏せた。
「さすがに、今すぐその答えを出すのは難しいですが……」
鋭い目が澄子に向けられる。
「アンタ……花見をした日のことは、覚えていますか」
「は……はい」
「あの時の発作は……草むらだの、雑木林だのを思い出したんですかね」
「……いえ」
――アイシテイル。
「違……います」
「……どれくらい、しんどかったですか?」
澄子は浴衣の合わせを握りしめた。
「きっと、一番、酷かったです」
そこで、柿坂が軽くうなずいてみせた。
「つまり、私と一緒にいる時に、一番酷い発作が出たんでしょう?アンタが今日になって思い出した昔の怖かった記憶も、花見の時の発作が引き金かもしれませんよ。これまでの二十五年、草むらも雑木林も、そこらじゅうにあったわけですから」
愛しい人が困ったように笑った。
「案外、私が原因かもしれませんね」
――。
「柿坂さん」
「一番酷い発作の原因……苦しくならない程度に考えてみましょうか」
澄子は膝の上に載せた両手を固く組んだ。
小さくうなずくと、柿坂が口を開いた。
「深呼吸しなさい」
「はい」
「あの時、私に言いましたよね。『柿坂さんの気持ちが知りたかっただけ』だと」
「……」
「気持ちを向けられたら、怖くなってしまうはずのアンタが、そんなことを言うのはおかしいと思いましたが……すでに、克服しかけているから、そういう欲求が出たんでしょう」
「……」
「ほとんど、治ってるんですよ。アンタに自信がないだけです」
柿坂は、小さく笑みを浮かべたまま澄子を見つめた。
その優しく強い眼差しに、澄子は涙が溢れそうになる。
「わたし、わたし……あの時、柿坂さんに言って欲しかったんです。その、あ、アイ……」
澄子がその言葉を発しようとした瞬間、柿坂が澄子を制した。
「ハッキリ言いますよ。その五文字だか六文字だかの言葉は、単なる音です」
「え?」
「聞き慣れない、言われ慣れていないから、やたら貴重で重要な言葉だと勘違いしているだけですよ。私に言わせれば、これほど自己本位、自己満足な言葉はありません」
――。
「ただの音です」
もう一度、ハッキリとそう言い放つと、柿坂はビールを飲み干した。気のせいか、その口調はいつもと違い、強い語気を感じた。
――男の人は、そう感じるのかな。
確かに、夫婦間でその『アイシテイル』を言う、言わないで揉める話を聞いたことがある。それでも、言われたら嬉しい女性が大勢いるのもまた事実だ。
とはいえ、その『言われたら嬉しい』感覚を得られていない自分が意見することはできない。
――でも。
柿坂の言葉で、澄子の胸がわずかに軽くなった。
自分にとっては、この事実の方が大切だ。
――受け止め方は、わたし次第だから。
柿坂が腕を組んで少しうなだれた。
「しかし……その、雑木林だの何だのは、よくわかりませんね。試しに、今度は私と行ってみましょうか」
「は、はい」
「体力をつけておきましょうね」
「わたしは大丈夫ですよ。今回も何だかんだで渓流まで行けましたから」
「私の方が心配なんですよ」
澄子が声を立てて笑うと、柿坂もどこか安堵したような笑みを浮かべ、大川の水面を見つめた。
あんなに不安だった心が晴れやかになる。雑木林の中も愛しい人と一緒なら大丈夫のような気になるから不思議だ。
その横顔に、心奪われる。そして、どうしようもなく気になる愛しい人の左手。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
忌まわしい記憶も、無理して思い出す必要はない気がしてきた。
このまま柿坂との時間を重ねていけば、一歩ずつその距離を近づけたように、自然と克服できるのではないか。
昔の記憶と向き合うより、何もかも忘れたまま吹っ切れてしまった方が良いのかもしれない。
――だって、大切なのは今のこの瞬間だから。
時計を見ると、ちょうど六時半になろうとしている。
澄子は、顔を赤くしながらも、柿坂に頭を下げた。
「あ、あのコンサート頑張ってくださいね。柿坂さんの演奏、すごく楽しみにしています」
そこで、柿坂がじっと澄子を見つめた。
「一緒に……ステージまで来てもらえますか」
「え?」
「見やすい席を教えておきます。あと、終わった際の待ち合わせ場所も。それと……」
メンバーに紹介します、柿坂は片方の眉を持ち上げてそう言った。
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